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2020年11月 1日 (日)

「迷い」は贈り物

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「迷い」は贈り物

- 常套句の催眠術にかからないために -

 

このブログももちろんそうだが、
文章を書くときは
どんな言葉を選ぶか、で
常に迷っている。

「しっくりこない」とか
「これでは意味が強すぎる」とか
まさに「迷い」の連続だ。

この言葉選びの「迷い」そのものについて
こんなにじっくり考えた本があるだろうか。

今日はそんな本を紹介したい。

古田 徹也 (著)
言葉の魂の哲学
講談社選書メチエ
(以下水色部はエッセイからの引用)

中島敦や
オーストリアの作家ホーフマンスタールの
作品を題材として丁寧に読みながら、
ウィトゲンシュタインの
言葉の考察をベースに
「言葉の意味」ではなく、
「言葉の魂」について考えていく内容は
簡単に要約できるものではないが、
後半に登場する
カール・クラウス(1874-1936)の言語論には、
特にSNS全盛の現代において
強く考えさせられるものがある。

ヒトラーの陶酔的な演説は
聴く大衆をも酔わせ、
宣伝省が新聞やラジオ、テレビ、
映画など様々なメディアを通じて
流したプロパガンダは、
その高揚を戦争や殺戮へと
誘導していった。

繰り返し流れてくる常套句、
その音声上のリズムや抑揚に
ただ身を任せ、浸っているときに
忘れ去られているのは、
まさしくかたち成すものとしての
言葉の側面であり、
言葉を選び取るときに生まれる
<これではまだしっくりこない>
<これでは……過ぎる>といった
「迷い」である

そうクラウスは主張している。

そして、彼はこの「迷い」を、
我々に対する
道徳的な贈り物(moralilsche Gabe)」
と呼んでいる。

ちょっとわかりにくい表現だが、
この「道徳的な贈り物」の
意味するところを考えてみよう。

ひとつは、我々に受け継がれた
文化遺産としての言語には、
無数の多義語が含まれ、
互いに複雑に連関し合っている
ということである。

<しっくりこない>
<どうも違う>といった迷いは、
類似した言葉の間でしか
生まれない。

我々は、迷い、ためらうことを
可能にする言語を
贈られているのである

言語を
しかも、「迷う」言語を
「贈られている」という感覚。

迷いは「贈り物」なのだろうか。

それから、この迷いの感覚が
とりわけ道徳的な贈り物であるのは、
それが
常套句の催眠術にかからないための
わずかな拠り所
であるからだ。

出来合いの常套句で
手っ取り早くやりすごし、
夢見心地でうっとりしているときに、
言葉に意識を向けることはできない。

迷うためには、
醒めていなければならない。

常套句の催眠術にかからないための拠り所
とはまさに言い得て妙。

迷っているときは
醒めているのだから。

つまり、ここで求められているのは、
醒め続けることであり、
しっくりくる言葉を見出すまでは
妥協しないよう努める責任、
どこまでも自分を
欺くまいとする倫理である。

その意味で、
しっくりこないという感覚が
湧いてくるのは
道徳的な贈り物
であると、
クラウスは指摘しているのだろう。

 

ところが、現在
言葉を巡って起こっている事態は
どうであろう。

実際、いま急速に拡大しているのは、
他者の言葉に対する
何の留保もない相乗りと反復に
過ぎないのではないか


秒単位のタイムスタンプが押され
言説がリアルタイムで
無数に流れる状況にあっては、
言葉を発する方も受ける方も、
自他の言葉に耳を澄ますどころか、
時間に追い立てられ、
タイミングよく言葉を流す即応性に
支配されているのではないか。

「リツイート」や「シェア」等の
  
反射的な引用・拡散や、
「いいね」等の間髪入れない
肯定的反応の累積がもたらすのは、
それによって
単に重量を増した言葉が
他の言葉を押しのけるという力学
であり、
かつてない速度と規模をもつ
デマや煽動の生産システムではないのか。

「他者の言葉に対する
 何の留保もない相乗りと反復」
なんとも象徴的な表現だ。

ここのところの
人工知能(AI)やロボットの急速な進歩には
ほんとうに驚かされることが多い。

まさに加速度的な「すごい進歩」は
成長を続けるハードウェアのスピードや
コスト面はもちろん、
ディープ・ラーニングの導入に代表される
新たなアプローチが生み出す成果にも
大きく支えられている。

ところが、機械が
これまでできなかったことが
できるようになればなるほど、
なめらかに動くようになればなるほど、
それは「すごい進歩」には違いないのに
なぜか人間から離れていくような
そんな気がしていた。

「なぜそう思うのか?」
自分でも不思議だった。

この本で語られているのは
言葉選びでの「迷い」だが、
この「迷い」こそが
もしかすると
「なぜそう思うのか?」
の解へのキーワードなのかもしれない。

言葉に限らず
もっともっと迷おうではないか。
それは人間への
「贈り物」のひとつなのだから。

 

 

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