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2020年8月

2020年8月30日 (日)

ジャーナリスト北村兼子 (5)

(全体の目次はこちら


ジャーナリスト北村兼子 (5)

- ベルリンにて英語とドイツ語で演説 -

 

北村兼子さんの残した
小気味いい文章を振り返る5回目。

「痛快」で、
思わず声にだして読みたくなる
約90年前の文章とその背景を
まだまだ紹介したいのだが、
長くなってしまったので
今回で一旦一区切りとしたい。

北村兼子さんてどなた?
という方は 第一回目の記事の略歴だけでも
ご覧下さい。
ジャーナリストして優秀なだけでなく
飛行機の時代を予見し
自分で操縦してヨーロッパに行こうと
パイロットの資格まで取ってしまった
女性なのですから。

今回も参考図書はこれ。

大谷渡 (著)
北村兼子―炎のジャーナリスト
東方出版

(以下色のついた部分は本からの引用。
 水色部は北村さんの文章そのまま、
 茶色部は著者大谷さんの文章

(それにしても
 私のブログがなんらかの影響を与えた、
 なんてことはありえないだろうが、
 リンク先のアマゾンの中古本が
 稀覯本でもないのに
 すごい値段になっている。
 ビックリ!)


国際舞台での活躍が始まるものの
国際的な婦人会議が当時、
全面的に支援されていたわけではない。
それについてももちろん発言している。

「これまでの外交官は
 政府の代表であつても
 国民の意思を代表してはゐない


婦人の思想なんか
 欠(かけ)らも交つてはゐない


と記し、

「私たちの外交を脱線だといふのを
 言はしておくがいゝ」、

男たちが敷いている
外交レールの終点が戦争駅なら
 一日も早く脱線させねばならぬ


「私たちはレールを外して
 赤旗を振つてゐる」

と主張したのであった。

こんなおもしろいたとえで
返しているときもある。

既成政党からは
赤くさいといはれ、
無産派からは
白くさいといはれ、
頭が赤と白とにねぢれ
散髪屋の看板棒のやう
なつてゐた。

 

1929年、26歳のとき、
ベルリンで開かれた
万国婦人参政権大会に
日本代表として出席。

イギリス・スイス・アメリカ・
ウルグアイ・オーストラリア・フランス・
チェコスロバキア・トルコ・ルーマニア・
エジプトの代表と並んで演説している。

北村さんの演題は、
「日本に於ける婦人運動と
 婦人公民権法案の否決」であった。

北村さんは大会中に、
英語演説を1回、ドイツ語演説を2回行い、
討議に参加して
毎日のようにテーブルスピーチを行った。

同盟会長やフランスの指導者らと共に
ラジオによる放送演説も行っている。

万国婦人参政権大会ののち、
ジュネーブの国際連盟、
パリ、そしてロンドンにも寄り、
その後、プラハで開催される
国際婦人平和自由連盟大会
にも出席している。

現存する彼女のパスポートには、

「昭和4年5月6日」付で、

「右ハ万国婦人参政権大会出席ノ為メ
 第三十二頁記載ノ各国へ赴クニ付
 通路故障ナク旅行セシメ且
 必要ノ保護扶助ヲ与ヘラレム事ヲ
 其筋ノ諸官二希望ス」

とあり、

「ソビエト連邦、
 波蘭(ポーランド)経由、
 独逸(ドイツ)・
 仏国(フランス:リオン、
 マルセリ島、パリ)・
 墺太利(オーストリア)・
 伊太利(イタリア)・瑞西(スイス)・
 白耳義(ベルギー)・和蘭(オランダ)・
 チェコスロバキア・英国・
 西班牙(スペイン)・
 葡萄牙(ポルトガル)・土耳古(トルコ)・
 印度(インド)・北米合衆国」

が列記されている。

また当時、ベルリンへは陸路だったため、
モスクワでは対外文化連絡協会の
女性委員たちの案内で
ソビエトロシアの組織や施設も
見学していた。

四日間滞在して、
育児所や託児所・ロシア劇場・医院・
廃兵院・養老院などを訪ね、
「執行委員会の模様」も見た.

