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2020年11月

2020年11月29日 (日)

「ヒトはどうして死ぬのか」(2)

(全体の目次はこちら



「ヒトはどうして死ぬのか」(2)

- 「死を研究して、何の役に立つ?」 -

 

田沼靖一 (著)
ヒトはどうして死ぬのか
―死の遺伝子の謎
幻冬舎新書

(以下水色部本からの引用)

を読みながら、死を考えていく2回目。

前回
細胞が一定のプロセスを経て
自ら死んでいく
壊死とは別の「死に方」に
アポトーシス(apoptosis)と名付けた
病理学者J・F・カーの論文を紹介した。
(1972年に発表)

カーは論文で、

細胞が遺伝子に制御されて
分裂したり分化したりするのと同様、
細胞の死もまた
遺伝子に制御されているのではないか


と、アポトーシスの
メカニズムにまで言及しているという。

ところが、1972年当時、
彼の論文に目を留めた人は
ほとんどいなかったらしい。

なぜか?

*カーの仮説があくまで
 観察の結果から得られたものにすぎず、
 科学的なメカニズムの解明には
 至っていなかったこと。

*論文が
 病理学を扱う雑誌に掲載されたため、
 生化学や分子生物学、発生学、
 免疫学といったほかの学者たちの目に
 触れにくかったこと。

などの理由が考えられるらしいが、
興味深かったのは次の指摘だ。

何より、当時の科学者たちの多くが 
「死を研究して、何の役に立つ?」
考えていたことが大きな理由
だったのではないかと思います。

カーの論文の10年以上のちの
1985年のO・サタールの論文にさえ
こんな一文があるらしい。

「もし宇宙人が地球に来て
 生物学の教科書を読んだとしたら、
 彼らは
 『地球上の生物は死ぬことがない』
 と信じるに違いない。
 私たちの教科書には、
 細胞がどのようにして成長し
 分裂していくのか、
 エネルギーをどう代謝するか
 については詳しく述べられている
が、
 細胞がどのようにして
 死に至るのかについては
 何も書かれていないのだから」

当時の、生物学の状況の一端を
感じられる一文だ。

ところがその後、
科学的なメカニズムの解明も進み、
「死のしくみ」のひとつである
アポトーシスは生物学の世界に
重要な視点を提供することになる。

「死の研究」がまさに「生」にも
大きく役に立っていく。

より大きな視点でとらえれば、
アポトーシスとは
「不必要な細胞が自ら死ぬことで、
 個体の生命を維持する」機能として
統一して考えることができるのです。

 

「自ら死ぬ」アポトーシスが
果たしている役割とは?
要点のみまとめると次の2点。

一つは、細胞の増殖や分化と同様、
本来的に備わった基本機能として、
個体の完全性を保つ
「生体制御」の役割


個々の細胞が個体全体を認識し、
アポトーシスによって
不要な細胞が自ら死んでいくことが
個体を個体ならしめていると言えます。

そしてもう一つが、
ウイルスやバクテリア、
ガン細胞といった内外の"敵"が
現れたとき、異常をきたした細胞を
アポトーシスの発動によって
消去する「生体防御」の役割

特に後半、

異常をきたした細胞を
アポトーシスによって死滅させ、
新たな細胞に置き換える
仕組みは、
非常に理にかなった
修復機構であると言えます。

たとえて言えば、
欠陥が残っているかもしれない
事故車を修理して使おうとするより、
いっそのこと
新車に乗り換えたほうが安心できる
-というのと同じことでしょう。

のメカニズムは、
病気の治療方法に関しても
大きな発想の転換を引き起こすことなる。

その話も含めて続きは次回以降に。

 

 

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2020年11月22日 (日)

「ヒトはどうして死ぬのか」(1)

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「ヒトはどうして死ぬのか」(1)

- 2つの死、ネクローシスとアポトーシス -

 

新書という小さな形態ながら、
「生」と「死」という大きなテーマを
新たな視点で見つめ直す機会を
与えてくれる本を紹介したい。

田沼靖一 (著)
ヒトはどうして死ぬのか
―死の遺伝子の謎
幻冬舎新書

(以下水色部本からの引用)

 

まずは聞き慣れない言葉ながら
重要なキーワードのひとつ
アポトーシス(apoptosis)
の話から始めたい。

1972年、スコットランドに留学していた
病理学者J・F・カーは、
一本の論文を発表した。

どんな論文かというと...

