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2021年9月

2021年9月26日 (日)

内に向かっていく無限もある

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内に向かっていく無限もある

- 植物観察家からのメッセージ -

 

「植物観察家」を名のる鈴木純さんの

鈴木純 (著)
 そんなふうに生きていたのね
 まちの植物のせかい
雷鳥社

(以下水色部、本からの引用)

は、たいへんおもしろい本だ。

この本は図鑑でも専門書でもなく、
植物に対する〝私の視線〞を
表現するという、
全く新しいつくりの本
です。

まちなかで
植物を見つけるところから始まり、
私がなにを
どのように面白そうと思ったか、
あるいは疑問に感じたかをご紹介し、
そのあとに植物を拡大して見たり、
触れたり、嗅いだりしながら
驚きの発見をしていく、
植物観察のアイデア集のような本です。

と最初にある通り、
まちでよく目にする植物を
とにかくよぉーく見て、
徹底的に楽しんでしまおうという
ユニークな視点で構成されている。

アスファルトの隙間でよく目にする
「ツメクサ」のような
身近で簡単に見つけられる植物が
数多く登場するが、私などは、
普段いかに何も見ていないかを
痛感させられる。

* 葉柄内芽(ようへいないが)
* 花外蜜腺(かがいみつせん)
* 托葉(たくよう)
* 雌雄異熟(しゆういじゅく)
* 唇弁(しんべん)
* 花粉塊(かふんかい)
といった植物の生態や生存戦略に関わる
専門用語の解説も含まれてはいるが
本の中心にあるのは
とにかく植物をよぉーく見ること。

中のコラムにこんな一節があった。

母校である東京農業大学の造園科には、
”葉っぱテスト”という試験があった。

キャンパス内で見られる樹木180種を、
葉の特徴だけで
見分けられるようにする
という
ものなのだが、

これが1年次の前期の課題で
行われるのだからさぁ大変。

農大というと、
さも自然好きな人間が集まる
学校のようなイメージがあるが、
現代の農大生はいたって平凡。
これまでに植物の名前を知ろうなんて
考えたこともない生徒が大半だ。

180種の樹木を葉の特徴だけで見分ける、
いい試験だ、というよりも
これができたらなんてステキだろう。

まずは先生陣が総がかりで、
新入生に木の名前を教え込んでいく。

らしい。その過程で、鈴木さんは
植物観察のおもしろさに目覚めていく。
 
植物の不思議な生態の詳細は本書に譲るが
この本の魅力は、
図鑑的な植物に対する知識ではなく、
「観察」自体がもつ楽しさや発見の
ワクワク感がどのページからも
伝わってくることだ。

私の最大の強みは
植物に対する驚きや感動の気持ちが、
まだ自分の中に瑞々しく
残っていること
だと思っています。

今だから書ける、いえ、
今しか書けない植物観察本である
という意味では、自信を持って
楽しく書かせていただきました。

鈴木さんは、
「内に向かっていく無限もある」
という言葉を使っているが、
ごくごく身近にも
無限の世界が広がっていることは、
植物観察という窓を通じても
こんなふうに気軽に味わうことができるよ、
と語りかけてくれているようだ。

遠くに行くから世界が広がるわけではない。

 

 

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2021年9月19日 (日)

三浦綾子「続 氷点」からの一文

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三浦綾子「続 氷点」からの一文

- 残るのは「与えたもの」 -

 

朝日新聞の夕刊(2021年8月4日)
「時代の栞」というページで
1965年に刊行された
三浦綾子さんの小説「氷点」
のことが取り上げられていた。
(以下緑色部、記事からの引用)

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1963年元日、朝日新聞の一面に
「新聞小説募集 入選作に一千万円」
という見出しが躍った。
・・・
大学卒の国家公務員の初任給が
1万7千円前後だった時代の話だ。

