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2021年10月

2021年10月31日 (日)

チェコ語の小説『シブヤで目覚めて』

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チェコ語の小説『シブヤで目覚めて』

- 日本文学史に「川下清丸」? -

 

なんとも不思議な小説を読んだ。

 アンナ・ツィマ (著)
 阿部賢一, 須藤輝彦 (翻訳)
 シブヤで目覚めて
 河出書房新社

(以下水色部、本からの引用)

 

まず著者。

著者のアンナ・ツィマさんは
1991年、チェコ、プラハの生まれ。

カレル大学日本研究学科を卒業後
日本に留学。

現在は、東京を拠点にチェコ語作家として
執筆と翻訳で活躍、
高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
島田荘司 『占星術殺人事件』を
チェコ語訳で刊行したりしているとのこと。

そんなツィマさんが、
題名の通りシブヤを舞台にした小説を
チェコ語で発表した。

すると、
チェコ最大の文学賞
マグネジア・リテラの新人賞、
イジー・オルテン賞(ともに2019年)
を受賞し、2019年のチェコ文学の
新人賞をほぼ独占してしまったというのだ。

いったい、どんな小説なのだろう?

まさに興味本位で読んでみることにした。

 

簡単にその内容を紹介したい。

(P1) 大学生ヤナは、チェコの首都プラハで
  日本文学を研究している。

(P2) ある時、ヤナは明治時代に生まれた
  「川下清丸」という作家に
  惹かれるようになり、
  川下の作品を
  少しずつ訳していくようになる。

(S1) 一方、東京シブヤのハチ公前には、
  日本を訪問した際に、
  いつまでもここにいたい、と願った
  ヤナの「想い」だけが存在していた。
  人からは見えない、
  まさに幽霊のような状態で
  「想い」は街をさまよっている。

前半は
(P1)のプラハ、(S1)のシブヤでの話が
交互に並行して進んでいくが、
後半は、
(P2)の川下清丸という作家を軸に
話が大きく動き出す。

「プラハ 対 シブヤ」
「現代 対 (川下のいた)大正・昭和」
空間的にも時間的にも、
まさに多層的に物語は進行する。

しかもその中には(P2)での
川下清丸の小説の訳も含まれているので
自動的に川下の小説を読むことにもなる。

「分裂」や「分身」といった
小説全体のベースとなるテーマにも
重なりながら、
二重の読書体験が楽しめるような
仕掛けまで施されている。

加えておもしろいのは、
「川下清丸」なる作家は
ツィマさんの創作による
完全に架空の作家なのに、

1936年2月2日、(中略)
『文学界』の第4号に、横光利一
半年にわたるヨーロッパ旅行を前にした
歓送会を描く文章が発表された。

12人の作家が参加したが、
その中には小林秀雄川下清丸もいた。
全員、横光よりも年下だった

のように、
実在の作家を実名で次々と登場させて
日本の読者をかなり混乱させてくる。

横光利一、小林秀雄、菊池寛、
川端康成、久保田万太郎、
開高健、東野圭吾、村上春樹らの名前が
自然な会話のなかにそのまま
違和感なく登場してくるので、
フィクションとの境目を見失ってしまう。

言ってみれば、
日本の文学史に
「川下清丸」なる作家を
スルリと埋め込んでしまっているのだ。

しかも、
「1902年8月16日、埼玉・川越で
 絹商人の家庭に生まれ・・・」
とその人生も詳細に明らかになっていく。

登場する作家の名前を見るだけでも
ツィマさんの日本文学への関心の深さを
痛感するが、それだけでなく
(P2)で訳出される川下の作品は
文体自体も昭和初期を感じさせるもの
なっていて、さらに驚かされる。
(ここが元のチェコ語で
 どう表現されているのかは
 たいへん気になるところだが、
 もちろん私にはそれを確かめようがない)
訳者の阿部さん、須藤さんと
どんな打ち合わせがなされたのだろう。
いずれにせよ
全体を貫く本文自体は軽快な文体ゆえ、
川下との対比で日本語の文体の違いも
おおいに楽しむことができる。

20代で本書を書き上げたツィマさん。
若き才能の挑戦とアイデアに
拍手を送りたい。

今後、どんな作品を
発表してくれることだろう。

 

 

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2021年10月24日 (日)

総計133巻142冊の大全集

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総計133巻142冊の大全集

- 100年を越えて蘇る「研究ノート」 -

 

前回、ベストセラーとなっている

 斎藤幸平 (著)
 人新世の資本論
 集英社新書

(以下水色部、本からの引用)

