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2020年10月

2020年10月25日 (日)

「人を撮ること」

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「人を撮ること」

- そこに写っていてほしいのは -

 

写真家の長島有里枝さんが、
たった1ページながら
素敵なエッセイを
雑誌すばるに寄せていた。

題は
「人を撮ること」

今日はこれを紹介したい。
 
長島有里枝
「人を撮ること」
雑誌 すばる2020年7月号
集英社

(以下水色部はエッセイからの引用)

長島さんは、雑誌で見かけた
「撮りたいと思う人だけにカメラを向ける」
という言葉をきっかけに
「写真を撮る」ということについて、
改めて見つめ直している。

話は、中学生のときの
「特定の人を撮りたい」の
小さな思い出話から始まる。

林間学校で、好きな男の子が
友達と歩いているところをこっそり、
「写ルンです」で撮影した。

あの写真は、特定の「撮りたい人」が
写っていなくてはならない類の
ものだった。

でもそれも、別の欲望が叶わないから
「撮りたい」と思うだけで、
「本当に」撮りたいわけでは
ないのかもしれない。

「写ルンです」で
遠くから撮影した写真。

喋りたい、仲良くなりたい、
彼女になりたい。

そういう欲望が満たされたとき、
何十メートルも
離れたところから撮影した、
どっちが友達で
どっちが彼かもわからないほど
小さな、ジャージ姿の人間が
二人写っているだけの写真を、
それでもまだ大切に
持っていたりするものだろうか。

シンプルな記述ながら
写真の表現が実にいい。
まさに目に浮かぶようだ。

そして、
「大切に持っておくだろう」
と続けている。

なぜならそれは、

自分が初めで撮った彼の写真であり、
そのときの自分たちの関係の
暗喩ともいえる距離や、
初めて隠し撮りをする
女の子の気持ちなどが
正直に記録されているという意味で、
かなり興味深い写真だと思うからだ。

写っている人ではなく、むしろ
「人と人との関係性」や
「撮影者の心情」
が写しとられていることにこそ
興味があるようだ。

わたしにとって、
写真というのはむしろ、ある時点での
世界全体の状態を記録するメディアだ。

切り取られた画面に収まっている
部分の単純な記録ではなく、
被写体が人なら、
その人が対峙する世界と
その人との関係性が、
そこに写っていて欲しい。

自身がブロマイドに興味がなかったのも
これが理由だと気づく。

欲張りだから、
好きな人を堂々と見つめたり、
写真に収めて所有するだけでは
満足しないのだろうか。

知りたいのはいつも世界のことで、
誰かの表面にさえ、
それが見たいと思う

家族の表情を捉えた作品等、
長島さんの撮った写真が
高い評価を得てきたのは、
そういった思いが
まさに作品に反映されてきたからだろう。

誰かの表情にさえ、
世界はちゃんと写っている。

 

 

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2020年10月18日 (日)

栗の皮むき

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栗の皮むき

- 冷凍したあと熱湯に入れて -

 

毎年秋になると知人が
地元で採れた栗を送ってくれる。

ほくほくとした秋の味覚は
まさにこの時期限定で、
いつも「栗ご飯」などにして
おいしくいただいている。

というわけで味のほうは申し分ないのだが、
ご存知の通り、栗は皮を剥(む)くのが
けっこうな手間だ。

夫婦でそれぞれ包丁をもち、
黙々と鬼皮、渋皮と格闘することになる。

専用のハサミもあるようだが、
年に何回かのことなので、
なかなか購入にまでは至っていない。

すると今年は、ちょうど栗の季節に
SNSにて、こんな情報を目にした。

「栗を一晩冷凍。
 冷凍した栗を熱湯に入れて
 5分ほど放置。
 その後、剥くと、
 渋皮も含めて簡単に栗の皮が剥ける」

ほんとうだろうか?
実際にやってみることにした。

 

まずはこれをご覧あれ。
この方法、
うまくいくとこんな感じで剥ける。

2010chestnut1

すばらしい!
渋皮も一緒にまさにツルッと剥ける。

剥きにくいうえ、ある厚さで渋皮を
剥かなければならなかったことを考えると
実が100%食べられることもうれしい。

2010chestnut2

 

とまぁ、完璧のように書いてしまったが
正直に結論だけ申し上げると
打率(!?)はそれほど高くなかった。
今回、合計で21個を剥いて
「渋皮が簡単に剥けた」のは
7個だけ。

2010chestnut3

ざっくり言って成功率三割、
という感じだろうか?