病変を起こした組織の切片
を顕微鏡で観察している最中、
カーはプレパラートの上に
不思議な光景を見たのです。
それは、死にゆく細胞の様子でした。

その細胞は、
彼が知っている細胞の死に方 

- 膨らみ、破裂して
  死を迎える細胞の壊死
 =ネクローシス(necrosis)
 - 

とは、
まったく異なる姿を示していました。

正常な
細胞と比べて少し小さく、
一部は小片となった、見慣れない像。

しかもその像は一つではなく、
いくつも見て取ることができる。

カーはその細胞死の観察結果から、
細胞が自ら一定のプロセスを経て
死んでいく、壊死とは別の
「死に方」
があるのではないか
と考えました。

そして、その「死に方」を
アポトーシス(apoptosis)と名づけ、
論文にまとめたのです。

「細胞の2つの死に方」
ネクローシス(necrosis)と
アポトーシス(apoptosis)。

日常生活で耳にすることのない言葉なので
違いを簡単にまとめておこう。まずは、

【ネクローシス(necrosis)】

ネクローシスは、
打撲や火傷といった外部からの
刺激、心筋梗塞などで見られる
強い虚血などがもとで起こる
"事故死"です。

ネクローシスが起こると、
まず細胞膜が崩れ、浸透圧が
コントロールできなくなるために
外部から水分が入り込んで、
細胞自身が膨らみます。

その後、
細胞の"ゴミ処理場"が壊れて
なかに含まれる分解酵素が漏れ出し、
酵素によって細胞が溶けると、
中身が細胞外に流れ出すのです。

細胞膜が破れて中身が飛び出す様子は、
言葉を選ばずに言えば
「汚い」というイメージ
抱く方が多いのではないかと思います。

また、細胞の中身が流出すると
白血球が集まってくるため、
ネクローシスでは
炎症や痛みを伴うのが特徴の一つ
となっています。

炎症や痛みを伴い、
中身が細胞外に流れ出す
「汚い」イメージの
ネクローシス(necrosis)。

一方、

【アポトーシス(apoptosis)】

アポトーシスとは、
たとえて言えば細胞の"自殺"です。
ただし、自殺といっても
細胞が自ら勝手に死ぬ
というわけではありません。

細胞は、
内外から得たさまざまな情報 
- 周囲からの
  「あなたはもう不要ですよ」
  というシグナルや、
  「自分は異常をきたして
   有害な細胞になっている」

  というシグナル -
を、総合的に判断して
"自死装置"を発動するのです。

この装置が働き始めると、
細胞はまず自ら収縮し始めます。
そして
核のなかのDNAを規則的に切断し、
小さな袋に詰め替えると、
葡萄(ぶどう)のような
小さい粒に断片化していくのです。
この粒は、
「アポトーシス小体」と
呼ばれています。

アポトーシス小体は、
免疫細胞の一つである
食細胞・マクロファージに
貪食(どんしょく)されたり、
周囲の細胞に
取り込まれたりすることによって
身体のなかから きれいに消去されます

ネクローシスとは異なり、
細胞の中身はほとんど外部に漏れ出ず、
浮腫や痛みといった
炎症反応が起こることもありません

痛みもなく、
きれいに消えるアポトーシス(apoptosis)。

アポトーシスを起こして
死にゆく細胞の様子を、
DNAを蛍光色素で染めて、
蛍光顛微鏡を通して見ると
DNAが切断され、
細胞が小さな断片となっていく過程は
まるで宇宙の超新星爆発のような光景
見えるらしい。

