ジャーナリスト北村兼子 (5)
(全体の目次はこちら)
ジャーナリスト北村兼子 (5)
- ベルリンにて英語とドイツ語で演説 -
北村兼子さんの残した
小気味いい文章を振り返る5回目。
「痛快」で、
思わず声にだして読みたくなる
約90年前の文章とその背景を
まだまだ紹介したいのだが、
長くなってしまったので
今回で一旦一区切りとしたい。
北村兼子さんてどなた?
という方は
第一回目の記事の略歴だけでも
ご覧下さい。
ジャーナリストして優秀なだけでなく
飛行機の時代を予見し
自分で操縦してヨーロッパに行こうと
パイロットの資格まで取ってしまった
女性なのですから。
今回も参考図書はこれ。
大谷渡 (著)
北村兼子 - 炎のジャーナリスト
東方出版
(書名または表紙画像をクリックすると
別タブでAmazon該当ページに。
以下色のついた部分は本からの引用。
水色部は北村さんの文章そのまま、
茶色部は著者大谷さんの文章)
(それにしても
私のブログがなんらかの影響を与えた、
なんてことはありえないだろうが、
リンク先のアマゾンの中古本が
稀覯本でもないのに
すごい値段になっている。
ビックリ!)
国際舞台での活躍が始まるものの
国際的な婦人会議が当時、
全面的に支援されていたわけではない。
それについてももちろん発言している。
政府の代表であつても
国民の意思を代表してはゐない」
「婦人の思想なんか
欠(かけ)らも交つてはゐない」
と記し、
「私たちの外交を脱線だといふのを
言はしておくがいゝ」、
男たちが敷いている
「外交レールの終点が戦争駅なら
一日も早く脱線させねばならぬ」
「私たちはレールを外して
赤旗を振つてゐる」
と主張したのであった。
こんなおもしろいたとえで
返しているときもある。
赤くさいといはれ、
無産派からは
白くさいといはれ、
頭が赤と白とにねぢれ
散髪屋の看板棒のやうに
なつてゐた。
1929年、26歳のとき、
ベルリンで開かれた
万国婦人参政権大会に
日本代表として出席。
イギリス・スイス・アメリカ・
ウルグアイ・オーストラリア・フランス・
チェコスロバキア・トルコ・ルーマニア・
エジプトの代表と並んで演説している。
北村さんの演題は、
「日本に於ける婦人運動と
婦人公民権法案の否決」であった。
北村さんは大会中に、
英語演説を1回、ドイツ語演説を2回行い、
討議に参加して
毎日のようにテーブルスピーチを行った。
同盟会長やフランスの指導者らと共に
ラジオによる放送演説も行っている。
万国婦人参政権大会ののち、
ジュネーブの国際連盟、
パリ、そしてロンドンにも寄り、
その後、プラハで開催される
国際婦人平和自由連盟大会
にも出席している。
現存する彼女のパスポートには、
「昭和4年5月6日」付で、
「右ハ万国婦人参政権大会出席ノ為メ
第三十二頁記載ノ各国へ赴クニ付
通路故障ナク旅行セシメ且
必要ノ保護扶助ヲ与ヘラレム事ヲ
其筋ノ諸官二希望ス」
とあり、
「ソビエト連邦、
波蘭(ポーランド)経由、
独逸(ドイツ)・
仏国(フランス:リオン、
マルセリ島、パリ)・
墺太利(オーストリア)・
伊太利(イタリア)・瑞西(スイス)・
白耳義(ベルギー)・和蘭(オランダ)・
チェコスロバキア・英国・
西班牙(スペイン)・
葡萄牙(ポルトガル)・土耳古(トルコ)・
印度(インド)・北米合衆国」
が列記されている。
また当時、ベルリンへは陸路だったため、
モスクワでは対外文化連絡協会の
女性委員たちの案内で
ソビエトロシアの組織や施設も
見学していた。
育児所や託児所・ロシア劇場・医院・
廃兵院・養老院などを訪ね、
「執行委員会の模様」も見た.
数日の限られた見学ではあったが、
北村は
「ロシアの真相が
資本と無産との両主義者によつて
誤つて伝へられてゐる」
との印象をもった。
「無産党のいふほど理想国でもなく
資本家のいふほど禽獣国でもない」と
感じたのであった
(『婦人春秋』1929年11月号)。
偏見を持たずに
冷静に事実を把握しようという姿勢が
ここからもよく伝わってくる。
そうそう、パリでは紹介されて
画家の藤田嗣治と親しくなって
肖像まで描いてもらったという。
その後、1930年、北村さんは
「婦人文化講演会」の講師として
台湾に招かれ、数カ所で講演している。
「この辺で注意がくるか、
かういへば中止はきやしないか、
この位はどうだろうと
探りを入れながら」、
台北から南へと旅をした。
言論圧迫を受けない表現をとりつつも、
主張すべきところは主張したい
というのが彼女の考えであった。
講演にあたって北村は、
植民地統治下の
台湾における言論の統制に
強い関心を示していたのである。
実はこの台湾への出立に際し
北村さんは、
台湾の元陸軍軍医部長の
藤田嗣章から
総督宛の紹介状をもらっていた。
画家の藤田嗣治の父である。
パリで親交を結んだ
藤田嗣治が帰国したとき、
北村は神戸まで出迎えていて、
藤田父子とは親しい付き合いが
始まっていた。
1930年2月以降に出版された
北村の著書のほとんどは、
藤田嗣治の装丁である。
北村家には、
藤田嗣治がスケッチした
北村兼子の肖像画などが
現存しているという。
飛行士の免許を取り、8月14日には
自らが操縦する飛行機で
ヨーロッパへ立つ準備ができていた
1931年7月26日、北村さんは、
腹膜炎のため、わずか27歳という
短い人生を終える。
最後にもう一度、
北村さんの文章のリズムに触れるため、
22歳のときに出版された『恋の潜航』から
「私娼をどうする」
の一節を載せておきたい。
も一度述べさせてもらう、
私娼に臨む方策をキメてから
公娼をヤメる、
これが順序であると私は思ふ、
しかし大勢は善後の措置を
考慮することなしに、
舞台装置の完成しない前に
幕を切つて落してしまふ、
さうでないと
見物衆が退屈するからといふ。
公娼廃止後はある程度まで私娼を認め
一種の職業として
警察の登録簿へ記入することにならう、
つまり一とまとめになつてゐたものが
散娼となり、
税金が取れなくなつて
病毒が散布し罪人の捕縛場が板囲ひを
撤廃したゞけのことになる、
そんなことになつたら
今の廃娼論者たちは
ムキになつて議論を
新しく蒸しかへすであらうが、
純理論者には勝手がちがつて
お気の毒だが、
実際政策としてはさういふところへ
落付くものと考へられる。
27歳という早すぎる死。
鋭い視点で質の高い仕事をしながら、
いろいろな意味で
新しい道を切り拓いていった
その「挑戦心」に心からの敬意を払いつつ、
本の紹介を終わりにしたいと思う。
(全体の目次はこちら)
最近のコメント