« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »

2020年1月

2020年1月26日 (日)

「四十にして惑わず」か? (3)

(全体の目次はこちら



「四十にして惑わず」か? (3)

- 「心」の誕生・文字から広がる精神世界 -

 

前回
論語の中の有名な一節
「四十にして惑わず」に使われている
一番肝心な漢字「惑」が
なんと孔子の時代にはなかった、
という話を書いた。

参照していたのはこの本。

安田登(著)
身体感覚で『論語』を読みなおす。
―古代中国の文字から―
(新潮文庫)

(以下水色部本からの引用)

約500年以上にも渡って
文字ではなく
口誦によって伝承された論語は、
書物として編まれる際、
当然のことながら
編纂時の漢字が使われた。
なのでその中には、
孔子の時代にはなかった漢字も
含まれている。

なんという事実だろう。

代表例として「惑」をあげたが、
ほかにもある。

そしてそこからは、
単なる漢字一文字に留まらない
もっと大きな世界が見えてくる。

 さて、こんな風に
『論語』を読んでいくと、
現行『論語』にはあるが、
孔子の時代にはなかった、
あるグループに属する
文字群を見つけることができます。

 それは「心」のグループです。

「心」のグループに属する文字が
孔子の時代には、
ごっそりと抜けている
のです。

 

「心」のグループに属する文字とは・・・

「心」のグループに属する文字には、

たとえば
「思」や「恋」などの
「心」がつく漢字

「性」や「悔」などの
「(りっしんべん)」がつく漢字

そして「恭」や「慕」などの
「(したごころ)」がつく漢字

などがあります。
先述の「惑」もそのひとつです。

むろん「心」グループの漢字が
まったくないというわけでは
ありません。

しかし、「惑」のような
「え、こんな漢字が」と思うような
「心」グループの漢字が
孔子時代にはないのです

では、いつごろ出現したのだろう?

甲骨文字の中にも、
殷の時代の金文の中にも
「心」は見つけることができない。

殷が終わり、周になると
金文の中に「心」グループの文字が
突如出現してくる。

殷を滅ぼし、周王朝になったのは
紀元前1046年ごろ。
今から3000年くらい前。

つまり、「心」は
約3000年前に生まれたようだ。
孔子が活躍する、たった500年前。

その後、「心」グループの漢字が
順次生み出されていくことになるが・・・

 周の時代の間、すなわち
戦国時代晩期までに生み出された
「心」の子どもたちは
たったの87字です。かなり少ない。

『論語』の中の「惑」も「志」も、
孔子が生きていた時代には
誕生していなかった

 

「心」という字がなかったということは、
当時、人間に「心」という認識が
なかったからではないか?
そういう疑問は当然浮かんでくる。

ジュリアン・ジェインズの
「神々の沈黙」(紀伊國屋書店)
では、
「心が生まれたのは3000年前だ」と
主張しているという。

 

これは漢字の「心」の起源と
偶然にも時期を一にします


くり返しになりますが、
漢字の「心」も
ちょうど3000年前に生まれたのです。

 

漢字の発生とは関係のない
別な分野の研究の成果が、
同じような数字に到達しているなんて。

 心理学教授だったジェインズは、
統合失調症の人々の心の状態から、
どうも古代人は「神」の声に
従っていたのではないか、
という仮説を出します。

 こういう人間の心を彼は
<二分心(にぶんしん)>
(正しくは<二院制の心>)

と名づけました。

なぜ「二分」心というかというと、
古代人の心の中は、
そして現代でも統合失調症の
患者さんたちの心は、
次のように二つに分かれていると
考えられるからです。

(1) 命令を下す「神」と呼ばれる部分
(2) それに従う「人間」と呼ばれる部分

ここでの「神」とは、
特定の宗教の神ではなく、
「天の声」のようなものを指すのだろう。

 