すごい賞金を用意したものだ。
2021年の大卒国家公務員の初任給は
23万円強だから、
今なら「賞金 1億3千万円」
ということになる。

当選後、1964年12月に新聞で連載開始。
小説は大ヒット。
原作をもとに制作されたTVドラマは
関東でのテレビ占拠率が66.6%に
のぼったという。

1970年「続 氷点」連載開始。

57年も前のことゆえ、
さすがにリアルタイムで
連載小説を読んだわけではないが
のちに本で読んだ小説は
強く印象に残っている。

そのあらすじや宗教的な背景について
本ブログで触れるつもりはないが、
この小説に関しては、
どうしても紹介したい言葉があるので
今日はその部分のみ
ピックアップしておきたい。

言葉は「続 氷点」から。

三浦綾子 (著)
 続 氷点
角川文庫
(以下水色部、本からの引用)

紹介したいのは次の一文。

一生を終えてのちに残るのは、
われわれが集めたものではなくて、
われわれが与えたものである

なんとも深い言葉ではないか。

ついつい集めてしまいがちだ。
所有しようとしてしまいがちだ。
でも、集めたものは
その時、本人にとって価値はあっても
最終的にはどこにも残らない。

一方で、与えたものはどうだろう。
それはもちろん金品に限らない。
与えたものは、
形を変えながらも
いろいろな形で残り続ける。

以前、本ブログ、
バーンスタインの指揮
と題した記事の中で
 If you love something, give it away.
「何かを愛しているなら
 それを与えること
という言葉も紹介した。

「与える」ことで
生涯を越えて永く残り続ける。

だからこそ、愛しているものほど
「与える」ことに意味があるのだ。

何度でも振り返りたい言葉のひとつだ。

 

 

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2021年9月12日 (日)

「ノヴェンバー・ステップス」琵琶師 鶴田錦史

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「ノヴェンバー・ステップス」琵琶師 鶴田錦史

- 琵琶が軸にある波乱万丈の人生 -

 

立花隆 (著)
「武満徹・音楽創造への旅」
文藝春秋

(以下水色部、本からの引用)

から、
「ノヴェンバー・ステップス」初演前のリハーサル
「ノヴェンバー・ステップス」指揮者のひと言
「ノヴェンバー・ステップス」2週間の事前合宿
「ノヴェンバー・ステップス」決闘と映画音楽と

と名曲「ノヴェンバー・ステップス」
に関する話を続けてきたが、
今回で最後としたい。

最後にどうしても触れておきたかったのは
琵琶を担当した鶴田錦史さんについてだ。

鶴田錦史さんって?、という方は
ここにリンクを貼った
動画を見ていただき、
その演奏と容姿を確認いただければ、と思う。

そのうえで紹介を始めたい。

 

実をいうと、
「ノヴェンバー・ステップス」は、
鶴田錦史を「頭において」どころか、
「すぐそばにおいて」
作曲されたのである。

「ノヴェンバー・ステップス」は
武満が長野県小諸近くの
御代田に持つ山荘に
3ヵ月間閉じこもって作曲されたのだが、
その間鶴田は、
そのすぐ隣りに別荘を買って、移り住み

武満の求めに応じて、
琵琶のあらゆる奏法を解説し、
武満の考案した独特の記譜法で
書かれた譜に従って
音を出してみせるという形で、
作曲を助けたのである。

「別荘を買って移り住み」??
もうこの一行で
興味を抱かないわけにはいかない。

その鶴田さんのことを
武満さん自身も次のように書いている。

鶴田さんは、私が、
真に精神的な師匠と呼べるひとだ

音楽家として傑れているばかりではなく、
人生の達人でもあられるし、
その人格は無垢で、
これは大先達に対して礼を失することに
なりかねないが、時に、
まるで幼児のように無邪気で、
その豊かな人間的な滋味は量りしれない

いったいどんな方なのだろう?

