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2022年7月

2022年7月31日 (日)

西国分寺 駅制と五畿七道

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西国分寺 駅制と五畿七道

- 1200年前の道、東山道 -

 

前回
「姿見の池」について書いたが、
そこにあった案内板に
「国指定史跡 東山道武蔵路跡」
についての説明があった。

これ、たいへん興味深い内容だったので
少し紹介したい。

まず、基礎知識としての
「五畿七道」から。

 天皇を中心とする古代日本の律令国家は、
 7世紀後半から8世紀前半にかけて
 国の支配体制を全国に及ぼすために、
 都のある五畿(畿内5ヵ国)と、
 諸国の国府を結ぶ
 放射線状に伸びる

 七道(しちどう:東海道、東山道、山陽道、
 山陰道、北陸道、南海道、西海道)


 整備した。

案内板には
延喜式(えんぎしき:平安時代)を
もとに復元した駅路として
下記の地図がある。

P6111991sa

そしてそこには、

 総延長は実に6300kmにも及び、
 駅路の整備は
 国家の威信をかけた
 壮大なプロジェクトだった。

との説明が添えられている。
地図の赤い線。
今見ても実にreasonableなルートだ。

 七道は古代官道の名であると同時に
 諸国はいずれかの道に属すため、
 地方の行政区画ともなっている。

しかも単に道路を通しただけではない。

「駅制」

 七道には原則として
 30里(16km)ごとに
 駅家(うまや)が設けられ

 緊急の官用通信のために
 駅馬が飼育された。

 各駅には国司の補助要員として
 駅務を行う駅長が任命された。

 このような古代における
 公使・官人による
 中央と地方との交通・情報伝違の制度を
 駅制と呼び

 このことから七道は
 駅路(えきろ)とも言う。

駅路は目的地を最短距離で結ぶために、
必要に応じて山を切リ通したリ、
湿地を埋め立てるなど、
可能な限り直線的に設定されていたようだ。

 

さて、この東山道の一部として整備された
東山道武蔵路。

姿見の池のあるこの周辺では
恋ヶ窪谷の東山道武蔵路として
平成9年度(1997年)に、
発掘調査が行われた。

 ここの道跡は、
 丸太で枠をつくり木抗でおさえ、
 粗朶(そだ:アシや木の枝)を敷き、
 10-20cmの礫(れき)を敷き詰め、
 さらにローム主体土と
 黒色土を交互に積み重ねる
 「敷粗朶(しきそだ)工法」と呼ばれる
 版築(はんちく)道路の構造だった。

 これは湧水が多い谷の
 湿地に対応するため
と考えられ、
 直線道路を構築するための
 古代の土木技術を知る
 貴重な資料であるとともに
 当時の恋ヶ窪谷の自然を
 うかがい知ることができる。

敷粗朶工法による版築道路。
湿地帯での路面確保の工夫が
ちゃんと施されていたわけだ。

もう一度書く。
日本に6300kmもの幹線道路が
整備されていたのは
今から1200年以上も前
の話だ。

鎌倉時代のエピソードに由来する
「一葉松」の伝承から見ても
400年以上も前。

しかも、土木技術だけでなく
通信手段についても確立しており、
駅路に設けられた「駅家(うまや)」に
準備されている馬を乗り継いで
使者(駅使)が
中央からの命令文書である「符(ふ)」や、
地方から都への上申文書である「解(げ)」
などを迅速に運んでいた。

おそるべし、奈良時代。

 

 

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2022年7月24日 (日)

西国分寺 姿見の池

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西国分寺 姿見の池

- カワセミに会えた! -

 

これまでも、
* 妙正寺川
* 大岡川
* 目黒川
などについては、
記録を兼ねてブログに記事を残してきたが、
「気のおけない友人と
 川沿いを丸一日ぶらぶら歩く」は
休日の楽しい過ごし方のひとつだった。

