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2020年1月 5日 (日)

初詣はどこに行こうか?

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初詣はどこに行こうか?

- 秀吉と家康との交差点 -

 

あけましておめでとうございます。

新年、「初詣はどこに行こうか?」
そう迷っているようであれば、
下記の磯田さんの本をお薦めしたい。

磯田道史 (著)
日本史の内幕
- 戦国女性の素顔から幕末・
 近代の謎まで
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

本は雑誌への連載をまとめたものだが、
その中の一篇
「浜松に史上最強の霊地」に
こんな話がある。

 

浜松市内の
今は小さな神社となっている地に、
460年前、
「サキ」という少女が住んでいた。

キサは浜松城の前身
引間(ひくま)城の城主
飯尾豊前守(いのおぶぜんのかみ)の娘。

ある日、配下の「松下」が
浜松の町はずれ
「曳馬(ひくま)ノ川辺」で
拾ったという少年を連れてきた。

白い木綿の着物は垢だらけ。
異形な者で
「猿かと思えば人。人かと思えば猿」
といった感じ。

「国はどこ。何者か」と訊くと
「尾張から来た」と猿はいい、

「幼少の者が遠路なにしに来た」
と問うと
「奉公望み(武家に就職希望)」
と答えたという。

松下はこの猿顔の少年を
宴会の見世物にしようと考え、
飯尾家の一同に披露した。

「皮の付いた栗を取り出して与え、
 ロで皮をむき喰う口元が
 猿にそっくり
」と、
みな大笑いしたと
『太閤素生記』 にはある。

 

父親の遺産
永楽銭一貫文(1000枚)の一部を貰い、
尾張清洲で木綿着を作り針を仕入れて、
それを売りながら浜松まで来たという
16歳の少年
は、それから愛され、
草履取となる。それどころか

側近に抜擢(ばってき)してみると
「なに一つ
 主人の心にかなわぬことがない」
完璧な勤めぷり。

それで納戸の出納管理を命じた。

ところが他の小姓が妬(ねた)んだ。

たびたび物が無くなり
「猥が盗んだ」といってイジメた。

松下は慈悲ある人で
「おまえはよそ者だから
 無実の罪を言いかけられるのだ。
 不憫(ふびん)だが本国に帰れ」
と路銀に永楽銭30疋(300枚)を与えて
暇を出した。

この猿がすなわち秀吉で
16歳から18歳まで3年間、
浜松にいたことになる

キサは80歳近くまで長生きして
豊臣滅亡後まで生き延び、
秀吉の真実を遠慮なく語り、孫が
『太閤素生記(たいこうすじょうき)』
という記録に残した


これで闇に消えるはずであった
秀吉の無名時代の様子が
後世に伝わった。

秀吉の、のちの出世の第一歩は
引間城本丸だったわけだ。

 

それからしばらくして
引間城は落城する。
キサはかろうじて逃げおおせた。

かわってこの50メートル四方の
引間城本丸に入ってきたのは、
徳川家康であった。

家康はこの狭苦しい空間に
一年ほど寝起きして城を拡張。
城の名前を変え、浜松城とした。

家康はこの城を根城にして
遠江(とおとうみ)一帯を侵略した。

天正10(1582)年に武田氏が滅亡、
同じ年に、信長が京都本能寺で殺されると、
ここから出陣して
一挙に甲斐・信濃と領土を拡大。

天下を狙えるポジションに躍り出て、
秀吉の天下を奪った

秀吉が引間城に居たのが
1553年~1555年頃。
家康の入城は1570年。
わずか50メートル四方の地で
そんな偶然があったなんて。

秀吉と家康。
二人の天下人の人生の転機となった
交差地点の所番地は
浜松市中区元城(もとしろ)町111の2
である。
今の浜松東照宮

全く流行(はや)っておらず
初詣客は少ない。
しかし、ここに
こっそり参って成功した
浜松の社長を私は何人も知っている。

これは確かに
かなり強力なパワースポットかも。

初詣で迷っているようであれば、
参考にしてみてはいかがでしょう?
「浜松東照宮」です。

 

 

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