数日の限られた見学ではあったが、
北村は
ロシアの真相が
 資本と無産との両主義者によつて
 誤つて伝へられてゐる

との印象をもった。

無産党のいふほど理想国でもなく
 資本家のいふほど禽獣国でもない
」と
感じたのであった
(『婦人春秋』1929年11月号)。

偏見を持たずに
冷静に事実を把握しようという姿勢が
ここからもよく伝わってくる。

そうそう、パリでは紹介されて
画家の藤田嗣治と親しくなって
肖像まで描いてもらったという。

 

その後、1930年、北村さんは
「婦人文化講演会」の講師として
台湾に招かれ、数カ所で講演している。

北村は演説中に、

「この辺で注意がくるか、
 かういへば中止はきやしないか、
 この位はどうだろうと
 探りを入れながら」、

台北から南へと旅をした。
言論圧迫を受けない表現をとりつつも、
主張すべきところは主張したい
というのが彼女の考えであった。

講演にあたって北村は、
植民地統治下の
台湾における言論の統制に
強い関心を示していたのである。

実はこの台湾への出立に際し
北村さんは、
台湾の元陸軍軍医部長の
藤田嗣章から
総督宛の紹介状をもらっていた。

藤田嗣章は、
画家の藤田嗣治の父である。

パリで親交を結んだ
藤田嗣治が帰国したとき、
北村は神戸まで出迎えていて、
藤田父子とは親しい付き合いが
始まっていた。

1930年2月以降に出版された
北村の著書のほとんどは、
藤田嗣治の装丁である。

北村家には、
藤田嗣治がスケッチした
北村兼子の肖像画などが
現存しているという。

 

飛行士の免許を取り、8月14日には
自らが操縦する飛行機で
ヨーロッパへ立つ準備ができていた
1931年7月26日、北村さんは、
腹膜炎のため、わずか27歳という
短い人生を終える。

最後にもう一度、
北村さんの文章のリズムに触れるため、
22歳のときに出版された『恋の潜航』から
「私娼をどうする」
の一節を載せておきたい。

くどいようだが
も一度述べさせてもらう、
私娼に臨む方策をキメてから
公娼をヤメる、
これが順序であると私は思ふ、

しかし大勢は善後の措置を
考慮することなしに、
舞台装置の完成しない前に
幕を切つて落してしまふ、
さうでないと
見物衆が退屈するからといふ


公娼廃止後はある程度まで私娼を認め
一種の職業として
警察の登録簿へ記入することにならう、
つまり一とまとめになつてゐたものが
散娼となり、
税金が取れなくなつて
病毒が散布し罪人の捕縛場が板囲ひを
撤廃したゞけのことになる、

そんなことになつたら
今の廃娼論者たちは
ムキになつて議論を
新しく蒸しかへすであらうが、
純理論者には勝手がちがつて
お気の毒だが、
実際政策としてはさういふところへ
落付くものと考へられる。

27歳という早すぎる死。

鋭い視点で質の高い仕事をしながら、
いろいろな意味で
新しい道を切り拓いていった
その「挑戦心」に心からの敬意を払いつつ、
本の紹介を終わりにしたいと思う。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2020年8月23日 (日)

ジャーナリスト北村兼子 (4)

(全体の目次はこちら


ジャーナリスト北村兼子 (4)

- 主義は鋭くあれ -

 

北村兼子さんの残した
小気味いい文章を振り返る4回目。

北村兼子さんてどなた?
という方は 第一回目の記事の略歴だけでも
ご覧下さい。
ジャーナリストして優秀なだけでなく
飛行機の時代を予見し
自分で操縦してヨーロッパに行こうと
パイロットの資格まで取ってしまった
女性なのですから。