実はちょっと変わった経歴をお持ちだ。

鶴田錦史は、1911年
北海道滝川市生まれで、
本名をキクエといった
(1964年に戸籍を変更し、
 芸名の錦史を本名とした)。 

「本名 キクエ」
えっ!?と思った方。
はい、私も思わず読み返してしまいました。

そうなんです。

鶴田錦史の
舞台や写真を見たことがある人は
ご存知の通り、
鶴田はいつも男装である。

洋装のときは背広にネクタイだし、
和装のときは紋付き羽織袴である。

顔付きも男だし、声も男である。

おまけに名前も男性風だから、
たいていの人は
鶴田を男だと思ってしまう

演奏動画は何度も見ているし
CDまで持っているのに
女性ということは
この本で初めて知った。

鶴田さんは

7歳の頃から琵琶を学んだ。
驚くほど上達が早く、
早くも12歳で演奏活動を開始する
とともに、弟子も取り、
13歳でレコードを吹き込み
(「白虎隊」三枚組)、
16歳でNHKに出演するなど、
天才児の名をほしいままにした。

その後、お弟子さんも増えていき
まさに順風満帆だったのだが、
ある日突然琵琶をやめて、
実業界に乗り出してしまう。

その理由をこう語っている。

「あの世界の裏側には、いろいろ
 きたないものがありましてね、
 それがいやになってしまったんです


 結局、お金なんですね。
 弟子がふえると、
 演奏会をやるでしょう。

 わたしのところは、
 最盛期500人くらいいたわけですから、
 結構な会をやるわけです。

そんなとき、
実力主義でやりたいと思っても、
流派を盛りたてて、
琵琶の世界で食っていこうとする限り、
金持ちの弟子をチヤホヤし、
いい場所に出してやる、みたいなことを
しなくちゃいけない事情から
逃げることができなかったのだ。

 それがいやになったんですね。

 要するに琵琶で食べようとするから
 こうなるのだ。
 いやなものはやめちゃえばいい。
 稼ぐのはよそで稼いで、
 琵琶はその稼いだ金で、
 好きなようにやればいいのじゃないか


 どんな手段でも金が儲かればいい。
 とにかくまず稼ぐことだと考えて、
 商売をはじめたわけです」

で、水商売を始めるのだが
こちらも大成功!

江東区の亀戸駅前で、東京でも
有数の巨大なナイトクラブを経営し、
喫茶店、レストラン、飲み屋などを
何軒も持ち、
貸しピル、マンションなども
複数所有して
不動産業も営んでいたから、
一時期は、江東区の
高額所得者ランキングの常連
だった
のである。

「稼ぐのはよそで稼いで」を
実現させてしまった鶴田さん。

 商売が成功してからは、
 実力はあるけれど
 お金がない弟子たちを、
 ナイトクラブの社員という形にして、
 月給を与えて
 養成したりもしていました

そんな中、芸術祭参加公演にて
武満さんとの運命的な出会いを
果たすこととなる。

その後、

武満との
「怪談」での仕事をきっかけに、
鶴田は再び琵琶の世界にのめりこみ、
それまでの実業家としての成功を
すべて投げ捨ててしまう
ことになる

そして、それまでの成功で蓄えた
巨額の資産も
ほとんど使い尽くしてしまう。

「いまは琵琶だけの生活です。
 琵琶の世界に戻ってから、
 まず、水商売を
 全部やめてしまいました。

 そのあとしばらくは、
 貸しビルやマンションを
 やっていたんですが、だんだん、
 そういうものも
 全部売り払ってしまいました

 琵琶なんて、
 お金が儲かるわけじゃなくて、
 持ち出しですから

 お金はどんどんなくなっていくんです。

 でも、もともと、
 あたしの資産は、
 いずれ琵琶の世界に戻ることを
 目ざして蓄えていたものですから、
 これでいいんです。

 みんな自分の才覚で
 貯めたものですから、
 全部使いつくして
 死ねればいいと思ってるんです

1995年4月4日没 享年83。
もう一度演奏を聞きながら
合掌したい。

 

 

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2021年9月 5日 (日)

「ノヴェンバー・ステップス」決闘と映画音楽と

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「ノヴェンバー・ステップス」決闘と映画音楽と

- 新しい試みのうらにある交友関係 -

 

立花隆 (著)
「武満徹・音楽創造への旅」
文藝春秋

(以下水色部、本からの引用)