ところがこの「ぶらぶら」も
ここ2,3年はコロナ禍の影響で
一時休止状態。

歩くこと自体は
もちろんいつでもできるのだが、
丸一日歩いたあとの「ビールで乾杯!」が
気持ちよくできないとなると
「よし!行こう」とならないのだ。

いったい何を楽しんでいるのだか。

 

そんな川歩きが、久々に復活した。

歩いたのは「野川」。
東京都国分寺市に水源があり、
東京都世田谷区の二子玉川で
多摩川に合流する全長約20kmの川だ。

これまでは河口から水源に向かって歩く
いわゆる遡行が多かったが、
今回は水源側から歩き始めることにした。

とはいえ、野川の水源は
「日立製作所中央研究所敷地内」という
私有地ゆえ、
さすがに立ち入ることができない。
(年に2回ほど一般公開日があるらしいが)

まぁ、水源は見られなくても、
西国分寺駅周辺は
国分寺崖線の湧水群にも触れられるので、
見どころは多い。

 

というわけで、西国分寺駅集合。
野川という川にこだわることなく
ぶらぶらと歩いていって、
適当なところで野川に合流しよう、
そんなゆるい感じで歩き始めた。

最初に立ち寄ったのは
駅からすぐ、JR中央線北側に位置する
「姿見の池」

P6111989s

その名は、鎌倉時代
恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃
遊女たちが朝な夕なに
自らの姿を映して見ていた、
という言い伝えに由来するらしい。

小さいが緑豊かな静かな池だ。

池に到着早々、そこにいた男性が
「あそこにカワセミがいるよ」
と指さして教えてくれた。

「どこ? どこ?」
教えられた方向に目を凝らすも、
意外に見つからない。

P6111986s


「いた! いた!」 発見!

P6110972s

思ったよりもずっと小さい。
そして思ったよりも色が本当に美しい。

「今日はカワセミに会えるといいね」
と言いながら歩き始めたのだが、
嬉しいことに、
偶然にも朝イチでそれが実現してしまった。

実はこのあとも
野川で再度見かけることになるのだが、
朝のこの出会いがなければ
カワセミが視野に入ったとしても
おそらく気づかなかったことだろう。

以前、
知っているものしか見えない、の一方で
なる記事の中で、
 誰の目にも映っていたのに
 誰もそれに気づかなかった。
 ところが、ある人が
 「ここにそれがあるよ」
 と指摘した途端、
 誰の目にもそれが見えるようになった。
という
科学史上の大発見のエピソードを紹介した。

目には映っていても、
実際には
知っているものしか見えないのだ。

カワセミの写真を見たことはあっても
自然の中で意識して見たのは初めてだった。
色だったり、大きさだったり、
飛び方だったり、動き方だったり、
教えてもらって実物を見たことで、
「知っているもの」として
自分に登録されたのだろう。

だからこそ、野川での再会時、
「あっ、カワセミだ!」と
発見できた気がする。

「知っているもの」を増やしてくれた
池の男性に感謝。

 

「一葉松(ひとはまつ) 」の伝承

この姿見の池は
「一葉松(ひとはまつ) 」の伝承にも
登場すると言う。
池の横の案内板によると

 源平争乱のころ、
 遊女夙妻太夫(あさづまたゆう)
 坂東武者 畠山重忠(しげただ)
 恋に落ちる。
 ところが、
 太夫に熱をあげる男がもうひとりいて、
 「重忠が平家との戦で討ち死にした」と
 嘘をつき、
 太夫に重忠をあきらめさせようとする。
 が、それを聞いた夙妻太夫は
 悲しみにくれて、とうとう
 姿見の池へ身を投げてしまった

今(2022年)放送中の
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には
中川大志さん演じる畠山重忠が
登場しているので、
ついついイメージを重ねてしまうが。

遊女に絡む
いろいろな伝承に彩られた姿見の池だが、
昭和40年代には
一度埋め立てられてしまったという。
それが、今から20数年前
平成10年(1998年)度、
昔のイメージで再整備ということになって
現在の姿にいたるようだ。

