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2019年11月

2019年11月24日 (日)

無痛文明論

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無痛文明論

- 「欲望」が「よろこび」を奪っている -

 

シャレド・ダイアモンドの著作

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

の中の
「家畜」の記述を興味深く読んだ話は
ここ
ここ
に書いた。

この件をきっかけに
家畜化についていろいろ調べていたら、
動物の家畜化とは
全く別な話ではあるものの
「人類の自己家畜化」という言葉が
引っかかってきた。

「人類の自己家畜化」とは何だろう?

気になって何冊か本を読んでみた。

読書の中には
「そうかなぁ?」とか
「それはちょっと違うでしょ」とか
疑問や納得できないことが
いろいろあるのに、
ところどころに登場する
表現やキーワードが気になって
途中でやめられず
つい先を読んでしまう、
そんな読書もある。

450ページもある単行本で
厚くて重くて持ち歩きにくい

森岡正博 (著)
無痛文明論
トランスビュー

(以下水色部は本からの引用)

もそんな本の一冊だった。

「むつうぶんべん」ではない、
「むつうぶんめい」。

「自己家畜化」とは? から始めて
現代社会の問題点を
「無痛」の視点から考えてみたい。

 

まずは「自己家畜化」の話から。

人間は、
家畜にしているのと同じことを、
人間に対しても
行なってきたのではないか。
それをもって文明だと
言ってきたのではないか。

このことは、人間が
自分自身を家畜にするという意味で、
「自己家畜化」と呼ばれてきた

自己家畜化という言葉は、1930年代に
E・フォン・アイクシュテットによって
提唱された。

彼は、人間が、人工環境のもとで、
自分自身を家畜のような状態に
していると考えた。その証拠として、
人間の身体の形態に、
ちょうど家畜と同じような
独特の変化が起きていることを
指摘した。

その考え方は、やがて
ローレンツや小原秀雄らに
受け継がれた。

小原秀雄さんの著作を参照しながら、
著者の森岡さんは、
家畜化の特徴を次のように整理している。

文言はそのままに、
項目名だけをピックアップして
並べてみたい。

第1に、
 家畜は人工環境のもとに置かれる。

第2に、
 食料が自動的に供給される。

第3に、
 自然の脅威から遠ざかる。

第4に、
 家畜は繁殖を管理される。

第5に、
 家畜は人間によって
 品種改良(人為淘汰)される。

第6に、家畜化されると、
 その動物は身体の形が変わる。

「私はさらに
 二つのことを付け加えたい」
と森岡さんは二つ足している。

第7に、
 家畜は死をコントロールされる。

第8に、家畜は人間に対して
 「自発的束縛」の態度を
 取ることがある。

項目別の補足は本に譲るが、
そのうえで著者は

現代社会に生きる人間は、
都市という家畜小屋に囲い込まれて、
食料と安全を
与えられることと引き替えに
生命の輝きを奪われてしまった
ブタなのだ

と冷酷に言い放っている。

著者は人間の根源的な欲望に
「身体の欲望」という名前を与え
五つの側面に分けて考えている。

ここもキーワードだけ
ピックアップしてみたい。

【身体の欲望】

(1) 快を求め苦痛を避ける
(2) 現状維持と安定を図る
(3) すきあらば拡大増殖する
(4) 他人を犠牲にする
(5) 人生・生命・自然を管理する

この「無痛」を求める「身体の欲望」が、
われわれの文明をつき動かす原動力と
なっていることを認めつつも、

われわれの文明においては、
人間の「身体の欲望」が、
人間自身から、
「生命のよろこび」を奪っている

のである。

「身体の欲望」と「生命のよろこび」。

ここでの「生命のよろこび」とは
いったいナンなのだろう?

(中略)
どうしようもない苦しみに直面して、
その中でもがいているうちに、
いままでの自己が内側から解体され、
まったく予期しなかった
新しい自己へと変容
してしまうことがある


このときに、
私におとずれる予期せぬよろこびが、
「生命のよろこび」である。

「身体」が「生命」を奪い取る?
「欲望」が「よろこび」を奪い取る?

