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2021年3月

2021年3月28日 (日)

「若さ」は発明?

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「若さ」は発明?

- 「老い」は負い目ではない -

 

前回、前々回と
(1) 最初にまず交換したかった
(2) 「言葉づかい」と「身体づかい」
なるタイトルで、

三浦雅士 (著)
考える身体
NTT出版

(以下水色部、本からの引用)

の本の一節を紹介したが、
もうひとつ紹介したい節がある。

それは「若さ」について。

若さとは
ヨーロッパの発明である

と述べたのは吉田健一だが、
そのとおりだろう。

いまやあまりにも常識化していて
なかなか発明とは思いづらいが
なるほど、実体がない
どこかの時点で発明された概念と
捉えることもできるということか。

 

ヨーロッパ近代においては、
老いはまさに負の要素であり、
負い目そのものだった。

若さを美徳とするこの考え方の背後に、
生産第一義が潜んでいることは
疑いない。
効率よく生産するには
青年のほうが適している。

生産性や勝ち負けに目がいくと
やはり若さにはかなわない。

でも、ものを見る視点は
そういったものだけではもちろんない。

事実、かつての日本においては、
若く見られることのほうが
恥ずかしいこと
だったのだ。
 (中略)
たとえば能狂言においては、
若さは必ずしも美徳ではない。
日本舞踊においてもそうだ。

いや、剣道や柔道といった
武術においてさえ、
老いは決して負の要素ではなかった

剣道だって柔道だって
そもそもは勝ち負けを決める
「スポーツ」ではない。 

数年前、井上八千代の舞いを見て
その呼吸に驚嘆したことがある。
時を経るにしたがって印象がかえって
鮮明になってくるのが不思議だが、
まるで幼子のようだった。
実際は、米寿を越えていたのである。

こういうことは
バレエにおいてはまずありえない。
ヨーロッパと日本では、
身体についての考え方が
根本的に違うと言うべきだろう。
身体観、
さらに言えば自然観が違うのである。

三浦さんはその違いを
こんな言葉で表現している。 

老いは身体の自然である。
自然を操作し支配しようとする姿勢と、
逆に、おのずから生成消滅する
自然の声に謙虚に耳を傾ける姿勢
との違いが、
老いをめぐる考え方にも
そのまま反映しているように思われる。

最初に書いた通り、
生産性や勝ち負けばかりに目がいくと
ものの見方が狭くなってしまう。

以前、紹介した小林秀雄さんの
こんな言葉を再度載せておきたい。

じゃぁ、
歳をとった甲斐がないじゃないか。

いつまでたっても
青年らいしいヤツなんていうのは。

甲斐がない。
何のために歳をとっているんですか。

小林さんの声のトーンで
直接聞いてみたいという方は、
こちら「歳をとった甲斐がないじゃないか」
をどうぞ。

若さには、
生産性や勝ち負けを超越した
美しさや魅力があることは確かだけれど、
時間の経過は
誰でも等しく受け入れるしかない以上
「歳をとった甲斐のある」
日々を過ごしていきたいものだ。

 

 

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2021年3月21日 (日)

「言葉づかい」と「身体づかい」

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「言葉づかい」と「身体づかい」

- 美しい立ち居振る舞い -

 

前回、
最初にまず交換したかった
なるタイトルで、

三浦雅士 (著)
考える身体
NTT出版

(以下水色部、本からの引用)

の本の一節を紹介したが、
もう少し別な言葉も紹介したい。

三浦さんは、
「言葉づかい」の教育と同様に
「身体づかい」の教育が必要だ、
と言っている。

 

表現としての言葉と、
表現としての身体
は、
まさに表裏一体なのだ。

それは、
他人に自分を伝える手段として
表裏一体であるのみならず、
自分が自分自身であることを
知る手段としても
表裏一体なのである。

対自分と対他人、
表現と同時にそれを知るという点において
言葉だけでなく身体も重要なのは
まさにその通り。

詩とか日記とかを書き始める時期と、
やたらに髪をいじったり、
ひそかに化粧し始めたりする時期は、
一致している。

少女が化粧し始めるのは
他人に向かってだけではない。

自分に向かってでもあるのだ


同じことは、少女のみならず
少年にも当てはまる。
髪を染めたり、
ピアスをしたりするのは、
昔でいえば、
詩や日記を書き始めるのと
ほとんど同じことだ。

そんな時期の「身体づかい」の教育を
三浦さんは体育に期待しているようだが、
実際にはそれはなかなか難しいだろう。

だが、現実には、体育といえば、
 (中略)
陸上競技や球技、スポーツが
うまくなることだと考えられている。

その結果、
ひたすら図体だけが大きくなって、
その図体を
自分でももてあましている
ような
中学生や高校生が
巷に溢れるということに
なってしまったのである。

いずれによせ、家庭でも学校でも
美しい立ち居振る舞いへの教育が
近年おろそかになっているのは
間違いない。

言葉がひとつの体系であるように、
身体もまたひとつの体系である

この二つの体系が文化の基軸を
形成しているものなのだ。

美しい「言葉づかい」への敬意とあこがれ、
美しい「身体づかい」への敬意とあこがれ、
それを抱かせることは大人の責任でもある。

どちらも
「いいなぁ」「かっこいいなぁ」が
根底にないと、
ほんとうには身につかないものだから。

 

 

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2021年3月14日 (日)

最初にまず交換したかった

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最初にまず交換したかった

- 猿に労働はない -

 

昨年2020年4月の緊急事態宣言以降
「不要不急」と「経済活動」の関係について
いろいろな議論を耳にする機会が増えたが、
それらを聞きながら
「三浦雅士さんは
 もっとおもしろいことを
 言っていたのに」
と三浦さんの古い著書を思い出すことが
多かった。

今日はその部分を紹介したい。

本はこれ。

三浦雅士 (著)
考える身体
NTT出版

(以下水色部、本からの引用)

初版は1999年の年末。
書き下ろしではなく
新聞や雑誌に発表した記事を
改めてまとめた一冊だ。

 

この本の中に、こんな記述がある。

人間は必要に応じて物を交換すると
普通は思われている

だが、ネアンデルタール人から
クロマニヨン人への決定的な飛躍は、
むしろ逆に、交換が欲望を生み、
必要を生んだ
ことを教えている。

必要だから交換したのではなく、
交換したいから必要になった!