詳しい経緯はわからないが
再整備が実現してほんとうによかった。

西国分寺駅から歩いて数分、
すぐ南側にはJR中央線が走っている、
そんな位置にあることが信じられない
水と緑が美しい小さな池だ。

 

 

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2022年7月17日 (日)

ストレートのほうが変化球

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ストレートのほうが変化球

- 1秒間に40回転!のバックスピン -

 

道尾秀介さんの小説に
「N」という作品がある。

道尾秀介 (著)
N
集英社

(以下水色部、本からの引用)

この本、「本書の読み方」として
次のような始まり方をしている。

本書は六つの章で構成されていますが、
読む順番は自由です。
どの章から読み始めるのか。
次にどの章を読み進めるのか。
最後はどの章で終わらせるのか。

(中略)

読む人によって色が変わる物語を
つくりたいと思いました。

読者の皆様に、自分だけの物語を
体験していただければ幸いです。

なお本書は、章と章の
物理的なつながりをなくすため、
一章おきに上下逆転させた状態で
印刷されています

6章で構成されているため、
読む順番の組合せ数は
6P6 = 6! = 6x5x4x3x2x1 = 720
物理的には
720通りの物語が隠れていることになる。

「一章おきに上下逆転印刷」
というのもかなり大胆な決断で
実際にそうやって読んでみると
確かに本のどこを読んでいるのかが
全くわからなくなる。
紙の本でのみ体験できる不思議な感覚だ。

装幀も逆転して読むことを前提に
上下のない表紙デザインとなっている。

_n_s

と、他に例のない独特な企画部分の説明が
長くなってしまったが、
この本に
野球の投手が投げる球種について
こんなセリフがでてくる。

打者の前で落ちると言われている
フォークボールについて。

あれは自然落下に近いのだという。
もちろん少しは落ちているけれど、
その軌跡はごく普通の放物線に近い。

いっぽうでストレートは
強い上向きの回転がかかっているから、
なかなか落ちずに球が伸びる。

それと比べてしまうので、
逆にフォークボールのほうが、
すごく落ちてるように見えてしまう。

要するに、どちらかというと
 ストレートのほうが
 変化球らしいです!

これ、おもしろい視点だ。

自然落下となる放物線に近いのは
フォークボール


強力なバックスピンと球速により
ボールの上側と下側に気圧の差が生じ、
その結果、
ボールを上に持ち上げるような
「揚力」が発生、
ボールが浮き上がったように見えるのが
ストレート。
つまり、自然に落ちる軌道から見ると
上方向に「変化」させている


でも、まっすぐで落ちないボール、
つまりストレートを見慣れた目から見ると
フォークボールはすごく落ちている、
つまり変化しているように見える。

「変化」を考えるときは
基準が何か、を忘れてはいけないことを
改めて考えさせてくれる。

特に、何が「自然」か、は
意外と見誤りがちだ。
目にする機会が多いことが
自然とは限らない。

 

ちなみに、
「ストレートの回転数って
 実際にはどのくらい?」
と思って調べてみたら驚いた。

こちらに具体的な数字があるが、
2400rpm以上の選手が何人もいる。

つまりボールは
1秒間に40回転以上もの
バックスピンがかかった状態で
飛んでいっていることになる。
1秒間に40回転!
コマ以上に速く回転するボールを
時速150km以上で投げられるなんて。

ほんとうにプロの世界とは
想像を超えた世界だ。

 

 

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2022年7月10日 (日)

辰野金吾と曽禰達蔵

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辰野金吾と曽禰達蔵

- 東京・丸の内の雰囲気を作ったのは -

 