ほかは、これまで同様
包丁にて渋皮を剥く必要があった。

SNSを見ると
ほかにもトライしてみた方は多く、
成功率も人によって様々なようだ。

「熱湯を二度かけて
 熱いうちに剥くほうがいい」

など経験に基づくアドバイスを
してくれている人もいたので
一部試してみたりもしたが、
どうも決定的なものはないようだ。

まぁ、三割と言えども
やってみる価値は十分ある。

とにかく、剥き始めないとわからないので
「これは成功例かな?」
と期待しながら栗を手に取れるだけでも
退屈な皮むきの気分がずいぶん変わる。

 

そうそう、もうひとつ肝心なことを。
一旦冷凍することによる
味の劣化が気になっていたのだが、
そこはあまり心配しなくてもよさそうだ。

ホクホクとおいしくいただくことができた。

栗の皮むきで苦労している方、
成功率を気にしなければ
トライしてみる価値は大だ。

 

 

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2020年10月11日 (日)

ヘンリ・ライクロフトの私記

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ヘンリ・ライクロフトの私記

- 自然、孤独、本とともに -

 

4月の緊急事態宣言以降、
急に耳にすることが多くなった「在宅」。

家で静かに過ごす、というと
ウイルスとは全く関係ないものの
この本を思い出さずにはいられない。

ギッシング (著), 平井正穂 (訳)
ヘンリ・ライクロフトの私記
岩波文庫

(以下水色部は本からの引用)

ヘンリ・ライクロフトは、
ロンドンで文筆家として
なんとか生計を立てていたが、
「他人に借金したことがない」が
自慢話になる程度の
貧乏生活を強いられていた。

そんな彼に、50歳のとき、
思いがけず遺産が舞い込む。

経済的な悩みから開放された彼は、
南イングランドの片田舎に隠退し、
豊かな自然に囲まれながら、
本を愛し、散歩を楽しみ、
思索にふけって余生を過ごす。

その静かな日々を綴ったのがこの私記だ。

季節ごとに
ただただ淡々と平穏な日々が流れる。
事件と呼ばれるようなものは
何もおこらない。

それでも(今見ると妙に活字が小さく見える)
文庫版約300ページを
どんどん読み進められるのは、
「何もおこらない生活」にこそある
思索の世界の豊かさや魅力が
言葉の向こうに見えてくるからであろう。

と、こう紹介すると
いかにも実在した人物のような
気がしてくるかもしれないが、
ヘンリ・ライクロフトは
著者ギッシングが創作した架空の人物だ。

ギッシングが
ヘンリ・ライクロフトに
自分自身の思いを語らせているのは
間違いないと思われるが。

 