今回も参考図書はこれ。

大谷渡 (著)
北村兼子―炎のジャーナリスト
東方出版

(以下色のついた部分は本からの引用。
 水色部は北村さんの文章そのまま、
 茶色部は著者大谷さんの文章)


北村さんは、
女性を蔑視する男性の頭の働きが
「男子専制」と軍備拡張を
生み出していると批判し、
著書「怪貞操」に次のように書いている。

道路を拡張してもその目的は
国民の福祉を増進させるが
目的でなくして、
まさかの時に軍用自動車を
走らせるのが本当の目的だ、

飛行機を奨励しても
文化に貢献させるが目的でなくして
まさかの時に
頭上から爆弾を見舞ふのが目的だ。

船舶は御用船に 染料は弾薬工場に、
すべてまさかの時の用意で、
まさかといふことは非常のことで、
非常といふのは
地震とか大水とかのことでなくて、
要するに喧嘩のことである


一国を挙げて
無頼漢の家庭のようにならしめ、
平時と戦争との二重生活は
貧乏国民に取つて贅沢の骨頂

尚武国などゝ時代おくれの腕力沙汰で、
不逞男子の養成は何といふ狂暴政策だ、

足らぬ金を割いて
喧嘩の準備に使うから生活は苦しく
焦燥の気分は全国を掩うて
鬱陶しきことたまらない

「時代おくれの腕力沙汰で不逞男子の養成」
とは、なんともまさに容赦ない言い方だ。
「鬱陶しきことたまらない」ほどの空気が
昭和の初め頃、
すでに全国を覆っていたのだろうか。


こちらに武ばつた拳をふり廻はせば
向うだつて脚で蹴る用意をするから、
差引き同じことだ。

今ごろに戦争なんかを始めて
勝つても負けてもつまらないことは、
この頃のドイツとフランスを
見てもわかる、

こんな時代おくれの考へは
闘争の狐に憑かれてゐる
男子専制の幻覚
であるから、
女性は人類の幸福のために
厳重な抗議を申込まねばならぬ。

「闘争の狐に憑かれている」か。

そういった大きな社会問題を論じる一方、
北村さんは当時、
女性記者だったがゆえの性的いやがらせや
低俗紙のでっち上げ記事とも戦っていた。

詳細な背景は本に譲るが、
そういった性的攻撃に対する
反駁の主張を吹き込んだレコードまで
出している。

彼女のレコードについて、

「職業婦人に対する男性の
 性的追撃の何如に卑劣であり、
 横着であるかと云ふ事を
 自己の体験上から
 告白してゐるもので、その真剣な
 そして堂々たるスピーチは
 実に痛快である

と「ニツトータイムス」1927年4月号は
書いている。

そうなのだ。まさにこの「痛快」さに
惹きつけられてしまうのだ。

 

そして、
いよいよ国際舞台での活躍が始まる。
ハワイ・ホノルルで開催される
汎太平洋婦人会議への出席が
25歳で決まったときの文章

顧みれば、私達の提げて行く荷物は
ムサ苦しいものばかりです。
 婦人参政(公民権)、
 廃娼(婦人売買禁止)、
 女子高等教育(男女共学)、
 法律上婦人の差別撤廃
 (特に民法、刑法、治警法)、
 婦人児童の深夜業、
 家庭における妻の地位、
これらは国際的に恥しい問題であり、
文明国にない日本の純国産品である。