ジェインズ<二分心>とは少し違うのですが、
『論語』の中にも二つの世界があるからです。

ただしそれはジェインズのいう
(1) 命令を下す「神」と呼ばれる部分
(2) それに従う「人間」と呼ばれる部分
という区分とは少し違います。

孔子の時代にはすでに
「心」が登場しているからです。
命令を聞く「人間」の部分には、
すでに「心」が生まれているのです。

ですからジェインズの図式に当てはめると
『論語』の中の二つの世界は、
(1)「神」の部分と、
(2)「心」の部分に分かれます。

『論語』 の用語を使えば
「命(めい)」の世界と
「心(しん)」の世界です。

「命」の世界・・・運命、天命
「心」の世界・・・心、意思

 

「命」とは

「命」とは運命の命です。
ジェインズの説でいえば
「神」の部分に近いでしょう。
自分のカではどうすることもできない、
大きな力によって動かされている世界、
それが「命」の世界
です。

 

そして「心」とは

それに対して「心」の世界は、
自分の意思の世界、自由意思の世界です。
与えられた状況を、自分の力で
切り開いていこうとする世界、
それが「心」の世界
です。

 

この「命」と「心」という世界が、
論語とどんな関わりがあるのか、
その視点で、本文は展開されていく。

古代中国文字に注目するだけでも
これだけの世界観に繋がっていくのだ。

内容の濃いすばらしい本なので
ご興味があれば、ぜひ
書店で手にとって見てほしい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2020年1月19日 (日)

「四十にして惑わず」か? (2)

(全体の目次はこちら


「四十にして惑わず」か? (2)

- 口誦(音)で伝わったがゆえに -

 

安田登(著)
身体感覚で『論語』を読みなおす。
―古代中国の文字から―
(新潮文庫)

(以下水色部本からの引用)

を読んで、論語の
「四十にして惑わず」
(「四十而不惑」)


を考えてみる2回目。

前回は、
*孔子が生きたのは2500年前。

*『論語』がまとめられたのは
 孔子が活躍した時代から
 500年から700年ほど経った後漢の時代。

*500年の間は文字ではなく、
 弟子の口から口へ、口誦で伝えられた。

*この500年間に漢字も増えていった。

*孔子の時代の漢字はわかっている。
 その視点で「四十而不惑」を見ると
 「四十而不惑」の中の
 最も重要な漢字「惑」は
 孔子の時代には存在していなかった。


という衝撃の事実までをお伝えした。

「惑」という字が、
孔子が生きていた時代には
まだなかったなんて!!

だったら、孔子は
何を言おうとしていたのだろう。
そしてそれは、どんな漢字で
表現されるものなのだろう?

