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2020年6月28日 (日)

読んでいるのは自分の心だ

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読んでいるのは自分の心だ

- 雨の日、本を読み返してみて -

 

東京都で60人。
今日、2020年6月28日、
都の一日あたりの
新型コロナウイルスの感染者数は
緊急事態宣言が解除された以降で
最多となった。

まだまだ先の見えない日々が続いている。

朝から本格的な雨だった日曜日、
この本

養老 孟司 (著)
遺言。
新潮新書

(水色部は本からの引用)

を軽い気分で読み返してみた。

養老さん節全開の読みやすい本だが、
今日は、最初に読んだときは
ちょっと違う部分が
妙に心に残った。

本の紹介としては、
全く役に立たないが
雨の日の自分への読書の記録(?)として
三箇所だけメモしておきたい。

 

ひとつ目は、心理学での
「心を読む(mind-reading)」について。

自分が相手の立場だったら、
どうするか。

それはあくまでも
自分についての思考であって、
相手の心を読んでいるのではない。

心理学者が
「心を読みたがる」のはよくわかるが、
「読んでいるのは自分だ」
というチェックは常に必要であろう。

この視点、このチェック、
ほんとうに常に忘れずにいたい。
相手の心なんて「読めない」のだから。

 

ふたつ目は、事実の複雑さ、について。

科学上の理論は、
しばしば美しいとされる。

「真理は単純で、
 単純なものは美しい」

よくそう言われる。

ただし私はたえず反論する。
真理は単純で
美しいかもしれないけれど、
事実は複雑ですよ、と。

感覚所与は多様だけれど、
頭の中ではその違いを
「同じにする」ことができるから、
結果が単純になるんでしょ、と。

事実は複雑で、
だからこそおもしろい。
その複雑さを、複雑なまま感じ取る感性、
そういうものを大事にしたい。

感じたあと、
単純化して理解しようとするのは
「頭」だが
感じるのはまずは「身体」だ。

 

3つ目は、まさにその
感じること、感覚について。

現代人はひたすら
「同じ」を追求してきた。

最初に生じたのは、身の回りに
恒常的な環境を作ることである。

部屋の中にいれば、
いまでは終日明るさは変化しない。
風は吹かない。温度は同じである。
屋外に出れば、それが都市環境となる。

都内の小学校の校庭は
ひたすら舗装される。
同じ堅さの、同じ平坦な地面、
それを子どもに与える。

べつに感覚を無視することを
教えているつもりはないであろう。

安全だとか、便利だとか、清潔だとか、
その時々で適当な理由付けをする


でも一歩引いて見てみれば、
やっていることは明らかである。
感覚所与を限定し、
意味と直結させ、あとは遮断する


世界を同じにしているのである。

養老さんは
「感覚所与を限定し」
という表現を使っているが、
せっかく持っている感覚を
現代人はなぜ限定しようとしてしまうのか?

しかもそれに対してなぜ
安全だとか、便利だとか、清潔だとか、
いわゆる「快適」と結びつく説明が
できてしまうのか?

「遮断」によって失われたものを
改めて考えてみる必要があると思う。

 

 

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