ゆったりとした散歩の記述を
ちょっと見てみよう。

いつまで散歩していようと
私は少しも構わないのである。
家に戻らなければならない用事もない。

どんなに遅くまでぶらついていても、
心配したり気をもむ人もいない。

春はいたるところの小道や
牧場の上に輝いている。

道すがら、足もとから岐(わか)れてゆく
あらゆる曲折した小道に
踏みいってゆかなければ
申し訳ないような気がする。

春は長いこと忘れていた
青春の力をほのぼのと蘇らせてくれた。
私は疲れを忘れて歩く。
子供のように歌をくちずさむ。
子供の頃覚えた歌である。

また、あるときは

リンゴの花が満開であった。
私がそれに見とれていると、
それまで一日中
あまり照らなかった太陽が
急に赫々(かくかく)と照りだした。

そのときの光景は
とても私にはいい表わせない。
あの花咲ける谷間の静かな美しさは、
ただただ私の夢の中に
幻のように浮ぶのみだ。

近くには蜜蜂がうなっており、
少し離れた所では
カッコーが鳴いていた。
下の方の農場の牧場からは
羊の鳴き声が聞こえていた。

静かで穏やかな自然の中の散歩が
なんとも心地よい。

豊かな自然の中でのひとり暮らしを
心から満喫しながらも、

文章の一節を朗読したくなるとき、
だれか側にいてそれを聞いてくれたら
どんなに楽しいだろうと
思うことがときどきある


全く、切実にそう思うのだが、
さて、しかし、
琴線の触れ合うような理解を
どんな場合にも期待できる人間が、
はたして一人でもこの世に
あるであろうか。

いや、およそのところでいい、
鑑賞の点で私とほぼ意見の一致する人が
あるであろうか。

理解力のこのような一致は
実に稀有なことだと思う。

全生涯を通じて
われわれはそれに憧れている

正直に綴られるこんな真情の吐露が
人格を立体的に浮かび上がらせる。

英国文学や
ヨーロッパ文芸の素養がないと
唐突に登場したように思える
「尊敬、愛情、服従、多くの友人」
といった言葉が、
 シェイクスピアの『マクベス』
 第5幕第3場25行
からの引用であることなどは、
巻末の9ページに渡る『訳者注』が
おおいに助けてくれる。

英国人の教養、英国人の考え方
を学ぶ蘊蓄的要素も

イギリス人は、なにはともあれ
おうように生活することを望む


だからこそ、
貧乏を恐れるばかりでなく、
貧乏を憎み、軽蔑するのである。

イギリス人の美点は、大まかな、
心の温い金持ちのそれである。

イギリス人の弱点は
金を払うことも与えることもできない
人間の心につきものの劣等感-
非常な苦痛と屈辱感にみちた
あの劣等感から生まれる。

イギリス人の背徳行為の大半は、
安定した地位を失うことから生じる
自尊心の欠除がその原因となっている。

のように随所にあるが、
それを知ることを目的にしてしまうと
この本の魅力は伝わらない気がする。

100年以上も前の
1903年に単行本となったこの私記。

自然、孤独、本、
そういったものを
心から味わう静かな生活が
どんな世界を見せてくれるのか、
読むたびに新しい発見のある古典だ。

 

 

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2020年10月 4日 (日)

検査陽性のとき罹患している確率

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検査陽性のとき罹患している確率

- 検査精度98%の検査であっても -

 

「ある病気の検査で陽性だった人が
 実際に罹患している可能性は?」

という問題は、
今回のコロナ禍とは関係なく
古くからある典型的な問題だが、
改めてこのネタで知人と話をしてみると
初めて聞く方には、
にわかには信じられない
結果になっているようだ。

どうして直感と大きくズレて
しまうのか?

簡単な計算ゆえ
一度丁寧に振り返っておきたい。

具体的な数字を入れた問題を提示します。
ちょっと考えてみて下さい。

【問題】

人口の1%が罹患する病気がある。
検査方法は確立されていて
その精度は98%

ここでの精度とは「正しく判定できる率」
つまり、
罹患者が検査すると、
 98%が陽性となり2%が陰性となる。
非罹患者が検査すると、
 98%が陰性となり2%が陽性となる。
誤判定2%ということだ。


さて、
この検査を受けて陽性だったとき
実際に罹患している率は
どの程度か?

 

「え!? 
 精度が98%ということは
 98%じゃないの?」
と思った方、
実はぜんぜん違うのだ。

問題文に説明用の記号を入れて
書き直してみる。

人口の1%(a)が罹患する病気がある。
検査方法は確立されていて
その精度は98%(b)
つまり、
罹患者が検査すると、
 98%(f1)が陽性となり
 2%(f2)が陰性となる。
非罹患者が検査すると、
 98%(f3)が陰性となり
 2%(f4)が陽性となる。

検査結果陽性者が、
実際に罹患している率(r)は?