今日はそこから始めたい。

『論語』の中で、
孔子時代にはなかった漢字から
当時の文字を想像するときには、
さまざまな方法を使います。
一番簡単なのは、
部首を取ってみるという方法です。

部首を取ってみて、
しかも音(おん)に
大きな変化がない場合、
それでいけることが多い。

「惑」の漢字の部首、
すなわち「心」を取ってみる。

「惑」から「心」を取ると
「或」になります。

古代の音韻がわかる辞書を引くと、
古代音では「惑」と「或」は
同音らしい

となると問題ありません。

そして「或」ならば
孔子の活躍する前の時代の
西周(せいしゅう)期の
青銅器の銘文にもありますから、
孔子も使っていた可能性が高い。

 孔子は
「或」のつもりで話していたのが、
いつの間にか「惑」に
変わっていったのだろう、
と想像してみるのです。

口誦伝承で、
「音」は伝わっていた。

孔子時代に「或」のつもりだったものが
500年以上にも渡って口承されるうちに
孔子時代にはなかった漢字の「惑」に
置き換わってしまった。

もしそうだとしたら、
元の意味はどうだったのだろう。

 さて、では「或」とは
どんな意味なのでしょうか。
その古い形を見てみましょう。

「或」この右側は、
「戈(ほこ)」であると
漢字学者の白川静氏はいいます。

あるいは、
これは「弋(よく・矢)」で、
「境界」を表すという説もあります。
同じく漢字学の泰斗である
加藤常賢(じょうけん)氏や
赤塚忠(きよし)氏の説です。

白川静氏も、この字が
「境界」を表すというのには賛成で、
左側の「口」の上下にある「一」が
境界を表すといいます。

 ここでは両説の優越を
云々(うんぬん)することは
措(お)いて、
どちらにしろこの文字が
「境界」に関する文字である
ことは
確かなようです。

「戈」や「弋(矢)」で
地面に線を引いて境界を示す。

子供のころ、
地面に棒切れで線を引いて
「ここから奥は俺の陣地」
なんていうのと同じです。

「或」を
「口」で囲むと「国(國)」になるし、
「土」をつけると「域」になります。

ともに
「区切られた区域」をあらわします。
「或」とはすなわち、境界によって、
ある区間を区切ることを意味します。


「或」は分けること、
すなわち境界を引くこと、
限定することです。

藤堂明保(あきやす)氏は
不惑の「惑」の漢字も、
その原意は
「心が狭いわくに囲まれること」
であるといいます
(『学研漢和大字典』学習研究社)。

さあ、ここまでくると、
「四十而不
ではなく、
「四十而不
の意味が見えてきた。

 四十、五十くらいになると、
どうも人は
「自分はこんな人間だ」
と限定しがちになる。

「自分ができるのはこのくらいだ」
とか
「自分はこんな性格だから仕方ない」
とか
「自分の人生はこんなもんだ」
とか、
狭い枠で囲って
限定しがちになります。

「不惑」が「不或」、
つまり「区切らず」だとすると、
これは、

そんな風に自分を
 限定しちゃあいけない。
 もっと自分の可能性を
 広げなきゃいけない


という意味になります。
そうなると
「四十は惑わない年齢だ」
というのとは
全然違う意味になるのです。

いやぁ、
「或」でもいい意味ではないか。
惑よりもよりフィットしている。

安田さんは、
こういった古代文字発掘の成果を
今までの解釈の否定とは
捉えていない。

 むろん、だからといってこれは
今までの読み方を否定するものでは
ありません。

なんといっても
『論語』が2000年以上も
読まれ続けてきたのは、
古典的な読み方によってなのです。

それは、
一冊の古典を2000年以上も
伝え続ける力を
持っていた読み方です。

 その古典的な読み方に加えて
近年の古代文字発掘の成果を
加味した読み方をもってすれば
『論語』はさらに
すごい古典になると思うのです。

たまたま「惑」の一文字について
話を進めてきたが、
この古代文字の発掘は
「惑」も含めて、
さらなる大きなテーマを
我々に突きつけてくる。

長くなってしまったので、
その話は次回に。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2020年1月12日 (日)

「四十にして惑わず」か? (1)

(全体の目次はこちら



「四十にして惑わず」か? (1)

- 孔子の時代に漢字「惑」はなかった! -

 

新年、知的な驚きをお届けしたい。

新刊ではないので
既にご存知の方も多いとは思うが、
ネタを提供してくれるのはこの本。

安田登(著)
身体感覚で『論語』を読みなおす。
―古代中国の文字から―
(新潮文庫)

(以下水色部本からの引用)

題名が硬いので
手が出しにくいかもしれないが、
一旦読み始めれば
知的興奮の世界に引き込まれること
間違いなし。
実におもしろい本だった。

今日はこの本の中から、
有名な論語の一節
「四十にして惑わず」
の話を紹介したい。

 