また、活発に動きながら
断片化していく様子を、
アメリカのある学者は、
「まるで踊っているようだ」と言い、
ダンシング・デス
という名前をつけたのだとか。

いずれにせよ、
「細胞の死」ではあるものの
悲壮感がない。

カーは論文で、

細胞が遺伝子に制御されて
分裂したり分化したりするのと同様、
細胞の死もまた
遺伝子に制御されているのではないか


と、アポトーシスの
メカニズムにまで言及しているという。

ところが、1972年当時、
彼の論文に目を留めた人は、
ほとんどいなかったらしい。

なぜか。

興味深い背景がある。

次回はその話から始めたい。

 

 

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2020年11月15日 (日)

「ぞろ目」コレクター

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「ぞろ目」コレクター

- 190円の後悔 -

11月11日、
中国では「独身の日」と呼ばれ、
ネット通販各社による
大規模な値引きセールがあって
毎年記録的な売上を記録しているらしい。

ニュースによると今年のこの時期
最大手アリババの取扱額は
7.9兆円に上ったというのだから凄まじい。
(日本のイオンの年間の売上高規模)

なぜ「独身の日」なのかは
1111を見ればまぁ容易に想像はつく。

日本でも「11月11日」を
日本記念日協会のページで見みてみると
49件もの記念日が並んでいた。

「ポッキー&プリッツの日」

「チンアナゴの日」
などは形のままでいいとしても

「たくあんの日」
については

  たくあん用の大根を
  並べてほしてある様子に
  似ていることと、
  たくさんの
  「1=わん=あん」
  があることから


なる説明がありツッコミどころ満載だ。

ちなみに、
日本記念日協会認定の記念日が
一番多いのは何月何日か
ご存知だろうか?

形やゴロ合わせの多彩さを思い浮かべて
ちょっと考えてみてほしい。

 


正解は、(2020年11月1日現在)
10月10日 で55件らしい。

二番目に多いのが
11月11日 と
8月8日 の49件とか。

どれも「ぞろ目」だ。

「ぞろ目」というと
古いこの記事のことを思い出してしまう。

040710zoro

2004年7月10日朝日新聞の記事
「こだわり会館」から
(以下水色部記事からの引用)


お茶の水女子大学名誉教授の
細矢治夫さんは

平成 1年11月11日
平成 2年 2月22日
平成 3年 3月 3日
平成 4年 4月 4日
平成 5年 5月 5日
平成 6年 6月 6日
から
平成11年11月11日
まで
「ぞろ目」の定期券を
ことごとく持っているとのこと。

細矢さんは

今日が6月6日なら、
朝早く駅に出かけて6時6分の
切符を買わずにいられない。

らしいが、
その「ぞろ目」コレクションは
600点を超えるという。


自分の車についても

この車の走行距離が
111111kmに達した日、
トリップメーターも
111.1kmにそろえて
バッチリ撮影。

 

大学の教え子も

平成7年7月7日
消費税分まで割り出して
777円のレシートを確保。

と協力を惜しまない。

そのコレクターぶりには
偏執的な熱意を感じるが、記事は
こんなエピソードにも触れていて
なんとも憎めない。

平成3年3月3日のこと。
発行番号「3333」の
330円の切符を買おうと、
準備運動のつもりで
140円の切符を買ったら
「3333」が出た。

今も
「なぜ190円をケチってしまったか」
を大いに後悔しているという。

 

ところで、
2020年11月11日を8桁で表わした
20201111
は一見素数のようなにおい(?)がするが、
7で割れてしまい素数ではない。

近い範囲では、その2日後の
20201113
が素数。

今年の年末から新年にかけては面白くて
20201231
20210101

はどちらも素数。
(双子素数ではないけれど、
 名前を付けたくなる連続(?)素数だ)

9年後の年末年始
20291231
20300101

も素数が連続となる。

 

