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2021年5月

2021年5月30日 (日)

responsibility(責任)とは

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responsibility(責任)とは

- 結論がでるまで動こうとしていない -

 

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社

(以下水色部、本からの引用)

を読んで

 * 「状況」に参加できる「身体」
 * 世界自身が、世界の一番よいモデル

について紹介した。

本から、もういくつか
印象深い言葉をピックアップしたい。

現代の認知科学者は、
生物の認知を
特徴づける重要な性質として、
 身体性(Embodiment)
 状況性(Situatedness)
脳内だけでなく環境の情報を生かして
判断や行為を生成していく
 拡張性(Extendedness)
などを指摘している。

スポーツ選手に求められるのは、
まさにこうした生命らしい知性だ。

一度開始の笛が鳴れば、
試合は待ったなしで進行していく。
選手にとって大切なことは、
試合を描写することでも
理解することでもなく、
進行し続ける試合の流れに
参加すること
である。

我々が生きていくということは
まさに参加していることだ。

その参加している世界で今、
我々は何をしているであろう?

地球温暖化についても、
生物多様性の喪失についても、
計算ばかりしていて、まさに

結論がでるまで
動こうとしていない

なんとも耳の痛い指摘だ。

 

子どもが危険な道路に
飛び出そうとしているとき、
果たして本当に轢かれるのか、
あるいは、
轢かれる確率がどれくらいなのか、
それを計算していては
間に合わないのだ。

十分な理由を見つけるまで
動かないことはこの場合、
それ自体が倫理に背く行いになる。

そんなとき、どうしてきたのか。

目の前で子どもが道路に
飛び出そうとしているのを目撃したら、
思わず手を差し伸べるだろう。

考える前にパスを出す
スポーツ選手のように、
気づいたときには
子を助けようとするだろう。

これこそが、
字義通りの「responsibility」
である。

「responsibility」は
「責任」とも訳されるが、
文字通りには、
「応答(respond)」する
「能力(ability)」

のことだ。

これまで、さまざまな場面で
生物としての応答能力を発揮してきた
我々は今、どうなっているだろう。

溶解していく氷床や、
失われていく生物多様性、
崩壊していく海洋生態系などの
環境の異変に対して、
私たちは幼子に対するのと同じように
速やかに応答することができていない。

まるで、
道路に飛び出す子を前にしながら、
轢かれる証拠が揃うまで
動こうとしない機械のように、
計算ばかりしていて動かない

機械が人間に近づくのではなく、
人間がまるで機械のように、
目前の状況に
応答する力を発揮しないまま、
計算に耽溺している
のだ。

 

米国の哲学者
ヒューバート・ドレイファスは
すでに半世紀前に

計算機が人間に近づいていくより、
むしろ、
人間が計算機に近づいていく
未来の危険性
を説いた。

人間を超える知能を持つ
機械の出現ではなく、
人間の知性が機械のようにしか
作動しなくなることをこそ
恐れるべきだと語った

と言う。

近年
シンギュラリティなる言葉とともに
人間を超える知能を持つ機械の出現が
話題になることが多いが、
ほんとうの危険性は「機械が」ではなく
むしろ「人間が」のほうにあるのだ。

 

 

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2021年5月23日 (日)

世界自身が、世界の一番よいモデル

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世界自身が、世界の一番よいモデル

- 頭だけでは知能になれない -

 

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社

(以下水色部、本からの引用)

を読んで興味深いエピソードを
紹介する2回目。

前回
掃除ロボット「ルンバ」の
生みの親として知られる
ロドニー・ブルックスが
ロボットを制御するための
新しい設計について、
原理的な考察を始め、当時の問題が

ロボットが動くためには、
 外界のモデルを
 あらかじめ構築する必要がある


というそれまでの科学者の
思い込みにあるという結論に達した。

というところまで書いた。

外界の情報を「知覚」して
内部モデルを構築し、
計画を立ててから「動く」と
あまりにも時間がかかりすぎる。

そこで、ブルックスは
一連の長々しい過程を、
2つのステップに庄縮してしまうことを
思いつく。

すなわち、複雑な認知過程の全体を、
知覚」と「行為」の二つのステップに
まとめてしまうのである。

間に挟まるすべてを丸ごと抜き取る
大胆不敵なアイディアだ。

ブルックス自身の言葉でいえば、
「これまで人工知能の
 『知能』と思われてきたものを、
 すべて省く

ことにしたのだ。

 