最初に、「論語」が
どんな成り立ちによるものなのかを
簡単に復習しておこう。

『論語』は、孔子の言行録です。

孔子は今から2500年ほど前の人
紀元でいえば前500年くらい
(紀元前551年-紀元前479年)
春秋時代後期で、
キリスト誕生の500年ほど前です。

同じ言行録の仲間ながら
「新約聖書」とは
大きく違っていることがある。

 イエスの言行録である
『新約聖書』中の福音書は、
現存するものは古代ギリシャ語で
書かれているものがもっとも古い。

しかしながら、古代ギリシャ語は
イエスが実際に語っていた言葉とは
違います


それに対して『論語』は
孔子の語っていた言葉
すなわち古代中国語、漢文で
書かれています


 しかもラッキーなことに
孔子時代の文字も、
どんなものが使われていたのかが
わかっています。

そんなおいしい資料が
残っているならば、
孔子時代の文字に直して
読んでみたい

そう思いました。

「孔子時代の文字に直して読む」
安田さんの姿勢そのものが
なんとも魅力的で
かつ何が始まるのかと
ワクワクする。

『論語』は編纂の経緯も重要だ。

『論語』が
現在の形にまとめられたのは、
孔子が活躍した時代から、
さらに500年から700年ほど経た
後漢(ごかん)の時代といわれています
(最初に書物になったのは
 戦国末から前漢の頃だと
 いわれていますが、

 現代に残る最古の写本は
 定州漢墓のもので
 紀元前55年以前のものと
 されています)。

500年の間、
弟子の口から弟子のロヘと伝えられた

孔子や門人たちの言行の記憶が、
あるときに書物として
まとめられたのが『論語』です。

 

文字化される以前の『論語』は
口伝えで伝承されてきた。

この部分は、
能楽師である著者安田さんの本職
「能」とも深く共通する部分がある。

能もその稽古は
口誦(こうしょう)によるものが
中心でした

ですから詞章に
流儀による違いが生じました。

また、
琵琶法師によって語り継がれた
『平家物語』などには、
多くの異本が存在しています。
それが口誦伝承の宿命です。

特に能では、
ある語句にどんな漢字を当てるかは
流儀によってまったく違います。
能の大成者である
世阿弥の自筆の台本を見ると、
すべてがカタカナで
書かれていたりします。

口誦伝承では、
「音」による伝承が大切で、
どんな文字を使うかは
割合どうでもよいことなのです


そして後世、時代の要求に従って
流儀の定本(ていほん)を
作ろうというときに、
伝承されてきた「音」に、
その時代に
「これが正しい漢字だ」
と思う漢字を当てました。

論語も同じだったと考えられる。

 孔子たちの言行を「音」として
口誦で伝えていた弟子たちが、
『論語』を書物として
編もうとしたときに、
その音に、時代の漢字を当てた


そういう意味では
弟子たちに責任はないのですが、
しかし、現代、振り返って
漢字から意味を考えるとき、
少なくとも
孔子の語った言葉の中に、
孔子が生きていた時代には
なかったものが入っている
というのは
気持ちが悪い。

 

孔子時代にはなかった漢字が含まれる
『論語』の例を見てみよう。

 孔子時代にはなかった漢字が
含まれる『論語』の文の代表例は
「四十にして惑わず」
です。

(中略)

「四十にして惑わず」、
漢字のみで書けば「四十而不惑」。

字数にして五文字。
この五文字の中で孔子時代には
存在していなかった文字があります。

「惑」です。

 五文字の中で
最も重要な文字
です。

この重要な文字が
孔子時代になかった。

 これは驚きです。
なぜなら「惑」が
本当は違う文字だったとなると、
この文はまったく違った
意味になる可能性だって
あるからです。

「これは驚きです」と安田さんは
かなり冷静に書いているが、
読んでいる私の方は、
まさにひっくり返るほど
驚いてしまった


「惑」という字が、
孔子が生きていた時代には
まだなかったなんて!!

だったら、孔子は
何を言おうとしていたのだろう。
そしてそれは、どんな漢字で
表現されるものなのだろう。

 

すこし長くなってきたので、
この話、次回に続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2020年1月 5日 (日)

初詣はどこに行こうか?

(全体の目次はこちら



初詣はどこに行こうか?