斯んな厄介なものを負はされて
日本の体面を汚さないやうに
会議に臨む
ことは、
並一と通りの気苦労ではありませぬ。

それでも、下記のような言葉を見ると
なんとも頼もしいではないか。

「今度の会議には、
 英語を用語と決めてゐるから、
 ドイツ法科出の私には、
 一寸勝手が違ひます」が、

「何とかやつて退(の)けるつもり」

「使命を辱めないだけの
 自信はあります」

「斯(こ)ういへば高慢のやうだが、
 遠慮は平生のことで
 今は謙遜してゐる時でないから、
 私は厳然として自信のあることを
 述べさせて貰ひます


「国家を背景として
 正直大胆に討論します」

汎太平洋婦人会議出席の日本代表一行は
春洋丸という船でホノルルに到着。
現地の邦字紙「日布時事」は各代表者を取材。

吉岡弥生さんの談話には
「日本女医界の大立物」とあり、

市川房枝さんには
「婦選運動の市川房枝」と紹介があり、

北村兼子さんの談話には
「主義は鋭くあれ」の見出しが付けられた。

「日布時事」の記事には、
「北村女史」は
代表中の最年少とも思はれる」
とあり、
「婦人運動は全人口の半数の運動」
「従来のやうに
 識者の言に盲動してはいけない
主義は鋭くあれ
 これが妾(わたし)のモットーです」
といった彼女の言葉が掲載された。

「日本で有名な婦人記者」とのことで
北村さんは各国の記者からも
取材を受けている。

世界各国代表との
数日間の交流を通じての感想を
北村さんは次のように言葉で残している。

他国の代表は、日本の代表と違って
実によく話をした。

しやべつてから
 しかるのち考へるのではないか


と思うほどだったが、

「その論拠はしつかりして居て
 日本女が愚痴るのとはわけがちがふ」

と思った。
北村の印象では、

東洋凰に家庭愛から出発した意見と、
 西洋風に人類愛を基調とする議論

とが
「明らかに分流」していた。

喋ってから考えるのではないか、
の観察はなんとも鋭い。

基調に人類愛を感じる感性も。

北村さん自身が各国代表と
積極的に触れ合っていたことがよくわかる。

彼女たちは、古い殻を思い切って
脱ぎ捨てようとしていた。
アメリカ・カナダ・ニュージーランド・
オーストラリアなどの女性と話していると、
立派な母胎を養成しないで
 立派な国民を送り出さうとする

 日本の教育制度にはつくづく愛想が」
尽きた。

女性参政権を
何とかして得たいとしている日本女性と、
すでに得た権利
 どうして活かして使つたものか」
と論じている
「イギリス、アメリカ系の諸国」の
女性との落差は大きかった。

のちの報告で、名前は伏せられていたものの
市川房枝さんに
「年少な美人で才気煥発、
 行くとして可ならぎるはなし
 といつた正真正銘のモダンガール」
と書かれた北村さん。
海外でもフル回転していたのであろう。

 

北村兼子さんの文章、
あともう一回、見ていきたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2020年8月16日 (日)

ジャーナリスト北村兼子 (3)

(全体の目次はこちら



ジャーナリスト北村兼子 (3)

- 「肉体は売る時があつても・・・」 -

 

北村兼子さんの残した
小気味いい文章を振り返る3回目。

北村兼子さんてどなた?
という方は
第一回目の記事
の略歴だけでも
ご覧下さい。
ジャーナリストして優秀なだけでなく
飛行機の時代を予見し
自分で操縦してヨーロッパに行こうと
パイロットの資格まで取ってしまった
女性なのですから。

今回も参考図書はこれ。

大谷渡 (著)
北村兼子―炎のジャーナリスト
東方出版

(以下色のついた部分は本からの引用。
 水色部は北村さんの文章そのまま、
 茶色部は著者大谷さんの文章)

 

1926年、22歳のときに出版した
処女作「ひげ」に対しては

前回
の記事の最後に記した以外にも

「鋭い観察眼」「ユーモアも巧」
「勢ひを持つ筆」「女人の門戸解放」

といった北村の主張と才能を
積極的に評価する書評が多かったが、

一方で、
女性に対する差別意識を背景に
女性記者としての彼女を
露骨に攻撃したり、
皮肉交じりの警告を書いたりする

新聞や雑誌もあったようだ。

 