佐賀県唐津市の旧大島邸のところでみかけた
案内板のこの文言

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
・・・・

をきっかけに、先生として赴任した
高橋是清のことを調べていたら
数奇な人生に魅了されてしまい
前回までに
3回も書いてしまった。

なんとか唐津赴任までを紹介できたので、
今度は生徒のほうに目を遣りたい。

前も書いた通り、
耐恒寮(たいこうりょう)で出会ったとき、
教師 高橋是清 18歳
生徒 辰野金吾 18歳
生徒 曽禰達蔵 19歳

この年令構成を見ただけでも
興味は深まるばかりだ。

 

さて、唐津観光に戻りながら
生徒ふたりについて追ってみたい。

まずは、
今は辰野金吾記念館となっている 
旧唐津銀行本店を訪問した。

P5011870s

明治45年に竣工したレンガ造りで、
設計は田中実だが、
師である辰野金吾が監修したと言われている。

この建物は元銀行だったので、
1階はこんな様子。

P5011803s

木製カウンターと
飾り格子が美しく残されているが、
もちろん今は銀行としては
機能していない。

2階には、貴賓室

P5011839s

がそのまま残っていたりするが、
それ以外のエリアは、
辰野金吾記念館としての
展示スペースになっている。

2階入り口には、
「現存する辰野金吾建築物」
の一覧があり、
現在も多くの建物が
現役で活躍していることがよくわかる。

P5011806s

最近の話題としては
「2024年に発行される
 新一万円札の裏側に描かれる
 東京駅丸の内駅舎
 大正時代を代表するこの名建築を
 設計したのが建築家の辰野金吾だ」

新一万円札の図柄
辰野設計の東京駅が採用されたことが、
大きく宣伝されている。

 

辰野金吾は1854年、唐津城下に生まれる。
1871年唐津藩の英語学校耐恒寮で
高橋是清に感化され、
1873年工部省工学寮
(現在の東京大学建築学科)に入学。
英国人建築家ジョサイア・コンドル
教えを受けて首席で卒業。

その後
1881年25歳でロンドン大学に留学。
帰国後は
工部大学校教授、
新設の工科大学の教授の後、学長。
さらに建築学会会長等を歴任し、
日本の近代建築学会の中心的存在となる。

東京駅の他、入り口にあるように
多くの建物が現存しているが、
誰もが知っているものには、
日本銀行本館もある。

P5011841s

他にも辰野作品の模型が
いくつも並んでいる。

P5011813s
P5011815s


一方、同じく耐恒寮で
高橋是清に感化された生徒に
曽禰達蔵がいた。

同郷の辰野金吾とともに
ジョサイア・コンドルに学び、
工部大学校(現東京大学工学部)を卒業後、
三菱社に入社。

ちなみに、
辰野金吾 1854年生まれ
曽禰達蔵 1853年生まれ

に対して、師の
ジョサイア・コンドル 1852年生まれ
と、これまた若い若い先生だ。

このジョサイア・コンドルと
曽禰達蔵のコンビが
「一丁ロンドン」と呼ばれる
東京丸の内のオフィスビル街
基礎を築いていく。

曽禰達蔵の代表的な作品には
他にも
慶應義塾創立50周年記念図書館
東京海上ビルディング
などがある。

 

今、日本のオフィス街を見回したとき、
東京駅と丸の内オフィス街の
組合せが作り出す雰囲気

ほんとうに独特だ。

あの雰囲気を作り出すのに
唐津藩の小さな藩校、耐恒寮で出会った
辰野金吾と曽禰達蔵が
大きく、大きく関わっていた。

そしてその耐恒寮で、
建築家になる前の若い二人に、
東京に出て、さらに世界に羽ばたく
動機を与えた18歳の教師高橋是清。

運命とか、偶然とか、教育とか、出会いとか
歴史の面白さに改めてワクワクした
唐津訪問だった。

 

<おまけ>
最後に、唐津で出会った人々についての
棒年表を添えておきたい。

* 棒の左端の数字は生年
* 棒の右端の数字は享年
  (死んだときの満年齢)
* 棒右欄外は氏名
* 棒の色
  60歳までは20年区切り
     0-20歳  緑色
    20-40歳  青色
    40-60歳  黄色
    60歳以上 紫色

