「背中の記憶」のあとがき
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「背中の記憶」のあとがき
- 素通りして置いてきてしまった感情を -
親族やら友人やら
ごくごく身近な人たちとの
思い出を丁寧に丁寧に綴っている
長島有里枝(著)
背中の記憶
講談社文庫
(以下水色部はエッセイからの引用)
を読んでいると
そこに書かれているのは
長島さん自身の極めて個人的な経験なのに
なぜか自分もその場にいたような
そんな気になってしまうから不思議だ。
子ども時代の古い記憶なのに
細かいところまでが実に鮮明で
感情の揺れにまで思わず同期してしまう。
ところが、著者ご本人は
「あとがき」でこう書いているから
さらに興味深い。
身近な人々を題材にしているが、
わたしの撮ったセルフポートレイトや
家族写真が、本人や本人の生活の
真実を語ることがないように、
ここにあるのも、わたしが実際に
経験したはずの出来事とは
また別の物語である。
例えば、
祖母の記憶にまつわるはなしは、
わたしの中で二十年以上ものあいだ、
繰り返しいろんな筋書き、
結末で語られてきたものだ。
どこまでが
真実かと考えるのは無意味で、
自分にとっては
真実よりも大切な何かを、
パソコンのキーを叩きながら
探していくことが重要だった。
長島さんにとって
記憶を辿ることによって
探したかった
「真実よりも大切な何か」
とは何だったのか。
素通りして置いてきてしまった
沢山の感情だった気がしている。
本当はあのとき、
喜び、怒り狂い、泣きたくなり、
後悔し、愛していたのだ、
という気持ちだけは、
書くことで生まれた
「わたし」が存在する世界と
自分の記憶の世界の
両方で二灯のストロボのように
完全に同調して光っていた。
感情は、時が経ってからのほうが
むしろはっきりしてくることのほうが
多い、とよく思う。
振り返って書くという行為は
まさに感情を味わう行為にほかならない。
「素通り」という表現を使っているが
「そのとき」は
案外わからないものだ。
それにしても、2つの世界を
ストロボの同調で表現するあたりは
さすがにプロのカメラマンだ。
自分の書き進むべき方向が
照らされたように感じ、
またもう一度、
あるいは本当に初めて
その感情を感じ直すことを
強いられた。
それは非常に有意義な時間でもあり、
同時にとても苦しく、
疲れる経験でもあった。
そう、
もう一度どころか
「本当に初めて」感じることもあるのが
振り返って書くことの魅力であり、
場合によっては
「真実よりも大切な何か」
であったりする。
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