「ぞろ目」といい
「日付8桁の素数判断」といい
興味のない人にとっては
まさに「どうでもいいこと」だろうし
実質的に社会や何かの
役に立つようなことでもない。

それでも、
つい熱くなってしまったり、
思わず書き残してしまいたくなったり
する人がいる。

ハイ、私もそのひとりです。
というわけで今夜はこのネタで
記録を兼ねて
記事とさせていただきました。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2020年11月 8日 (日)

「背中の記憶」のあとがき

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「背中の記憶」のあとがき

- 素通りして置いてきてしまった感情を -


親族やら友人やら
ごくごく身近な人たちとの
思い出を丁寧に丁寧に綴っている

長島有里枝(著)
背中の記憶
講談社文庫

(以下水色部はエッセイからの引用)

を読んでいると
そこに書かれているのは
長島さん自身の極めて個人的な経験なのに
なぜか自分もその場にいたような
そんな気になってしまうから不思議だ。

子ども時代の古い記憶なのに
細かいところまでが実に鮮明で
感情の揺れにまで思わず同期してしまう。

ところが、著者ご本人は
「あとがき」でこう書いているから
さらに興味深い。

写真と同じように
身近な人々を題材にしているが、
わたしの撮ったセルフポートレイトや
家族写真が、本人や本人の生活の
真実を語ることがないように、
ここにあるのも、わたしが実際に
経験したはずの出来事とは
また別の物語である


例えば、
祖母の記憶にまつわるはなしは、
わたしの中で二十年以上ものあいだ、
繰り返しいろんな筋書き、
結末で語られてきたものだ。

どこまでが
真実かと考えるのは無意味で

自分にとっては
真実よりも大切な何かを、
パソコンのキーを叩きながら
探していくことが重要だった。

長島さんにとって
記憶を辿ることによって
探したかった
「真実よりも大切な何か」
とは何だったのか。

そして見つけたのは、
素通りして置いてきてしまった
沢山の感情
だった気がしている。

本当はあのとき、
喜び、怒り狂い、泣きたくなり、
後悔し、愛していたのだ、
という気持ちだけは、

書くことで生まれた
「わたし」が存在する世界
自分の記憶の世界
両方で二灯のストロボのように
完全に同調して光っていた。

感情は、時が経ってからのほうが
むしろはっきりしてくることのほうが
多い、とよく思う。

振り返って書くという行為は
まさに感情を味わう行為にほかならない。

「素通り」という表現を使っているが
「そのとき」は
案外わからないものだ。

それにしても、2つの世界を
ストロボの同調で表現するあたりは
さすがにプロのカメラマンだ。

書きながらそれを見つけるたびに、
自分の書き進むべき方向が
照らされたように感じ、
またもう一度、
あるいは本当に初めて
その感情を感じ直す
ことを
強いられた。

それは非常に有意義な時間でもあり、
同時にとても苦しく、
疲れる経験でもあった。

そう、
もう一度どころか
「本当に初めて」感じることもあるのが
振り返って書くことの魅力であり、
場合によっては
「真実よりも大切な何か」
であったりする。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2020年11月 1日 (日)

「迷い」は贈り物

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「迷い」は贈り物

- 常套句の催眠術にかからないために -

 

このブログももちろんそうだが、
文章を書くときは
どんな言葉を選ぶか、で
常に迷っている。

「しっくりこない」とか
「これでは意味が強すぎる」とか
まさに「迷い」の連続だ。

この言葉選びの「迷い」そのものについて
こんなにじっくり考えた本があるだろうか。

今日はそんな本を紹介したい。

古田 徹也 (著)
言葉の魂の哲学
講談社選書メチエ
(以下水色部はエッセイからの引用)

中島敦や
オーストリアの作家ホーフマンスタールの
作品を題材として丁寧に読みながら、
ウィトゲンシュタインの
言葉の考察をベースに
「言葉の意味」ではなく、
「言葉の魂」について考えていく内容は
簡単に要約できるものではないが、
後半に登場する
カール・クラウス(1874-1936)の言語論には、
特にSNS全盛の現代において
強く考えさせられるものがある。