 

ここからは経済人類学の領分である。
そして、事実、多くの学者が、
共同体間の接触が欲望を生み、
その欲望が
労働をもたらしたと考えている。

すなわち、農産物に余剰が生じたから
交換したのではない。

交換したかったから
余剰を作るように
努力したのだ
というのである。

どこでどう学んだのか
「余ったものを交換したのが商業の始まり」
のように思い込んでしまっていたのは
いったいどうしてなのだろう。

 

最初にまず交換があったのだ

それから
その交換の場として集落が成立する。

さらに、そこで交換するための物を
生産するために、農業が始められ、
漁業が始められるようになった。

つまり、農村が発展して
都市になったのではない、
逆に都市が農村を生んだのだ。

「余ったから交換した」のではなく、
「交換したいから余らせるようになった」

なぜそんなことがわかるのか?
実は本を丁寧に読んでも、
この本だけでは
そう言えるようになったことの根拠は
よくわからない。

それでも、
この視点を提供してくれた価値は大きい。

交換の起源はおそらく再分配にある。

たとえば人類学者の山極寿一は、
類人猿と人間との違いは
狩猟採集したものを巣に持ち帰って
再分配するか否かにあると言う。

その場で食べたいという欲望を抑え
他者が獲得したものと合わせて、
それらを分配し直すこと
するか否かにあるというのだ。

山極さんの話は、以前
「円くなって穏やかに同じものを食べる」
という題で本ブログでも紹介した。
独占しないことと、分配、交換は
もちろん深い関係があると思うが、
生物の進化や生物社会の変化の中で
それらはどんな役割を演じたのであろう。

「交換したかった」を前提として
以下の文と読むと、まさに「労働」が
これまでとは全く違う響きをもって
見えてくる。

猿に労働はない

ただ人間だけが苦しんででも
何かを獲得しようとする、
すなわち労働するのである。

 

 

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2021年3月 7日 (日)

発見とはつねに自分に関する発見だ

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発見とはつねに自分に関する発見だ

- その面白さを知らせることこそ教育 -

 

首都圏1都3県の緊急事態宣言が
さらに2週間の延長となってしまった3月、
学校は卒業のシーズンを迎えている。

以前、
卒業式式辞 鷲田清一さんの言葉
を紹介させていただいたが、
学ぶとは、勉強するとは、を
考えることが多いこの季節、
今日は、養老孟司さんの言葉を紹介したい。

養老孟司(著)
異見あり<脳から見た世紀末>
文春文庫

(以下水色部、本からの引用)

 

まずは、養老さんがあちこちに書いている
「現代の誤解」の訂正
「情報は変わらないが人は変わる」
の話から。

ことほどさように、人は変わる
しかし多くの人は、
人は実体であり、変わらないが、
マスコミに代表される情報は、
日々違って、移り変わっていくと
感じているのではないか。

私はこれを現代の誤解だといった。

情報過多というのは、
動かないものとしての情報ばかりあって、
「生きて動いているものとしての人」
の影が薄くなっている状況なのである。

この「現代の誤解」を、
まさに勉強を例に説明してくれている。

勉強がそうである。

教科書は印刷されている。
だから何度見ても、
同じことしか書いていない。
しかしそれを読むほうは、
変わりうるのである。

だからある日突然、
教科書にこんなことが書いてあった、
と気づく。

それを「自分が気づいた」と思うのが、
いまの常識である

「えっ、そうじゃないの?」という方、
「そうじゃないよ」とひと言でバッサリ!

そうではない

それに気づかなかった
それまでの自分から、
それに気づく現在の自分へと、
「自分が変わった」
のである。

教育にとって、
これは大切なことである。
発見とは、そうした意味で、
つねに自分に関する発見である

 

自分が変わった、の一番わかりやすい例は
やはり身体の動きに関するものだろう。  

自分が変わるということ
それを
いちばんよく納得させてくれるのは、
身体の訓練である。

乗れなかった自転車に乗れるようになる。
泳げなかった自分が、
いまでは泳いでいる。
それは乗れる自分、
泳げる自分の発見なのである。

「できるようになる」
「わかるようになる」は
まさに自分自身の変化だ。
自分以外には何も変わっていないのに
まさに世界が変わったような感じがする。

自分を発見すること、

それは
人生の最大の楽しみの一つである。
だから学者は一生、学問をやめない。
それはかならずしも
学問が面白いからではない。

たえず自分が変化すること、
それに気づかせてくれるから
なのである。
その面白さを知らせること、
教育はそれに尽きる


乱暴だが、
私はそう思っているのである。

「学問は自分が変化することに
 気づかせてくれる」
だからやめられない、のだと。

そしてその面白さを伝えることこそが
教育なのだと。

各学校から、ひとりでも多く
「その面白さ」を知った卒業生が
旅立っていきますように。

 

 

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