地域精神保健と「住まう家」
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地域精神保健と「住まう家」
- 「くつろぎ」をどう取り戻すのか -
イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
正常と病(やまい)、
精神と身体、
地域と社会、
抑圧と自由
などについて深く考察している
松嶋 健 (著)
プシコ ナウティカ
―イタリア精神医療の人類学
世界思想社
(以下水色部、本からの引用)
から
プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
などについて見てきたが、
今日は、イタリア語の<agio>
という言葉をきっかけに
イタリアの精神保健の基盤を学んでみたい。
日本語にするのはなかなか難しいが、
「くつろぎ」であり「ゆとり」であり
「安心」であり、
機械やハンドルの「遊び」のような
意味でも用いられる。
(中略)
それゆえ、<agio>が欠けている
<disagio>の状態から
関わっていくことが
予防的な観点からしても重要になる。
イタリアの精神保健では、
社会的なレベルでの介入が必要な
「居心地の悪さ」や「生きづらさ」を
抱えた人に適切な対処がなされないと、
より医療的な介入を必要とする
「精神的な不調」へと移行すると
考えているようだ。
イタリア語の<agio>にあたる言葉を
英語で探すとすると、
それはおそらく<ease>が
最も近いと思われる。
<ease>もまさに、
「くつろぎ」や「ゆとり」「安心」や
「安楽」を意味する語であるが、
そうした<ease>が欠如した
状態としての<disease>は
普通「病気」を意味し、
特に医療人類学の文脈においては、
生物医学的に捉えられた変化としての
「疾患」を指すものとされてきた。
「くつろぎ」の欠如は疾患なのか?
「くつろげない」のは疾患だからなのか?
英語には<illness>という単語もあるが
言語による言葉の比較はおもしろい。
指し示している意味/方向性(senso)は、
ある意味で全く逆のものである。
それは生物医学的に捉えられた
「疾患」ではなく、
ある人が生きていく上で
「くつろぎ」や
「ゆとり」が欠けることで、
居心地が悪かったり、
生きづらかったりするような
状態を指している。
「くつろげる」環境の提供の意味は大きい。
精神保健の仕事は
より明快になるだろう。
それは、欠如している<agio>を
感じられるような環境を
いかにして作るか、
ということであり、
そうした環境こそが、
主体性を行使するための
ベースとしての居場所になるのである。
病院を前提に
考えなければならなかった人たちが
病院廃絶ののち
どこにどうやって住むのか。
イタリアの
地域精神保健の活動において、
最も重視されたことの一つが、
「住まう家」があることであった。
家が必要なのは、
普通の正常な生活を送るため、
というよりも、
行為の可能性を広げていくための
物理的かつ情緒的な
ベースとなる居場所としてである。
もちろんそこには、場合によっては
精神保健的サポートが必要な場合もあるが
「住まう家」があり
そこで「くつろげる」ことの価値が
大きく認識されていたことは、
地域の体制づくりにおける
重要な基盤のひとつだったと言えるだろう。
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