図に示すとこんな感じだろうか。
実際の比率通りに書くと
わかりにくくなってしまうので、
あくまでも説明用に模式的に書いている。

Rikan1

100万人を対象にして計算してみよう。
罹患者は1%なので1万人。
つまり f1 + f2 = 1万人
 f1 = 1万人x98% = 9800人
 f2 = 1万人x 2% = 200人
非罹患者は99万人。
 f3 = 99万人x98% = 97万200人
 f4 = 99万人x 2% = 1万9800人

検査での陽性者はf1とf4。
でも実際に罹患している人はf1のみ。
 r = f1 / (f1+f4) = 33%

つまり罹患率1%の環境下、
検査精度98%の検査で
陽性者が実際に罹患している率rは
33%にしかならない


「検査精度98%」を聞いたとき
通常はf1:f2のことしか頭に浮かばず
f4がイメージしにくい。
今回の場合、
 f1 約1万人に対して、
 f4が約2万人もいる。
f4が実際にはかなり大きい。
そのことが、
直感とのギャップを生んでいるのであろう。

 

では、罹患率と検査精度を少し動かして
rの動きを見てみよう。

(E1) 検査精度を動かしてみる

Rikan3

罹患率1%のまま、検査精度を
99%から60%で動かすとこんな感じ。
検査精度70%程度の検査では
結果が陽性であっても
rは2%にしかならないため
事実上検査結果に意味はない、
ということになってしまう。

 

(E2) 罹患率を動かしてみる

Rikan4

検査精度98%のまま、罹患率を
0.1%から10%に動かすとこんな感じ。
これはかなり興味深い結果となっている。
罹患率10%、
つまり10人に一人が罹患しているような
そんな集団に対して検査をすれば
同じ検査精度98%の検査でも
rは84%にまで高くなる。

無作為に検査を実施しない。
患者がいる可能性が高い集団に対して
検査をする

というのはこういう点で大きな意味がある。

 

(E3) 検査精度が70%だったら

Rikan5

(某P**検査のことを意識してではないが)
検査精度70%の場合について
試算してみたのがこの表。
数値を見ていただければわかる通り、
rの値はどの場合でも小さく、
罹患率10%という高い集団で検査をしても
rは21%までにしかならない。

 

r(検査陽性者が実際に罹患している率)を
あげる、つまり検査結果がある確率で
意味を持つようにするためには、
E2に書いたように、
検査集団を選ぶことがいかに有効か

よく分かる。

ほかにrを上げる方法はないのだろうか?

実際には、検査の誤判定率は
罹患者の場合と非罹患者の場合で違う、
ということは一般的なようだ。

「罹患者なのに陰性」の間違いと
「非罹患者なのに陽性」の間違い
の率が違う、ということは
容易に想像がつく。

ウイルスが
 「あるのにない」と
  判定してしまう率よりも、
 「ないのにある」としてしまう
  誤判定の率の方が低い、
というような場合。

今、最初の問題の検査精度を
罹患者の誤判定率(2%)に対して、
非罹患者の場合はその1/10
つまり(0.2%)として図を書いてみる。

Rikan7

仮にこの比率を使って問題文を書き直すと

人口の1%(a)が罹患する病気がある。
検査方法は確立されていて
その精度は罹患者に対しては98%(b)
つまり、
罹患者が検査すると、
 98%(f1)が陽性となり
 2%(f2)が陰性となる。

2%が誤判定だが、
非罹患者に対しては
その率は1/10になるとする。
つまり
非罹患者が検査すると、
 99.8%(f3)が陰性となり
 0.2%(f4)が陽性となる。

検査結果陽性者が、
実際に罹患している率(r10)は?

となる。

最初の問題の正解rは33%だったが、
今回の条件で計算すると
f4が小さくなるため
その値r10はなんと83%になる

結果の信頼性が大きく上がったではないか!

同様に、E1-E3のすべての場合について、
非罹患者に対する誤判定率を
罹患者に対するものの1/10として
再計算したのがこの表。
(rまたはr10が70%以上になったものは
 青く塗っている)

Rikan6

一試算ではあるものの、この表を見ると、

(1)「検査対象において
  罹患率何%の病気の検査なのか?」

(2)「検査精度(誤判定率)は、
  対罹患者の場合と
  対非罹患者の場合で違うのか」

(3)「違う場合、それぞれどの程度か」

これら3つの質問に対する回答によって
「検査結果が陽性だった」の意味が
大きく異なってくることがよくわかる。

逆に言えば、それらが不明なままで
「検査結果が陽性だった」
を論じても、あまり意味がないことは
表を見れば明らかだ

単純な試算でも1%から98%までが
表に登場しているわけだから。

 

 

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