着想の源は昆虫だったという。
「なぜ、少数の神経細胞しかない
 昆虫にできることが
 ロボットにはできないのか?」

この問いを掘り下げていくなかで、
ブルックスは「表象を捨てる」という
アイディアにたどり着いたのだ。

ブルックスは、三層の制御系からなる
ロボットAllenを作成する。

*物体との衝突を避けるための
 単純な運動制御を担う最下層

*ロボットを
 ただあてもなく逍遥させる中間層

*目標となる行き先を探し、
 これに向かって進む
 動作の指令を出す最上層

この三層が互いを包摂しながら
並行して動き続ける。

ブルックスのロボットは
外界のモデルを構築しないまま、
速やかに実世界を
動き回ることができた


彼はこれを
「包摂アーキテクチャ
 (subsumption architecture)」
と名づけた。

三層の説明を読んでいると、
掃除ロボット「ルンバ」の動きが
まさにそのままではないか。

 

実世界で起きていることを
感じるためのセンサと、
動作を速やかに遂行するための
モータがあれば、
外界のことを
いちいち記述する必要はない。

外界の三次元モデルを詳細に構築しなくても、
世界の詳細なデータは、
世界そのものが保持していてくれる
からだ。

このことを、ブルックスは
次のような言葉で表現しているという。

ブルックスの巧みな表現を借りれば、
「世界自身が、世界の一番よいモデル
 (the world is its own best model)」

なのである。

「世界自身が、世界の一番よいモデル」
なんともうまい表現ではないか。

技術者たちが別なモデルで
表現しなおそうとしてしまう理由も
エンジニアのひとりとして
痛いほどわかるので、
モデル化自体を簡単に否定はできないが、
こういう「発想の転換」には
ロボット自体の発明以上に
ワクワクさせられる。

ブルックスはかくして、
生命らしい知能を実現するためには
「身体」が不可欠であること
そして、

知能は環境や文脈から
切り離して考えるべきものではなく、
「状況に埋め込まれた(situated)」
ものとして理解されるべき
であると
看破した。

そうして彼は、
既存の人工知能研究の流れに、
「身体性(embodiment)」と
「状況性(situatedness)」と
いう二つの大きな洞察を
もたらしたのである。

30年以上も前、
「アッタマ(頭)ばっかりでも、
 カッラダ(体)ばっかりでも
 ダメよね」
というコピーのCFがあったが、
まさに頭だけでは知能になれないのだ。

 

 

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2021年5月16日 (日)

「状況」に参加できる「身体」

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「状況」に参加できる「身体」

- 外界モデルを作らずに動く、へ -

 

小林秀雄賞を受賞した
「数学する身体」から5年、
独立研究者として地道な活動を続けている
森田真生さんが、2021年4月
「計算する生命」を上梓した。

デカルト、リーマン、
フレーゲ、ウィトゲンシュタインらを核に
計算だけでなく、
数学・哲学・認知科学の歴史を
心や言語についての認識も絡めながら
丁寧にかつ多面的に描き出すその内容は、
抑制された文章で綴られているものの、
「数学する身体」同様
まさに知的興奮に溢れている。

特に、大きく計算の歴史を振り返ったあと
「計算」と「生命」の繋がりに言及し、
「計算する生命」である我々は
今のこの時代をどう生きていくべきか、に
問いを投げかけていく最終章は
同じ本とは思えない急展開で
その変化を楽しむこともできる。

いずれにせよ要約や
簡単な解説は不可能なので
興味を持った方にはぜひ本を手に取り、
じっくりその世界を
味わっていただきたいが、
そんな本の中から、
いくつかエピソードを紹介したい。

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社
(以下水色部、本からの引用)