から、
「ノヴェンバー・ステップス」初演前のリハーサル
「ノヴェンバー・ステップス」指揮者のひと言
「ノヴェンバー・ステップス」2週間の事前合宿

と名曲「ノヴェンバー・ステップス」
初演にむけて様々なエピソードを
紹介してきたが、
曲そのものは専門家の眼から見て
どううつっていたのだろう。

ここにリンクを貼った
演奏を聞いていただければわかる通り、
その特徴はなんと言っても、
尺八と琵琶が作りだす独特な世界だ。

小澤さんもこう語っている。

特にあの深い精神性に打たれました。
精神と音楽が
くっついているという感じだった。

そして、つくづく思うんですが
あの曲は二人の合奏というより、
二人の決闘みたいなものですね


西洋人にもそれがわかるんです。

二人の闘いが
火花を散らせば散らすほど、
聴衆が沸く。

ぼくなんかいってみれば、
決闘の介添人みたいなものです。

どうしても強烈なソロの2楽器に
目を奪われてしまうが、注意して聴くと
オーケストラも新しい響きに溢れている。

やっぱり、尺八や琵琶と
対話させるというので、
オーケストラの側にも
新しい音を出させたい
ということ
だったんじゃないかな。

(中略)

ブラスの強い持続音なんかも、
明らかに尺八を意識してるんですね。
西洋のオーケストラ楽器の持っている
いろんな機能とか、コードとか、
リズムとか、持続音とか、
あらゆる要素を駆使して、
武満さんは新しいオーケストラの音を
作っているんです

 

一方で、作曲した武満さんにとっては、
音楽における「時間構造の探求」という
流れの中に位置づけられる作品でもあり、
武満さん自身

小澤君は、
『これは対話だね』
と言っていたけれども、
そういう意味じゃないんだ、
対話なんかできっこないんだ。
まったく違うものを、
二つ同時にやるんだ

とかなり刺激的なコメントをしている。

演奏時『縦が合わなくてもいい』
と言うような作品を発表したり、
一つの曲の内部に複数の時の流れを
持ち込もうとしたり、武満さんは
まさにさまざまな試みに挑戦している
ころだった。

一つの作品の中に
異質の時間の流れを
持ち込んでみたら
どうなるか
というのが、武満の問題意識だった。

 

ところで、武満さん、
こういった演奏会用の作品だけを
自分が思うままに
自由に作っていたわけではない。

なぜなら、ご本人曰く

作曲家というのは、
 自分の音楽作品だけでは
 絶対食えません


 どうしても、食うためには、
 映画やテレビの
 いわゆる劇伴の仕事を
 やらざるをえないんです」

だからだ。

「ノヴェンバー・ステップス」発表前の数年
じつに精力的に映画音楽の仕事をしている。

「食べるために
 やりたくない仕事までやる
 という意味なら、それはありませんが、
 結果的に
 自分が満足できない作品に終る
 ということは、映画の場合ありますよ。

 映画は台本の段階で
 やるかやらないか決めるわけです。

 すると、台本はよかったけど、
 できたものはどうしようもない
 ということがあります。

 それから、
 監督と意見が合わない場合
 どうするかという問題もあります」

担当した映画の監督には、
大島渚、市川崑、勅使河原宏
小林正樹
といった名前が並ぶ。

そのひとり、篠田正浩さんは
こんな思い出話を披露している。

-そうやって次々に仕事を
 いっしょにするようになると、
 日常生活でもよく会ってたわけですか。

「ええ、武満が
 赤坂に住んでいたころなんか、
 ほとんど毎日のように
 会ってましたよ。

 よく篠田桃紅とか、寺山修司が
 いっしょでした。

 武満と一柳(慧)と湯浅譲二と
 四人でマージャンをしたり、
 なんだか毎日
 不思議な取り合わせの人間で、
 しょっちゅう会ってました

篠田正浩、篠田桃紅、寺山修司
一柳慧、湯浅譲二、武満徹

なんともすごいメンツだ。

いったいどんな話をしながら
卓を囲んでいたのだろう。
お互い、新しい試みに向けて
刺激しあっていたに違いない。

 

 

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