まさにここに「自己家畜化」という指摘の
真の意味がある。

身体の欲望は、
苦しみを減らし、快を求め、
現状維持と安定を図ろうとする。

われわれの内部にある
身体の欲望が、われわれ自身から、
「苦しみのなかから
 自己を変容させていこう」
とするときにおとずれる
生命のよろこびを奪い取っていく

その結果、われわれは
生命のよろこびの不感症になっていく。

それが自己家畜化の
真の意味なのである。

 

「身体の欲望」と
「生命のよろこび」という
ふたつの重要なキーワードを
こんな言葉でも表現している。

身体の欲望は、
苦しみやつらさを強制的に
目の前から消し去ろうとする。

これに対して、生命のよろこびは、
苦しみやつらさを自分が引き受ける
プロセスのなかでおとずれる。

ここに両者のあいだの
決定的な差がある。

とまぁ、かなり絶望的な分析から
考察が始まるわけだが、
多くのページをめくっても、
「生命のよろこび」を得るための
決定的な提案が
なされているわけではない。

それでも、最終章には
小さく明かりを灯すような
いくつかのキーワードが登場している。
たとえば「開花」。

それまでそこにあったのだけれども、
様々な理由で
見えなくなっていたところの可能性が、
私の前に開花するのである。
これが「開花」の基本形だ。

(中略)

開花の学とは、単に
「残されたもので満足する知恵」
ではない。

いままで知ることのなかった可能性を
ぐいぐいと積極的に引き出し、
開花させる
ための
前向きの知の方法なのだ。

予想もしなかったような状況に
陥ったときに、
思ってもみなかったような考え方を
自分がしたり、
思いがけない力を
発揮できることがある。

このようなとき、私は、
未知の自分と出会っている

これもまた、
私という既知の存在の中から、
未知の可能性を引き出す営みだと
考えられるだろう。

 

たとえば「永遠」。

 われわれは、
生の延長、所有の拡大、
願望の実現によって
「永遠」に近づくのではなく、
まったく逆に、
手にしていたものを手放し、
自己を解体し、
残されたものを
真摯に味わうことによって
「永遠」に出会う
のである。

 

生命の輝きが奪われてしまったままで
いいはずはない。

「無痛」を望む「欲望」が
本来の「よろこび」を
奪っているのかもしれない、は
何度でも繰り返したい問いかけだ。

 

 

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2019年11月17日 (日)

ブリュッセル・レクイエム

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ブリュッセル・レクイエム

- 壁をつくってかぎをかけなければ -

 

初めてベスト8にまで進出した
日本代表の活躍もあって
ラグビーワールドカップ2019が
おおいに盛り上がっていた
ちょうどそのころ、
第67回全日本吹奏楽コンクール
全国大会も開催されていた。

 中学校   2019年10月19日
 高等学校  2019年10月20日
 大学    2019年10月26日
 職場・一般 2019年10月27日

全国大会の出場校と結果、
自由曲のリストはここにある。

全国大会 中学の部
全国大会 高校の部

このリストでの注目すべきは自由曲。
コンクールの自由曲なんて
それこそ数多(あまた)ある中から
自由に選べるのに、
中学の30校中なんと7校がこの曲。

B.アッペルモント作曲
「ブリュッセル・レクイエム」


全国大会は、
吹奏楽の甲子園、とも呼ばれるように
支部の予選を勝ち抜いた
強豪校ばかりによる戦いの場だが、
そこまで勝ち上がってきた学校が
選んでいたのが
なぜか7校も揃ってこの曲、
ということになる。

 

結果を報じる新聞も「自由曲で大人気」
の見出しをつけて
以下のような記事を掲載していた。

2019年10月20日の朝日新聞の記事。
(以下水色部は記事からの引用)

A1910202bs

「ブリュッセル・レクイエム」が、
一大旋風を巻き起こしている。

初出場3団体を含む、
中学校から大学までの計11団体が選択。

自由曲としては過去最高だ。
なかでも中学校の部では
7校がこの曲を選び、
19日の晴れ舞台への切符を勝ち取った。

 

この曲、1973年生まれのベルギーの作曲家
ベルト・アッペルモント(Bert Appermont)
によって2016年に作曲された
新しい楽曲らしい。

曲は、
ベルギーの作曲家アッペルモントが、
2016年に母国で発生したテロを題材に、
犠牲者の鎮魂歌として作曲した。

フランス民謡の美しい旋律が象徴する
穏やかな日常を、テロが切り裂く。
逃げ惑う人々。
愛する人を奪われた慟哭(どうこく)。
再び平和を目指して歩き出す人々-。
そんな場面が昔でつづられる。

 

そんな新しい曲が、2018年
一気にブレークするきっかけは、
まさに吹奏楽コンクール全国大会だった。

全国大会では
昨年「初演」されたばかり。
北斗市立上磯中(北海道)や
精華女子高(福岡)など
演奏した3団体すべてが金賞という
鮮烈デビューを飾り、
一気にブレークした。

 