について、

 この本のことを
 ブログで取り上げたいと思ったのは、
 未来社会への提案の
 中身そのものではなく
 本の中で何度も説明されていた
 マルクス研究の背景が
 たいへん興味深かったからだ。

と書いた。

今日はその部分に絞って紹介したい。

 

この本、
「ここからが、いよいよ本題である」
が本のちょうど真ん中あたり
(370ページ超の本の179ページ目)
にまで来てようやく登場するのだが、
そもそも私には
資本主義の見方についての基礎知識が
ほとんど何もなかったので、
途中いくつもの?が浮かぶものの
本題の前提となる話自体も
おおいに楽しむことができた。

世間一般でマルクス主義といえば、
ソ連や中国の共産党による
一党独裁と
あらゆる生産手段の国有化
というイメージが強い。

そのため、時代遅れで、
かつ危険なものだ
と感じる読者も
多いだろう。

実際、日本では、ソ連崩壊の結果、
マルクス主義は大きく停滞している。
今では左派であっても、
マルクスを表立って擁護し、
その知恵を便おうとする人は
極めて少ない

なのになぜ、今、

マルクスならば、
「人新世」の環境危機を
どのように分析するのかを
明らかに

しようとするのだろう。
というか、
なぜそんなことが可能なのだろう。

実は、近年MEGA(メガ)と呼ばれる
新しい『マルクス・エンゲルス全集』
(Marx-Engels-Gesamtausgabe)
の刊行が進んでいるのだ。

日本人の私も含め、
世界各国の研究者たちが参加する、
国際的全集プロジェクトである。

規模も桁違いで、最終的には100巻を
超えることになる。

今年(2021年)の1月に放送された
NHK Eテレ「100分de名著」の
「資本論」の回で著者の斎藤さんは、
「すでに120冊」が刊行されていると
言っていた。

このMEGA(メガ)、
いったいどんな全集なのだろう。

はじめて公開されることになる
新資料も含めて、
マルクスとエンゲルスが
書き残したものは
どんなものでも網羅して、
すべてを出版する
ことを
目指しているのがMEGAなのだ。

私は全く知らなかったのだが、
Wikipediaには
「1975年から刊行がはじまり(中略)
 総計133巻142冊の構成が確定した」
とまである。
しかも
「すべての著作には、
 著者であることの証明や日付の証拠、
 継承された手稿と
 正当性を認められた印刷物の
 正確な記述をふくむ成立と
 継承の歴史が表されている」
と内容の厳密さも確保されているようだ。

なかでも
とりわけ注目すべき新資料が、
マルクスの「研究ノート」である。

マルクスは研究に取り組む際、
ノートに徹底した抜き書きをする
習慣をもっていた。

亡命生活でお金もなかったため、
ロンドンの大英博物館で、
毎日、本を借りては、閲覧室で
抜き書きを作成したのである。

『資本論』の研究は
これまでももちろん精緻になされてきたが、
『資本論』においてさえ、
マルクスは自身の最終的な認識を
十分に展開できていなかったようだ。

というのは、『資本論』第一巻は
本人の筆によって完成し、
1967年に刊行されたものの、
第二巻、第三巻の原稿執筆は
未完で終わってしまった
からだ。

現在読まれている
『資本論』の第二巻、第三巻は、
盟友エンゲルスが
マルクスの没後に遺稿を編集
し、
出版したものにすぎない。
そのため、
マルクスとエンゲルスの
見解の相違から、編集過程で、
晩年のマルクスの考えていたことが
歪められ、見えにくくなっている箇所も
少なくない。

なぜなら、
マルクスの資本主義批判は、
第一巻刊行後の1968年以降に、
続巻を完成させようとする苦闘のなかで、
さらに深まっていったからである。

いや、それどころか、
理論的な大転換を遂げていったのである。

つまり、著作にならなかった研究が
大量の「研究ノート」から
読み解ける
というわけだ。

そういった研究ノートをも含む
大全集の規模をもう一度書いておきたい。
完成すれば総計133巻142冊!