- 秀吉と家康との交差点 -

 

あけましておめでとうございます。

新年、「初詣はどこに行こうか?」
そう迷っているようであれば、
下記の磯田さんの本をお薦めしたい。

磯田道史 (著)
日本史の内幕
- 戦国女性の素顔から幕末・
 近代の謎まで
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

本は雑誌への連載をまとめたものだが、
その中の一篇
「浜松に史上最強の霊地」に
こんな話がある。

 

浜松市内の
今は小さな神社となっている地に、
460年前、
「サキ」という少女が住んでいた。

キサは浜松城の前身
引間(ひくま)城の城主
飯尾豊前守(いのおぶぜんのかみ)の娘。

ある日、配下の「松下」が
浜松の町はずれ
「曳馬(ひくま)ノ川辺」で
拾ったという少年を連れてきた。

白い木綿の着物は垢だらけ。
異形な者で
「猿かと思えば人。人かと思えば猿」
といった感じ。

「国はどこ。何者か」と訊くと
「尾張から来た」と猿はいい、

「幼少の者が遠路なにしに来た」
と問うと
「奉公望み(武家に就職希望)」
と答えたという。

松下はこの猿顔の少年を
宴会の見世物にしようと考え、
飯尾家の一同に披露した。

「皮の付いた栗を取り出して与え、
 ロで皮をむき喰う口元が
 猿にそっくり
」と、
みな大笑いしたと
『太閤素生記』 にはある。

 

父親の遺産
永楽銭一貫文(1000枚)の一部を貰い、
尾張清洲で木綿着を作り針を仕入れて、
それを売りながら浜松まで来たという
16歳の少年
は、それから愛され、
草履取となる。それどころか

側近に抜擢(ばってき)してみると
「なに一つ
 主人の心にかなわぬことがない」
完璧な勤めぷり。

それで納戸の出納管理を命じた。

ところが他の小姓が妬(ねた)んだ。

たびたび物が無くなり
「猥が盗んだ」といってイジメた。

松下は慈悲ある人で
「おまえはよそ者だから
 無実の罪を言いかけられるのだ。
 不憫(ふびん)だが本国に帰れ」
と路銀に永楽銭30疋(300枚)を与えて
暇を出した。

この猿がすなわち秀吉で
16歳から18歳まで3年間、
浜松にいたことになる

キサは80歳近くまで長生きして
豊臣滅亡後まで生き延び、
秀吉の真実を遠慮なく語り、孫が
『太閤素生記(たいこうすじょうき)』
という記録に残した


これで闇に消えるはずであった
秀吉の無名時代の様子が
後世に伝わった。

秀吉の、のちの出世の第一歩は
引間城本丸だったわけだ。

 

それからしばらくして
引間城は落城する。
キサはかろうじて逃げおおせた。

かわってこの50メートル四方の
引間城本丸に入ってきたのは、
徳川家康であった。

家康はこの狭苦しい空間に
一年ほど寝起きして城を拡張。
城の名前を変え、浜松城とした。

家康はこの城を根城にして
遠江(とおとうみ)一帯を侵略した。

天正10(1582)年に武田氏が滅亡、
同じ年に、信長が京都本能寺で殺されると、
ここから出陣して
一挙に甲斐・信濃と領土を拡大。

天下を狙えるポジションに躍り出て、
秀吉の天下を奪った

秀吉が引間城に居たのが
1553年~1555年頃。
家康の入城は1570年。
わずか50メートル四方の地で
そんな偶然があったなんて。

秀吉と家康。
二人の天下人の人生の転機となった
交差地点の所番地は
浜松市中区元城(もとしろ)町111の2
である。
今の浜松東照宮

全く流行(はや)っておらず
初詣客は少ない。
しかし、ここに
こっそり参って成功した
浜松の社長を私は何人も知っている。

これは確かに
かなり強力なパワースポットかも。

初詣で迷っているようであれば、
参考にしてみてはいかがでしょう?
「浜松東照宮」です。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »

最近のトラックバック

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