そもそもどんな曲なのだろう?
昨年の演奏がYouTubeにあったので
ちょっと聴いてみたい。

イチオシはこれ!
(吹奏楽に興味のある方はもちろん
 興味のない方も約8分半、
 全国大会レベルの演奏に
 ぜひ耳を傾けてみて下さい)

【演奏:精華女子高校吹奏楽部(2018年)】

正直言って、
ほんとうにびっくりしてしまった。
「ナンなんだ、この曲!」
「ナンなんだ、この演奏!」
進化しているのはラグビーだけではない。

コンクールでは演奏時間の制約があるため、
制限時間内に入るよう
各校原曲を編曲のうえ参加してきている。
なので、学校によって曲のつなぎ方と
演奏部分がすこし違う。
中学生の演奏でも聴いてみよう。

【演奏:北斗市立上磯中学吹奏楽部(2018年)】

中学校でこのレベルの演奏をされたら
いったいどんな学校が
ここに勝てるというのだろう?

「難所」の練習の回数は4桁に達した。と
記事にもあるが、どちらの演奏も、
このレベルになるまでの
練習過程を想像すると
まさに気が遠くなる。

もちろん達成できたときの
到達感も一入(ひとしお)だろうけれど。

 

曲や演奏に驚くと同時に、
この新聞記事には
すごくいい言葉がふたつあったので、
ここに残しておきたい。

ひとつ目は、北上市立上野中(岩手)教諭の
柿沢香織さんの言葉。

こちらが限界という
 壁をつくってかぎをかけなければ、
 今の中学生は
 どこまでも伸びていきます

中学生だからこの程度、
と勝手に壁を作ってしまうのは
まさに大人のほう。
チャンスと動機さえ与えれば
そしてその可能性を信じて
グングン引き上げてくれる
すぐれた指導者に恵まれれば
実は「どこまでも伸びる」のだ。

 

ふたつ目は、高岡市立芳野中(富山)教諭の
大門尚(なお)さんの言葉。

この曲を好きだからこそ
 よく練習したし、
 吹けたのだと思います。
 曲に育てていただきました

今回記事を書くために、
多くの演奏を繰り返し聴いてみたが、
知れば知るほど
単に難曲、というだけでなく
「好き」になるような
魅力に溢れている作品であることが
よくわかる。

そもそも「好き」になれなければ、
4桁回もの練習には耐えられない。

一方で「好き」になれば
まさに世界はどんどん広がっていく。
「好き」はまさに「育てて」くれるのだ。

 

最後に「ブリュッセル・レクイエム」の
ノーカット版、原曲演奏を貼っておきたい。
この曲、
原曲は金管バンドのための曲らしい。
英国の名門「The Cory Band」の演奏。

コンクール自由曲の
演奏時間内に収めるために、
曲の魅力を失うことなく
各校いかに上手にカットしているか、も
よくわかる。

ここのところ、個人的に
ヘビーローテーションとなっている
各演奏だ。
何度聴いてもそれぞれに新しい発見があり、
飽きることがない。

 

 

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2019年11月10日 (日)

「病気平癒」ではなく「文運長久」

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「病気平癒」ではなく「文運長久」

- 眉村卓さんご夫妻の物語 -

 

先週の八千草薫さんネタに続いて、
訃報関連で、になってしまうが、

2019年11月3日
こんどは作家の眉村卓さんが
85歳で亡くなった。

今日は眉村さんの本について
少し紹介したい。

そうそう、本の前にひとつ。

「眉村卓」というお名前、
私はなぜかその字面(じづら)を見るだけで
SFチックなものを感じてしまう。

NHK『少年ドラマシリーズ』の
「なぞの転校生」を
リアルタイムで見た世代のせいだろうか。

「小松左京」という名前を見ても
特に感じるようなものは何もないのに。
不思議だ。

閑話休題。

「ねらわれた学園」など
ドラマや映画で何度も映像化された
有名な作品もある眉村さんだが、
近年、眉村さんの名前を一番目にしたのは
この本に関してだったかもしれない。

眉村卓 (著)
妻に捧げた1778話

新潮新書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

眉村さんは、
末期がんを宣告された妻のために、
妻のためだけに、
1日1話ショートショートを
書き続ける決意をする。

SF世界の話でもなければ、
小説の世界の話でもない。
正真正銘、眉村さん自身の実話だ。

あれは、始めてから
3か月位経ったときだろうか。
「しんどかったら、やめてもいいよ」
と妻が言った。
お百度みたいなもんやからな
と私は答えた。中断したら
病状が悪化する気がしたのだ。