斎藤さんのこの著書も
そういった新資料から見えてきた
これまでにはなかったマルクス像を
提示してきている。

 

著作だけでなく「研究ノート」までもが
死後100年を越えてなお
世界中の多くの学者によって
研究され続けているという現実、
しかも、読み解くと
そこには現代にも通じる数々の
有益な示唆が含まれているという現実、
マルクスという人物の偉大さには
驚かされるばかりだ。

一方で、考えてしまうのは
現代の「研究ノート」だ。
「研究ノート」はPCの中、
つまり電子ファイルで、という学者も
今は多いのではないだろうか。

マルクスに限らず、
著作や論文にならない研究内容や
思い悩む思考の過程が、
そこにはあるはずだ。

マルクスの研究ノートは
紙で残っていたからこそ
100年後も読むことができた。

電子ファイルはどんな媒体で、
どんなフォーマットで残るにせよ、
100年後も読むことができるだろうか?

 

 

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2021年10月17日 (日)

SDGsは現代版「大衆のアヘン」か

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SDGsは現代版「大衆のアヘン」か

- 目を背けても危機はなくならない -

 

そもそも経済学というものに
あまり興味がないせいか
マルクスのことも、資本論のことも
共産党宣言のことも、これまで
ほとんど何も知らなかった。

ところが、
今年(2021年)の1月に放送された
NHK Eテレ「100分de名著」の
「資本論」の回を見て以来、
資本論そのものは読みこなせなくても、
関連書籍は読んでみたいものだ、
と思うようになった。

というわけで手にしたのが、
番組での講師もつとめていた
斎藤幸平さんの著書

 斎藤幸平 (著)
 人新世の資本論
 集英社新書

(以下水色部、本からの引用)

新書大賞2021を受賞したことも
関係するのか、今(2021年10月)でも
本屋で平積みになっていることを
よく目にするベストセラーだ。

 

かつて、マルクスは、
資本主義の辛(つら)い現実が
引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を
「大衆のアヘン」だと批判した。

SDGsはまさに
現代版「大衆のアヘン」
である。

と、「SDGsと言っておけばいい」の
昨今の風潮に対して、かなり挑発的な
「はじめに」で始まっているが、

アヘンに逃げ込むことなく、
直視しなくてはならない現実
は、
私たち人間が地球のあり方を
取り返しのつかないほど
大きく変えてしまっている
ということだ。

と、対処療法的流行に流されることなく
「直視する現実」を
そして未来社会への提言を
マルクス研究者の立場から
わかりやすくまとめてくれている。

そもそも題名にも使われている
聞き慣れない「人新世」とはなんだろう?

人類の経済活動が地球に与えた影響が
あまりに大きいため、
ノーベル化学賞受賞者の
パウル・クルッツェンは、
地質学的に見て、
地球は新たな年代に突入したと言い、
それを「人新世(ひとしんせい)
(Anthropocene)と名付けた。

人間たちの活動の痕跡が、
地球の表面を覆いつくした年代

という意味である。

繁栄をめざしていた「人間たちの活動」は
皮肉なことに
自らの繁栄の基盤自体を揺るがしつつある。

そこでは

SDGsは
アリバイ作りのようなものであり、
目下の危機から
目を背けさせる効果しかない

格差が広がり、自然が破壊され、
「モノは豊かにある。でも金がなければ
 何も手に入らない」の現代社会は
このままでいいのか?
豊かな未来社会に向けて、
何をしていくべきなのか?
そもそもめざすべき「豊かさ」とは何か?

後半、斎藤さんの提案も
具体的に述べられていくが、
その内容については
ご興味があるようであれば
ぜひ本を手にとって読んでいただきたい。

私ごときが簡単にブログで
まとめられるような内容ではないので。

実は、この本のことを
ブログで取り上げたいと思ったのは、
本筋というか
「提案の中身」そのものではなく
そこで何度も説明されていた
マルクス研究の背景が
たいへん興味深かったからだ。
次回、その部分に絞って紹介したい。

 

 

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2021年10月10日 (日)

「今何が起きているのか」を見つめる感性

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「今何が起きているのか」を見つめる感性

- 子どもたちから学べること -

 

雑誌「中央公論」2021年9月号に
掲載されていた
独立研究者 森田真生さんと
大阪市立大学准教授 斎藤幸平さん
との対談
 豊かな未来のための
 「脱成長」戦略

(以下水色部、記事からの引用)