北村さんの鋭い語り口は、
男性に混じって法学を学んでいた
関西大学の卒業前に書かれた
「卒業して、それから」という文章でも
すでに全開。
ストレートな言葉からは
熱い思いがダイレクトに伝わってくる。

私は女である。
女であるが為め何十年大学に在つても
学士にはなれない。

正式の卒業も出来ないが
併(しか)しそれで好い。

学問は人を造る。
学問によって人にならうとする
その高遠な理想に活きてゐる私は
幸福である


学問を売らうと言ふ邪念が交ざると
「人」の影が薄くなる。
それが身振るひするほど嫌(い)や。

「高遠な理想に活きてゐる私は幸福である」
この思いこそが、
ケチな処世術をズバズバと斬る
揺るぎない思想の基盤と
なっていたものなのだろう。

 

私が女子学生聯盟に加はつて
学問の機会均等を叫ぶのは
学士になりたいとか、
無試験検定の恩典を
裾分けしてもらいたいとか言ふ
ケチな考へはない。

ただ正義に反する条理に反する、
人道に反すると言ふ点を
男性に知らしめ
其悔悟を待つのみである。

女子の為めに叫ぶのではなくして、
男性の為にその蒙を
啓(ひら)きたい
のだ。

男性の頭痛を代理する余裕はない。

それ以外では私は現在の聴講生で
申分はない。

女性の権利獲得運動は、
女性のためではない。
問題に気づいていない
男性のためだ、と。

 

私は肉体は売る時があつても
学問は売りたくない。

学問は肉体より尊い


百円や二百円の端金(はしたがね)金に
面を叩かれ、
十年苦心の学問を売らうとは
何事である。

こんな言い回しが
当時どのように響いたのか
ちょっと心配になるくらいではあるが、
とにかく、学問への熱い思いは
痛いほど伝わってくる。

彼女は、男の学生と
ただ一人肩を並べて受講し、
試験を受け論文を書き、
男性を凌ぐ成績を修めて
全課程を終えた。

しかし、卒業したものの
聴講生扱いだったゆえ、北村さんに
「学位記」は授与されていない。
「證」と記した卒業証書が渡された。

 

北村兼子さんの文章、
もう少し見ていきたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2020年8月 9日 (日)

ジャーナリスト北村兼子 (2)

(全体の目次はこちら


ジャーナリスト北村兼子 (2)

- 夜が明けたから太陽が昇るのではない -

 

北村兼子さんの残した
小気味いい文章を振り返る2回目。

北村兼子さんてどなた?
という方は 前回記事の略歴だけでも
ご覧下さい。
ジャーナリストして優秀なだけでなく
今から90年前の日本で、
飛行機の時代を予見し
自分で操縦してヨーロッパに行こうと
パイロットの資格まで取ってしまった
女性なのですから。

今回も参考図書はこれ。

大谷渡 (著)
北村兼子―炎のジャーナリスト
東方出版

(以下色のついた部分は本からの引用。
 水色部は北村さんの文章そのまま、
 茶色部は著者大谷さんの文章))


今日は、婦人参政権獲得に向けての
この文章から見てみよう。

政権を与へたら
家を外に奔走するからいけない
とは何だ。

家の内に燻(くす)ぶつて
政治を理解せぬやうな動物が
あつてこそいけないので、
国民の半数たる婦人
政治上の趣味のないやうでは
国家は振はぬ

「国民の半数」「国家は振はぬ」
簡潔な言葉には引力がある。


家を外にするといふ。
その家とは何である。
巣である塒(ねぐら)ある。

眠るときに雨露さへ凌げば
それで足るものではないか。

その家のため
精神まで束縛せられてはたまらぬ

「女性は家を」の考え方があったとしても
だからと言って
精神まで縛られる必要はない、
との指摘は明解で説得力がある。

 