最初は、人工知能の発展に関する
エピソードから。

1960年代に未来を楽観していた
人工知能研究は、
1980年代、袋小路に入り込んでいた。

規則を列挙するやり方では、
機械はあらかじめ想定された
規則の枠に縛られ、
その外に出ることができない。

規則をいくら集積しても
規則通りの動きはできるものの、
自律的な知性は生まれてこない。

壁を乗り越えるためには、
形式的な規則の存在を
あらかじめ措定するのとは
別のアプローチで、
人間の知能を語る試みが必要である。

このとき鍵となるのは、
刻々と変化する「状況」に
参加できる「身体」
ではないか。

目的と意図を持った、
身体的な行為こそが
知能の基盤にあことを、
もっと重く見るべきだ

と米国の哲学者ドレイファスは
1972年の著書
『コンピュータには何ができないか』
で説いている、という。
今から見れば50年も前の本で、だ。

当時、障害物を避けながら
部屋の中を自由に動き回れる
ロボットの研究が進んでいたが、

このロボットは、
映像をカメラから読み込んでは
部屋の三次元モデルを構築し、
モデルに基づいて運動計画を立てた後、
やっと動き出す仕組みになっていた。

15分ほど計算しては1メートル進み
さらに計算してはまた動く。

物を避けながら部屋を横切るだけで
何時間もかかってしまう機械。
それが、当時最先端の
ロボットの現実だったのだ。

もちろん、計算機の処理能力を高め
計算時間を短縮する、
という道もあっただろうが、それでは
たとえば15分が5分になる、
といったレベルの進歩しか望めない。

この問題に

突破口を開いた先駆者の一人が、
オーストラリア出身の
若きロボット工学者、
ロドニー・ブルックス(1954-)である。

日本でもおなじみの
掃除ロボット「ルンバ」の
生みの親として知られ、
ロボット界を牽引するカリスマとして
活躍しているのあのブルックスだ。

1984年、MITで自分の研究チームを
発足させたブルックスは
ロボットを制御するための
新しい設計について、
原理的な考察を始めた。

そして、問題は

ロボットが動くためには、
 外界のモデルを
 あらかじめ構築する必要がある


というそれまでの科学者の
思い込みにあるという結論に達した。

あらかじめ外界モデルを構築しない、
つまり
外界モデルのない世界で
ロボットはどう動くのか。
そしてそれは、
先の「状況」に参加できる「身体」
どう結びつくのか。

ブルックスの導き出した発想の転換、
次回に続けたい。

 

 

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2021年5月 9日 (日)

あの政権の画期的な動物・自然保護政策

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あの政権の画期的な動物・自然保護政策

- なぜ両立するのか、という問い -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、
 * 人類が他の動物に食べられていたころ
 * トキの「復活」?
 * 侵略的外来種「ネコ」
 * 称賛されるペットの特徴は、
について紹介したが、今日は
寡聞にして全く知らなかった
ある驚きの事実について
紹介したい。

ナチス政権の動物保護、
自然保護についてだ。

ヒトラーは
1933年1月に政権を獲得しますが、
その年の8月、ナチスのナンバー2の
ヘルマン・ゲーリングが
ラジオでこのような演説をしています。

「現在まで動物は法律において
 生命のない物であると
 考えられてきた。
 (…) 
 このことは
 ドイツの精神に適合しないし、
 何にもまして、ナチズムの理念とは
 完全にかけ離れている
」。