から、先週に引き続き
もう一箇所紹介したい。

様々な活動を通じて
子どもたちとよく接している
森田さんらしい指摘だ。

森田:
僕は、危機において
主体を強くしていこうとする発想には
懐疑的です。

たとえば
大人と子供が一緒にいる場面
想像してみてください。

子供たちはテーブルの下で
かくれんぼをしたり、
本棚に上ってジャンプしたりして
遊び始める。

それを見ると、
大人はつい自分たちが知っている
"意味"を振りかざそうと
してしまう


「テーブルは食事をする場所だから、
 上がらないで」
「本棚は本を収めるところ」と。

確かにそんな時、
「意味を振りかざして」しまいそうだ。

森田:
この場合、
強い主体であろうとしているのが
大人の方です。

でも結局は、大人は
生き生きと遊ぶ子供たちの
主体の弱さに翻弄されてしまう。

子供たちは、
大人が設定した世界に
反旗を翻しているわけではありません

みずからの正しさを
主張しているわけでもない


彼らは大人が生きている世界の中で、
その世界の配置のまま
世界のあらゆる構成要素を、
それまでとはまったく違う意味で
使い始める。

斎藤:
なるほど。面白いですね。

「その世界の配置のまま」が
キーワードだろう。

振りかざしてしまう「意味」を
どの世界にでも
押し付けようとしてしまうのが、
押し付けて考えてしまうのが大人だ。

「その世界の配置のまま」
テーブルや本棚を捉えるとどうなるのか、
子どもから気付かされることは多い。

森田:
強い主体として
意味をコントロールしようとしている
大人よりも、既存の世界を
別の意味で遊び始める子供たちの方が
その場を支配してしまう。

これはいろいろな意味で
示唆的な構図だと思います。

問題を一方的に特定し、
これをとにかく解決するのだ

という考えそのものが
孕んでいる暴力性があります。

それよりも、
今何が起きているのかに、
まずはしっかり感性を
開いてみることが必要
ではないでしょうか

斎藤さんは、
「マルクス研究者としては、
 ソ連がまさにそうした"暴力"に加担し、
 失敗したという反省があります」
と述べている。

日本で、世界で、
「今何が起きているのか」を見つめる感性。
意味や固定観念で
ついつい見てしまいがちな大人たちは
子どもから学べることも多い。

 

 

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2021年10月 3日 (日)

絶えず欠乏を生み出している

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絶えず欠乏を生み出している

- あらゆるものを「商品」にするために -

 

雑誌「中央公論」2021年9月号 に、
 豊かな未来のための
 「脱成長」戦略

とのタイトルで
独立研究者 森田真生さんと
大阪市立大学准教授 斎藤幸平さん
との対談が載っていた。
(以下水色部、本からの引用)

おふたりの主な研究分野と生年を書くと、
森田さんが  数学で1985年生まれ、
斎藤さんが経済思想で1987年生まれ、
と、研究分野が大きく違う
若き二人の対談だ。

その中にこんなやりとりがあった。

森田:
斎藤さんのご著書を読み、
読み、僕自身、自分がいかに
「商品」という発想に
縛られてきたかを痛感しました。

特に印象的だったのが、
カール・マルクスが若いころ、
地元紙に木材盗伐についての記事
何度も書いていたという話です。

木材盗伐の記事とは・・・

斎藤:
マルクスが1842年に
『ライン新聞』主筆になったころの話
ですね。

当時は資本主義という
新しいメカニズムが、
ドイツの人々の暮らしを
激変させていました。

その象徴が、
森で枝を拾い集める行為を
「窃盗」と断じる法律が
できた
ことです。

貧しい人々が煮炊きをしたり、
暖をとったりする
薪の材料だった枝は、
マルクスが「富」と呼ぶ、
みんなの共有財産=コモンでした。

それを地主が私有財産として
囲い込んだ。

マルクスはこの法律を
何度も新聞で取り上げ、
資本家が「富」を
「商品」におきかえて
利益を独占する資本主義システムを、
痛烈に批判しました。

元来、土地も森林も河川も、
人々の間で共有・管理される「公」
だったはずだ。
それが、資本主義の勃興期、
私有地として囲い込まれ、
その後、無償だった自然の恵みも
次々と「商品化」されていくことになる。

斎藤:
私たちは資本主義が豊かさを
もたらしてくれると
思い込んでいますが、
実際のところ、
資本家が追求するのは利益であり、
そのために商品の「希少性」が
人工的に生み出されます


土地や物を囲い込み、
あらゆるモノに希少価値をつけて
利益を得ようとする結果として、
豊かさどころか、
絶えず欠乏を生み出している

作られた希少性から導き出された
「商品」の「価値」は
たとえそれが高価であったとして
「豊かさ」ではない。

あらゆるものを「商品」とみなす考え方に
あまりにも慣らされてしまっているが、
改めて「価値」や「豊かさ」について
考えてみたくなる象徴的なエピソードだ。

 

 

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