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2021年2月 7日 (日)

卵を抱きながら

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卵を抱きながら

- 雛は作者が行ったこともない国に -

 

ドイツ文学の翻訳を手掛けている
翻訳家の松永美穂さんが
2006年の「図書」1月号に
「卵を抱きながら。
 もしくは、くせになる翻訳」

というエッセイを寄せていた。
(以下水色部、エッセイからの引用)

 

そもそも、
日本語に翻訳された外国の小説は、
もとはみな英語だったと
思い込んでいる人がときどきいる


わたしが
ドイツ文学の翻訳者です」と言うと、
「え、あの本、
 もとはドイツ語なんですか?」
とびっくりされたことがあった。

翻訳を出版してくれる出版社を
見つけることがたいへんであったり、
映画化の機会が少なかったり、と
英文学の翻訳と比べての
独文学の翻訳のマイナー具合を
ユーモアを交えながら
ちょっとシニカルに語っている。

でも、
もちろん卑屈になっているわけではなく、
たとえば、作者と実際に会っての会話を

訳者
「ここ、『手をポケットに入れて』
 という箇所、手は単数なのに
 ポケットが複数形なんだけど、
 一本の手を二つのポケットに
 入れていたの?」

作者
「そ、それはミスプリよ!
 編集者が見落としたのね。
 それにしてもあなたたち翻訳者って、
 ほんとに細かいところまで
 読んでるのね…(嘆息)」

と書いていたりして、
翻訳者としての緻密な仕事に
誇りをもって取り組んでいる様子が
よく伝わってくる。

その中で、
「翻訳」の瞬間を
実に上手に表現している部分があったので
今日はその部分を紹介したい。

去年のいまごろは、ベルリンにいて、
ベルリンが舞台になっている短編集を
翻訳していた。

朝ごほんを食べて、シャワーを浴びて、
コンピュータを立ち上げ、
窓際にある机に向かって腰を下ろす。

わたしが暮らしていたアパートは
建物の二階にあって、
通りに面した窓からは
道行く人がよく観察できた。

11時ごろになると、向かいの建物の
一階にある託児所の子ともたちが、
保育士さんに手を引かれて
散歩に出かける。

ベルリンの晩秋はもう寒いけれど、
子どもたちは嬉しそうに外に出てきて、
お昼ごろまた戻ってくる。

そのころになるとわたしも昼食をとり、
昼のニュース番組を見て、
ときにはスーパーに買い物に出かけ、
そのあとまた机に向かい、
日がとっぷり暮れて
託児所のシャッターが降り、
同じアパートの住人たちが帰宅する足音が
階段から聞こえてくるころまで、
翻訳を続けるのだった。

一日中誰とも口をきかないことも
あったけれど、
翻訳をしていると、
作者とずっと話しているみたいな
気分になれるので、寂しくはなかった。

卵を抱いて温めているような気持ちになり、
翻訳が進むにつれて
卵がいまにも孵化しそうになってくる、
そういうときにはあまり大勢の人と
話をしない方がいいんだと、
妙に納得したりしていた。

卵を抱いて温めているような気持ち、か。
孵化しそうになってくる、か。

私は翻訳家ではないが気持ちはよくわかる。

それほど大事にされたところから
生まれ出た訳文かと思うと
読む方も嬉しくなってしまうではないか。

 

自分の書いた作品が
自分の読めない言語に翻訳された、
ということを
すごく喜んでくれる作者もいる。

作者の自分が
まだ行ったこともない日本という国へ、
本だけが先に行ってしまった


作者が卵を産み、翻訳者がそれを孵し、
雛があちこちに散っていって、
想像もつかないような場所で
誰かに飼われている


ふとそんな光景を思い浮かべてみる。

「どうぞこれからもたくさんの雛を
 ドイツ文学の世界から
 日本に届けて下さい」
読みながら思わずそうつぶやいてしまった。

 

 

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