ヒトラー政権は同年11月に
「動物保護法」を制定します。

そこでは、動物は人間のためではなく
「それ自体のために」保護される
とし、
「動物を不必要にさいなみ、
 または、粗暴に虐待すること」を
禁じました。

先入観がじゃまをしてか、
ナチスと動物保護の法律というのが
どうも結びつかないが、
法律では動物実験にも
厳しいい制限を課していたようだ。

さらに、動物実験も

「これまで証明されていない
 特定の結果が
 予想される場合に限られること」

「動物を事前に気絶させること」など、

現在の日本より厳しい制限を課しました

ヒトラー自身は
動物実験の全面的禁止を考えており、
動物実験と動物虐待の禁止が
「動物保護法」の重要な目的

と主張していました 

しかも単に法律を定めるだけでなく

1934年、科学・訓練・公共教育省は
すべての学生は動物保護法について
 学ばなければならない

と通達し、
1938年には
 獣医の認可に動物保護の項目が必須要件
とされます。

と、その精神の普及にも施策を打っている。

もちろんそのこと自体は
他の国からも評価されている。

こうしたナチスの動物保護法は
世界で高く評価され、
ヒトラーは
ドイツ民族に
 動物保護のために有効な法律を授けた
 人類と動物の友

と評され、アメリカの基金は
「動物保護法」の功績を称えて
ヒトラーに金メダルを贈っています。

しかも、
保護したのは動物ばかりではない。
自然保護にも実に積極的なのだ。

ナチス政権は自然保護にも積極的で、
「帝国森林荒廃防止法」
「森林の種に関する法律」
(1934年)、

そして
「景観に大きな変更を及ぼすような
 計画の許認可は、
 事前に所轄の自然保護監督機関に
 意見を求めなければならない」とし、

行政が自然保護区を指定するさいに
土地所有者が
金銭的な保障を請求することを禁ずる
「帝国自然保護法」(1935年)
などを制定し、
それらは自然保護活動家から
「革命的な法律」と絶賛されました。

画期的とも言える
動物保護運動や自然保護活動が
ナチス・ドイツにおける
人種差別や障がい者差別と
なぜ両立するのだろうか?

そのあたりを考えると
「保護とはなにか?」
「その背景の思想とはなにか?」
にじっくり向き合わざるを得なくなる。

歴史は、
「保護の本質」に迫る重要な問いを
投げかけてくれる。

 

 

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2021年5月 2日 (日)

称賛されるペットの特徴は、

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称賛されるペットの特徴は、

- 「殺処分」だけがペット問題ではない -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、
 * 人類が他の動物に食べられていたころ
 * トキの「復活」?
 * 侵略的外来種「ネコ」
について紹介したが、今日は
もう少し身近なペットについて
考えてみたい。

チワワ、ダックスフント、ブルドッグ、
ドーベルマンなどの「犬種」は、
生物学的には(オオカミの亜種である)
イエイヌの「変種」です。

こうした犬種は、
手近な図鑑にあるものだけでも
500種近くあります
が、
それらは自然に発生したのではなく、
近親交配など人為的方法によって
作り出されてきました。

 

もとは「牛(ブル)いじめ」という
見世物用に開発されたブルドッグも
1835年の動物虐待防止法で
「牛いじめ」が禁止されると
番犬、愛玩犬として飼われるようになり
身体的特徴が
ますます強調されるようになる。

しかし、この独特の外観は、
ブルドッグの健康に大きな問題
もたらすことになりました。

まず、ブルドッグは
あまりに頭が大きいため
母親の産道を通ることができず、
出産はふつう、
人の手による帝王切開になります。

また、鼻先が短すぎるので
うまく呼吸ができず、
生涯にわたって睡眠時無呼吸など
酸素不足に悩まされます


このため体温調節も難しく、
呼吸不全や心不全で
若死にしやすくなっています

これらに対し、
ペンシルベニア大学
「動物と社会の相互作用に関するセンター」
所長のジェームズ・サーペル氏の
こんな言葉も紹介されている。

「もしもブルドッグが
 遺伝子組み換えの産物だったなら、
 西欧世界全域で抗議デモが
 巻き起こっていたことだろう。
 まちがいない。

 ところが実際には
 人の都合に合わせた交配によって
 作られたので、
 その障害は
 見過ごされているばかりか、
 場所によっては
 称賛されてさえいる

 

こういった生体改造は、もちろん
ブルドッグだけではないし、
犬に対してだけではない。

関節疾患や外耳炎になりやすい構造を
持たせてしまったダックスフント

頭蓋骨が小さすぎて脊髄や
脳の障害に苦しむことが多い
キャバリア・キング・チャールズ・
スパニエル


猫に関しても、

短頭のため呼吸困難、眼病、
涙管奇形になりやすい上に
死産の確率が高いヒマラヤン

軟骨に奇形があり、
若い時から重い関節痛を発症しがちな
スコティッシュ・フォールド

などなどいつもの例を挙げている。

ペットの問題というと、
人間の身勝手な振舞いが原因となっている
「殺処分」が話題になることが多いが、
こうしてみると、
かわいいペットが欲しい、という
「人の都合に合わせた」生体改造が
生物としての種そのものに
様々な問題を引き起こしている
ことが
よくわかる。

しかも、
そういった強調された身体的特徴は、
まさに
「場所によっては
 称賛されてさえいる」
わけだ。

称賛されるペットの特徴には、
生物として健全に生きる権利を
奪っている側面もあるのだ。

「殺処分」だけがペットの問題ではない。

 

 

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