ヒトラーの陶酔的な演説は
聴く大衆をも酔わせ、
宣伝省が新聞やラジオ、テレビ、
映画など様々なメディアを通じて
流したプロパガンダは、
その高揚を戦争や殺戮へと
誘導していった。

繰り返し流れてくる常套句、
その音声上のリズムや抑揚に
ただ身を任せ、浸っているときに
忘れ去られているのは、
まさしくかたち成すものとしての
言葉の側面であり、
言葉を選び取るときに生まれる
<これではまだしっくりこない>
<これでは……過ぎる>といった
「迷い」である

そうクラウスは主張している。

そして、彼はこの「迷い」を、
我々に対する
道徳的な贈り物(moralilsche Gabe)」
と呼んでいる。

ちょっとわかりにくい表現だが、
この「道徳的な贈り物」の
意味するところを考えてみよう。

ひとつは、我々に受け継がれた
文化遺産としての言語には、
無数の多義語が含まれ、
互いに複雑に連関し合っている
ということである。

<しっくりこない>
<どうも違う>といった迷いは、
類似した言葉の間でしか
生まれない。

我々は、迷い、ためらうことを
可能にする言語を
贈られているのである

言語を
しかも、「迷う」言語を
「贈られている」という感覚。

迷いは「贈り物」なのだろうか。

それから、この迷いの感覚が
とりわけ道徳的な贈り物であるのは、
それが
常套句の催眠術にかからないための
わずかな拠り所
であるからだ。

出来合いの常套句で
手っ取り早くやりすごし、
夢見心地でうっとりしているときに、
言葉に意識を向けることはできない。

迷うためには、
醒めていなければならない。

常套句の催眠術にかからないための拠り所
とはまさに言い得て妙。

迷っているときは
醒めているのだから。

つまり、ここで求められているのは、
醒め続けることであり、
しっくりくる言葉を見出すまでは
妥協しないよう努める責任、
どこまでも自分を
欺くまいとする倫理である。

その意味で、
しっくりこないという感覚が
湧いてくるのは
道徳的な贈り物
であると、
クラウスは指摘しているのだろう。

 

ところが、現在
言葉を巡って起こっている事態は
どうであろう。

実際、いま急速に拡大しているのは、
他者の言葉に対する
何の留保もない相乗りと反復に
過ぎないのではないか


秒単位のタイムスタンプが押され
言説がリアルタイムで
無数に流れる状況にあっては、
言葉を発する方も受ける方も、
自他の言葉に耳を澄ますどころか、
時間に追い立てられ、
タイミングよく言葉を流す即応性に
支配されているのではないか。

「リツイート」や「シェア」等の
  
反射的な引用・拡散や、
「いいね」等の間髪入れない
肯定的反応の累積がもたらすのは、
それによって
単に重量を増した言葉が
他の言葉を押しのけるという力学
であり、
かつてない速度と規模をもつ
デマや煽動の生産システムではないのか。

「他者の言葉に対する
 何の留保もない相乗りと反復」
なんとも象徴的な表現だ。

ここのところの
人工知能(AI)やロボットの急速な進歩には
ほんとうに驚かされることが多い。

まさに加速度的な「すごい進歩」は
成長を続けるハードウェアのスピードや
コスト面はもちろん、
ディープ・ラーニングの導入に代表される
新たなアプローチが生み出す成果にも
大きく支えられている。

ところが、機械が
これまでできなかったことが
できるようになればなるほど、
なめらかに動くようになればなるほど、
それは「すごい進歩」には違いないのに
なぜか人間から離れていくような
そんな気がしていた。

「なぜそう思うのか?」
自分でも不思議だった。

この本で語られているのは
言葉選びでの「迷い」だが、
この「迷い」こそが
もしかすると
「なぜそう思うのか?」
の解へのキーワードなのかもしれない。

言葉に限らず
もっともっと迷おうではないか。
それは人間への
「贈り物」のひとつなのだから。

 

 

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