無痛文明論
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無痛文明論
- 「欲望」が「よろこび」を奪っている -
シャレド・ダイアモンドの著作
ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫
の中の
「家畜」の記述を興味深く読んだ話は
ここと
ここに
に書いた。
この件をきっかけに
家畜化についていろいろ調べていたら、
動物の家畜化とは
全く別な話ではあるものの
「人類の自己家畜化」という言葉が
引っかかってきた。
「人類の自己家畜化」とは何だろう?
気になって何冊か本を読んでみた。
読書の中には
「そうかなぁ?」とか
「それはちょっと違うでしょ」とか
疑問や納得できないことが
いろいろあるのに、
ところどころに登場する
表現やキーワードが気になって
途中でやめられず
つい先を読んでしまう、
そんな読書もある。
450ページもある単行本で
厚くて重くて持ち歩きにくい
森岡正博 (著)
無痛文明論
トランスビュー
(以下水色部は本からの引用)
もそんな本の一冊だった。
「むつうぶんべん」ではない、
「むつうぶんめい」。
「自己家畜化」とは? から始めて
現代社会の問題点を
「無痛」の視点から考えてみたい。
まずは「自己家畜化」の話から。
家畜にしているのと同じことを、
人間に対しても
行なってきたのではないか。
それをもって文明だと
言ってきたのではないか。
このことは、人間が
自分自身を家畜にするという意味で、
「自己家畜化」と呼ばれてきた。
自己家畜化という言葉は、1930年代に
E・フォン・アイクシュテットによって
提唱された。
彼は、人間が、人工環境のもとで、
自分自身を家畜のような状態に
していると考えた。その証拠として、
人間の身体の形態に、
ちょうど家畜と同じような
独特の変化が起きていることを
指摘した。
その考え方は、やがて
ローレンツや小原秀雄らに
受け継がれた。
小原秀雄さんの著作を参照しながら、
著者の森岡さんは、
家畜化の特徴を次のように整理している。
文言はそのままに、
項目名だけをピックアップして
並べてみたい。
家畜は人工環境のもとに置かれる。
第2に、
食料が自動的に供給される。
第3に、
自然の脅威から遠ざかる。
第4に、
家畜は繁殖を管理される。
第5に、
家畜は人間によって
品種改良(人為淘汰)される。
第6に、家畜化されると、
その動物は身体の形が変わる。
「私はさらに
二つのことを付け加えたい」
と森岡さんは二つ足している。
家畜は死をコントロールされる。
第8に、家畜は人間に対して
「自発的束縛」の態度を
取ることがある。
項目別の補足は本に譲るが、
そのうえで著者は
都市という家畜小屋に囲い込まれて、
食料と安全を
与えられることと引き替えに
生命の輝きを奪われてしまった
ブタなのだ。
と冷酷に言い放っている。
著者は人間の根源的な欲望に
「身体の欲望」という名前を与え
五つの側面に分けて考えている。
ここもキーワードだけ
ピックアップしてみたい。
【身体の欲望】
(2) 現状維持と安定を図る
(3) すきあらば拡大増殖する
(4) 他人を犠牲にする
(5) 人生・生命・自然を管理する
この「無痛」を求める「身体の欲望」が、
われわれの文明をつき動かす原動力と
なっていることを認めつつも、
人間の「身体の欲望」が、
人間自身から、
「生命のよろこび」を奪っている
のである。
「身体の欲望」と「生命のよろこび」。
ここでの「生命のよろこび」とは
いったいナンなのだろう?
どうしようもない苦しみに直面して、
その中でもがいているうちに、
いままでの自己が内側から解体され、
まったく予期しなかった
新しい自己へと変容
してしまうことがある。
このときに、
私におとずれる予期せぬよろこびが、
「生命のよろこび」である。
「身体」が「生命」を奪い取る?
「欲望」が「よろこび」を奪い取る?
まさにここに「自己家畜化」という指摘の
真の意味がある。
苦しみを減らし、快を求め、
現状維持と安定を図ろうとする。
われわれの内部にある
身体の欲望が、われわれ自身から、
「苦しみのなかから
自己を変容させていこう」
とするときにおとずれる
生命のよろこびを奪い取っていく。
その結果、われわれは
生命のよろこびの不感症になっていく。
それが自己家畜化の
真の意味なのである。
「身体の欲望」と
「生命のよろこび」という
ふたつの重要なキーワードを
こんな言葉でも表現している。
苦しみやつらさを強制的に
目の前から消し去ろうとする。
これに対して、生命のよろこびは、
苦しみやつらさを自分が引き受ける
プロセスのなかでおとずれる。
ここに両者のあいだの
決定的な差がある。
とまぁ、かなり絶望的な分析から
考察が始まるわけだが、
多くのページをめくっても、
「生命のよろこび」を得るための
決定的な提案が
なされているわけではない。
それでも、最終章には
小さく明かりを灯すような
いくつかのキーワードが登場している。
たとえば「開花」。
様々な理由で
見えなくなっていたところの可能性が、
私の前に開花するのである。
これが「開花」の基本形だ。
(中略)
開花の学とは、単に
「残されたもので満足する知恵」
ではない。
いままで知ることのなかった可能性を
ぐいぐいと積極的に引き出し、
開花させるための
前向きの知の方法なのだ。
予想もしなかったような状況に
陥ったときに、
思ってもみなかったような考え方を
自分がしたり、
思いがけない力を
発揮できることがある。
このようなとき、私は、
未知の自分と出会っている。
これもまた、
私という既知の存在の中から、
未知の可能性を引き出す営みだと
考えられるだろう。
たとえば「永遠」。
生の延長、所有の拡大、
願望の実現によって
「永遠」に近づくのではなく、
まったく逆に、
手にしていたものを手放し、
自己を解体し、
残されたものを
真摯に味わうことによって
「永遠」に出会うのである。
生命の輝きが奪われてしまったままで
いいはずはない。
「無痛」を望む「欲望」が
本来の「よろこび」を
奪っているのかもしれない、は
何度でも繰り返したい問いかけだ。
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