そして次の記述も
実にいい。

婦人が向上したら
権利を与へやうといふが、
権利を呉れないで
束縛せられては向上のしやうがない。
束縛を解いてくれゝぱ
女の手足が伸びる。

夜が明けたから
太陽が昇るのではない。
太陽が昇るから
夜があけるのである

「夜が明けたから
 太陽が昇るのではない。
 太陽が昇るから
 夜があけるのである」
なんともうまい言い回しだ。
これは応用が利く。
ほかでも使わせていただこう。

当時、婦人参政権に当たっては、
なんだかずいぶんヘンな説も
まかり通っていたようだ。

生理上から
脳髄が男より軽いとか重いとかいつて
狡い商人が
砂糖の小売をするやうなことが
理屈とみなされるなら
入学試験には脳味噌の軽重を測る法を
案出したら
メンタルも入らねば競争も無用、
代議士選挙にもこの法を用ひるがよい。

ケチの付け方が頭から間違つてゐる

ユーモアを交えて
まさに「頭から間違っている」とバッサリ。
その通りだ。

もちろん、同性に「甘い」わけではない。
ちゃんとfairにかつ冷静に見ている。

要は跛(あしなえ)をひかぬことだ。
下駄の高さは揃つてゐるがよい

異性を説服するよりも、
因循な同性を刺戟して覚醒させる方が
却つて大事業
で、
街頭に叫ぶ声は悪魔の吼えと響き、
家庭を出ることを恐れること
風邪を気使ふ肺病人の臆病さを持つ。

跛(あしなえ)とは、
 足が不自由で正しい歩行ができないこと。

因循(いんじゅん)な、とは
 すすんで事をなそうとしないこと。
 消極的でぐずぐずしているさま。
   (小学館国語大辞典)

 

1926年、
北村さんは記者生活一周年を迎えるが、
その一年の間に「婦人」「週刊朝日」
「淑女」「民衆の法律」などの雑誌に書いた
随筆や評論のうち評判のよかった作品を集め、
「ひげ」と題する初めての著書を出版する。
22歳のときのことだ。

読売新聞」掲載の書評には、
「関西大学の法科に学び、
 現在「大朝」の
 婦人記者をしているといふ」著者は、
立論も筆もまさに
 所謂(いわゆる)男まさりの
 達者である
」とあり、

週刊朝日」は、
「今日の日本婦人で、
 これほどまで思ひ切つて物を言ひ得る人
 一寸他に類を求め得ざるべく、
 更に才学と文筆の涵養につとめ、
 一層の大成を期待する」と書いた。

民衆の法律」には、
「参政権に、或は
 閉ぎされたる女人の門戸解放に、
 堂々六尺の男子を向ふに廻し、
 口に筆に喧々囂々(けんけんごうごう)

筆触の軽妙筆端の峻烈なる、
 洵(まこと)に他の追従を
 許さぬところ
」と記された。

記者一年目にして
これだけの印象を残せた北村兼子さん。

もう少し見ていきたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2020年8月 2日 (日)

ジャーナリスト北村兼子 (1)

(全体の目次はこちら



ジャーナリスト北村兼子 (1)

- 「女は女らしく」が意味するところ -

 

北村兼子さんというジャーナリストを
ご存知だろうか?

1903年、明治36年の生まれ。
わずか27年という短い一生を
彼女が書き残したものとともに
丁寧に振り返っているこの本は、
ほんとうにエキサイティングで
おもしろい本だった。

大谷渡 (著)
北村兼子―炎のジャーナリスト
東方出版

(以下色のついた部分は本からの引用。
 水色部は北村さんの文章そのまま、
 茶色部は著者大谷さんの文章

 