お百度を踏む思いで
ショートショートを書き続けた眉村さん。

その創作は、奥さんが亡くなるまで
4年10ヶ月にもおよび、
1778話もの作品群となった。

本書には、
その中の19篇が収められているが、

この本に載せた作品は、
当然ながらそのごく一部で、
選んだ基準にしても、
出来の良し悪しより、
書きつづけている間の
こちらの気持ち・手法の変化と
その傾斜
-ということを優先させた。
そのあたりを読み取って頂きたいのが、
私の願いである。

とあるように、この本の魅力は
ショートショートの作品そのものよりも
「最期」という厳しい現実に直面しながらも
それに真摯に向き合ってきたご夫婦の
ある意味での「発見」と
気持ちの「変化」の物語だ。

創作そのものについても
追い詰められた状況を
冷静に見つめている。

だが、それとは別に、
無意識のうちに陥って行き、
自分でも肯定していたのは、
自己投影の度合いや
妻とのかかわりの反映の色が、
しだいに濃くなってゆく
ことであった。

かつて私は
多作で知られたある老大家から、

「きみ、作った話というものは、
 いずれは種が尽きるものだよ。
 そうなるとだんだん
 自分を投入するしかなくなるんだ


と聞かされたことがある。

あまり才のない私は、
SFなどというものを書きながら
比較的早くから
自分の体験を作品の中に
織り込むようになったが……
それがこんな状況で顕著になってきた
-ということではあるまいか。

もともと奥さんの読書傾向自体、
眉村さんとは違っていた。

しかしながら、
妻がSFの良き読者だったかといえば、
どうもそうではなかったらしいと
答えざるを得ない。

そう振り返りながらも、
支え続けてくれた奥さんへの感謝の思いは
ショートショートに昇華されていく。

ある日、自身の葬儀について
奥さんは眉村さんにこう告げる。

「お葬式の名前は、
 作家眉村卓夫人、村上悦子
 にしてほしい」
と。

そのとき私の脳裏には、前年の三月に
二人で松尾寺に詣(まい)ったさい、
祈願の札に、病気平癒と書けと
私が二度も言ったのに、
妻は聞かず、文運長久とだけ
しるしたことが、よぎっていた。

私の協力者であることに、
妻は自負心と誇りを持っていた
のだ。

奥さんの17年後に後を追った眉村さん。
眉村夫妻のご冥福をお祈りいたします。

 

 

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2019年11月 3日 (日)

徐々に、毎年ひとつずつ

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徐々に、毎年ひとつずつ

- 八千草薫さんの言葉 -

 

2019年10月24日、
八千草薫さんが88歳で亡くなった。

語り継がれるテレビドラマ
「岸辺のアルバム」をはじめ
忘れられない出演作品は多々あるが、
訃報を聞いて最初に思い出したのは
この1ページの小さな記事だった。

週刊誌 週刊朝日 2012年4月6日号。
(以下水色部は記事からの引用)

120406wasahi_yachigusa

「明日に架ける愛」という映画
公開直前のインタービューだが、
この時点ですでに81歳。

今回は、中国残留孤児という
重い過去を背負った役柄だが、
八千草さんが演じると、
独特の軽快さやユーモア、
可愛らしさが加わる

まさにそう。

訃報のあと、八千草さんについては、
「柔らかさに秘めた芯」
「ずっと初々しくて花のよう」
といった言葉と共に
追悼文が寄せられたりしているが、
個人的にはこのユーモア、
「オチャメ」なところが
ほんとうに魅力的だったと思う。

それでいて、

「できあがったものを観ても、
『ああ、もうちょっとできたのにな』
っていつも思うんです。

"後悔"なんて言ったら
監督に対して失礼だから、
"反省"ですかね。

いつまでも、
『私はまだまだだわ』って(笑い)」

と向上心を失うことなく
仕事を続けていたことが、
人を惹きつけ続けていたのだろう。

そしてこの、たった1ページの記事が
忘れられなかったのは
最後の言葉が印象的だったから。

「人間って、いっぺんに
 年を取るわけじゃないでしょ?
 徐々に、毎年ひとつずつ。
 それがいいな、と思います

毎年ひとつずつ。

効率や結果ばかりに
焦点があたりがちな昨今、
資質や努力や経験などと一切関係なく
まさに全員、平等に
かつ、ひとつずつ。

どんな力をもってしても
遅くすることも、
はやくすることも、
一度にふたつ重ねることもできない。

毎年ひとつずつ。

「それがいいな」

を心から感じさせてくれる
そんな女優さんだった。

ご冥福をお祈りします。

 

 

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