* 赤線は、耐恒寮での出会いがあった
  明治4年。

師弟関係でありながら、
師(高橋是清、ジョサイア・コンドル)と
弟子(辰野金吾、曽禰達蔵)が
まさに同年代であることが
よりよくわかる。
(図はクリックすると拡大表示されます)

Karatsubg

 

 

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2022年7月 3日 (日)

高橋是清の少年時代 (3)

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高橋是清の少年時代 (3)

- 詐欺被害から放蕩生活へ -

 

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

前回までの分を簡単に振り返ると、

 11歳のとき横浜で英語を学び、
 14歳で渡米。米国にて
 奴隷契約書にサインさせられるものの
 日本における
 江戸から明治への大転換を知り、
 帰国を決意。
 奴隷契約破棄をなんとか実現して
 帰国の途に。

 朝敵の汚名をきせられた
 仙台藩士だったゆえ
 外国人をよそおって日本に帰国。

 その後、森有礼らの助けをえて
 大学南校に入学するも
 英語が堪能だったためすぐに教官に。
 まだ16歳。

高橋少年はその後・・・


参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)


大学南校の教官になったものの、
これまで学校でちゃんとした教育を
受けた経験がない高橋は、
大学南校に教頭として招かれた
フルベッキ博士の役宅に同居しながら
歴史書を回読、
聖書の講義を聞き、
勉強に身を打ち込んだ。

ところが、ここにまた
とんでもないつまずきの原因が
あらわれた。

そして、彼は放蕩生活の
どん底へ転落していった

詳しくは本に譲るが、
大学南校の生徒のために、
250両を都合してほしい、
との依頼が高橋にくる。

もちろん本人にそんな金はないので
遠い親類の商人に頼み
なんとか都合してもらうのだが、
金を受け取った依頼人は、
「お礼の一席」を設けたいと
両国の立派な日本料理屋に
高橋を主賓として招待する。

普通なら、
ここで一ぱい食わされたと感づき、
金の回収をするところであろう。

・・(中略)・・

しかしこのばあい、
やはり数えで十六歳という
幼さを見るべきではなかろうか

金をだまし取った犯人たちが設けた
芸妓たちにちやほやされる
一席をきっかけに、
遊びをおぼえた高橋は
フルベッキ邸を出て、
放蕩生活にのめり込んでいく


あるとき芸妓をつれて
浅草の芝居をみにゆき、
芸妓の長襦袢を着て
さかんに痛飲しているところを、

大学教官に見られて辞表提出。

収入もなくなり、蓄えも使い果たし、
書物も衣類も一切売り払ってしまう。

高橋は、そのたびに
現在の自分を悔いるのだが、
溶けこんだ放蕩は
どうしても止められなかったようだ。

家主からも疎んじられるようになった高橋は
とうとう、馴染みの芸妓に
引き取ってもらうこととなる。

自分で自分に愛想がつきて

いたころ、ついにあの話がやってくる。

知り合いの世話で、
「唐津藩が英語学校をつくるので、
 その教師となって赴任する」
という話が舞い込んできたのだ。

高橋は、月給の前借りをして
*洋服を整え
*借財の始末をし
そして
*(借りた)250両の元利を
 月給から返していく証文を整えた。

かくて、
唐津藩の英学校耐恒寮の教師となって、
唐津へいったのは明治四年、
かれが十八歳ときであったから、
その意気あたるべからず、
英学を白眼視する保守派を向うにまわして、
大酒をあおりながらも、
寮の施設を
しだいにゆるぎないものにした。

駆け足ながらようやく耐恒寮赴任までを
書くことができた。

教師としての赴任とは言え、
それでもまだ18歳。

ここで、彼らに出会うことになる。

彼ら、の話は次回に。

 

 

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