まずは、略歴をざくっと紹介。

***********************************
北村さんは、1903年(明治36年)の生まれ。

関西大学法学部で法律と経済を学ぶ。
当時女性は正科の学生として
受け入れてもらえなかったため
「聴講生」として卒業。

在学中から
大阪朝日新聞の記者として活躍。

特に婦人問題、女性の権利拡大に関して
積極的に取材・執筆活動を展開。

朝日新聞退職後、
ハワイやベルリンで開催された
国際会議に出席

婦人参政権運動等に関し、
英語およびドイツ語にて講演。

さらに、
飛行機によるスピード時代の到来は
世界の政治・経済・軍事を一変させると
日本飛行機学校にて操縦士資格を取得

自らの操縦によるヨーロッパ訪問飛行
準備中に27歳という若さで病死。
***********************************

あとから紹介するように
残した文章もすばらしいのだが
それに加えて
自分で操縦する飛行機で
ヨーロッパに行こうとしていたなんて、
それを今から90年以上も前の日本で
かつ女性で挑戦しようとしていたなんて。

 

大正から昭和にかけて、
同世代にはどんな人がいた時代だろう。
ちょっと棒年表で見てみたい。


Photo_20200219123901

(棒左側の青数字は生年、
 棒右側の黒数字は満年齢での享年、
 棒の色は60歳までは20年区切り)

のちに触れるが、北村さんは
藤田嗣治さんや市川房枝さんとは
直接会っている


人見絹枝さん以下は同世代の人から
数人を選んで並べているだけで
特に北村さんと
繋がりがあったわけではない。

 

パイロットの資格まで取って
ヨーロッパ行きを実現させようとしていた
その実行力にはほんとうに驚かされるが、
そもそもの職業であった
ジャーナリストとして書き残した
多くの文章は、
パイロットの資格をも越えるほどの
魅力にあふれている。

大正から昭和のころの文章ゆえ、
古文が不得手の私でも
スラスラと読めることも助かるが、
とにかく表現が明瞭で鋭くて
そのうえユーモアもあるので
独特なリズムに乗せられ
ドンドン読めてしまう。

たとえば、女学校の教育について
こんなことを述べている。

彼女等が教はつた事は大きな嘘である。

先生は「女は奴隷に甘んぜよ」といふ
耳ざはりの悪い言葉を
修身に用ひないで、
女は女らしく」といつたやうな、
円滑で狡猾な陰険的感化を以て
限定せられた不自由な範疇の内に
女性を追ひ込んでしまふ。

「女は女らしく」が意味するところを
「女は奴隷に甘んぜよ」に結びつけて
教えは「大きな嘘」と言い切ってしまう
この語り口。

 

女学校が門戸を開いて
学生を迎へる主たる目的は、
奴隷観念の潜入的注射を施すためで、
女子教育拡張といふ美名の下に、
奴隷の大量生産を試みてゐる

彼女が、人間の自由さに目覚めたのは
正科の学生となれなくても
男子学生に混じって必死に勉強していた
関西大学での経験からだった。 

目覚めたと称するものでも
教育といふ催眠術にかゝり、
男子の暗示に従つて
フラフラとしてゐる。

それで私は、
女子に限定せられた教育を呪ふ。

現に女学校で虚偽の修身を
教へ込まれた私が
大学の法科で何千人といふ
男子ばかりの中に交つて
男性的教育を受けて、
始めて人間といふものは、
そんな卑屈な不自由なものでない
といふ事に眼が覚めた

「人間といふものは、
 そんな卑屈な不自由なものでない
 といふ事に眼が覚めた」
自分が受けた女子教育からは
得られなかったこの考え方が
のちの彼女に
大きな影響を与えることになる。

婦人が人類としての
差別撤廃を要求するのが尚早なら、
何時になつたら尚早でないのだ


女の進歩は亀のやうで、
男のそれは兎のやうな
教育の制度であつて、
此の兎は一卜眠りもしないから、
追ひつき得られる時があつたら、
おとぎ噺の奇跡に過ぎぬ。

十年二十年と待つて
男性から女に権利を
「施行」してもらふか、

はた女性自らのカを以て
権利を奪還するか

岐れ路に立つてゐる。

なんとも小気味いい文章ではないか。

北村兼子さんの魅力、
もう少しみていきたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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