« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »

2019年9月

2019年9月29日 (日)

炭素14年代測定法の信頼性

(全体の目次はこちら



炭素14年代測定法の信頼性

- 「科学的分析」の儚(はかな)さ -

 

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面からかつ
多角的に取り組んでいる

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(記事中、水色部は本からの引用)

 

前回
考察の対象となる「1万3000年」について
考えてみたが、
今日は、
歴史研究のまさにベースとなる
年代測定法のひとつ
「炭素14年代測定法」についての部分を
紹介したい。

本書で言及している
過去1万5000年にわたる期間は、
これまでの炭素14年代測定法ではなく、
新たに採用された
炭素14年代測定法
による
誤差を修正した数値を使用している。

と本文にも何度も出てくる通り、
従来のよく知られた炭素14年代測定法には
いろいろ問題があったようだ。

それはどんなもので、
どこに問題があったのか?
よく聞く年代測定法でもあるうえ、
そこで得られた数字は
歴史を考えるときの
根拠としてもよく使われるので
改めてその信頼性について学んでみたい。

まずは、測定法の原理から。

【炭素14年代測定法】

考古学では、
食料生産がおこなわれていた年代を
推定するのに炭素14年代測定法を
もちいている。

この測走法は、
あらゆる生命体を構成する
普遍的な原子のひとつである
炭素原子のなかの、
ほんの一部の放射性炭素14が、
生命体が死ぬと
一定の曲線を描いて減少し、
非放射性同位元素の窒素14に
変化することを利用して、
遺物に残存している
放射性炭素14の量を計算することで
年代を求める
というものである。

大気中には、
宇宙線の照射によって発生した
炭素14が常に存在している。

植物は大気中の炭素を取り入れるが、
そこには炭素12と炭素14が
一定の割合でふくまれている
(この割合は、炭素12が100万個に対して
 炭素14が1個である)。

植物の体内に取り込まれた炭素は、
その植物を食べる草食動物の
体内に取り込まれる。

さらに、その草食動物を食べる
肉食動物の体内に取り込まれる。

動植物が死ぬと、体内の炭素14は
5700年の半減期を経て炭素12に変化し、
死後4万年で大気中の濃度と
ほぼ同じレベルにまで減少して
測定不能になるか、
あるいは人工物の中にふくまれる
微量の炭素14との区別がむずかしくなる。

このように、遺跡の出土物は、
それに残っている
炭素14と炭素12の量を測定し、
その割合を算出することで、
年代を求めることができる

上記文章で理解できたであろうか?

簡単に言うと、
植物も動物も生きているときは
大気中と同じ比率で
体内に炭素14を含んでいるが、
死んでしまうと
大気からの炭素14の取り込みが
なくなるため
炭素14の半減期に従って
体内から炭素14が消えていく。

なので炭素14の比率を測れば
死んでから何年経ったのかがわかる、
そういう原理だ。

さて、長く使われていたこの方法の
どこに問題があったのだろうか。

本では2点、指摘されている。

【炭素14年代測定法の問題点1】

そのひとつは、
1980年代まで利用されていた技術が、
比較的多量(数グラム単位)の試料を
必要としていた
ことである。

数グラムという量は、
小さな種子や骨から
取りだせる量ではないので、
科学者たちは、
それらの遺物を直接測定するかわりに、
それらと
「かかわりがありそうなもの」
つまりそれらが出土した場所の
近くで出土し、
同時代のものと推定される遺物を
測定することが多かった。

「かかわりがありそうなもの」
として利用された典型的なものは、
炭化した燃えカス
である。

 しかし遺跡というものは、
そこから出土するすべてが
同時期に封印された
タイムカプセルであるとはかぎらない。

別々の時代に残されたものが、
たとえばミミズ、ネズミ、
その他の動物によってほじくり返されて、
混ざりあってしまうこともある。

したがって、ある時代の燃えカスが、
その時代より1000年も離れた時代に
死んだり食べられたりした動植物の
すぐそばから出土することも
ありうるのだ。

そこで、今日では、
試料に含まれる極微量の同位体
正確に数えて同位体比を測定する
「加速器質量分析法」
という方法を使って、
この問題を回避するようになりつつある。

 

【炭素14年代測定法の問題点2】

炭素14年代測定法の
もうひとつの問題は、
過去の大気中の
炭素14と炭素12の割合が一定でなく

年代とともにゆらいでいるため、
測定誤差が生じるということである。

しかしこの誤差の大きさは、
樹齢の長い木の年齢を数える
年齢年代測定法で求めることができる。

これによって木の年齢の
絶対的な年表(カレンダー)ができると、
その木の炭素の試料から、
ある年代の炭素14と炭素12の割合が
求められるので、
炭素14年代測走法で求められた年代は、
大気中の炭素14の割合のゆらぎを
考慮した正確な年代に
修正できるのである。

誤差無修正で、
ほぼ紀元前6000年から紀元前1000年の
あいだと測定された遺物に対して
誤差を修正してみると、
じつはそれより数世紀から数千年も前に
さかのぼるものだったりすることもある。

もうひとつは、なんと
炭素14の比率が
 年代とともにゆらいでいる

という事実。

年齢年代測定法によって
誤差の修正はできるようであるが
その範囲は限定的であろう。

 

【表記でわかる修正の有無】

最近では、いくぶん古い時代だと
思われる遺物に対しては、
炭素14年代測定法とは別の
放射性年代測定法
もちいられるようになった。

その結果、
これまで紀元前9000年頃のものと
されていた遺物が、
紀元前1万1000年頃のものであったと
結論づけられたことがある。

 考古学者は、

誤差を修正した年代を
「3000BC」というように
大文字で表記し、

修正されていない年代は
「3000bc」と
小文字で表記する


ことで、
両者を区別する傾向にある。

しかし、考古学の文献のなかには、
誤差を修正していない年代を
BCというように大文字で記述しながら、
その旨を明記しないものが多く、
混乱をまねくことがしばしばある。

この本では、過去1万5000年のあいだに
起こった出来事については
誤差を修正した年代をもちいている。

こうしてみると
「対象試料そのものの正確性」
「対象時代の大気の状態(炭素14比率)」
どちらもかなり
頼りない指標だということがわかる。

 

最近、過去の事件に関して、
最新のDNA判定結果が、
過去のDNA判定結果を覆えした例が、
ニュースになっていた。

当時としては「科学的に分析して」
同一人物のものと判断されたものが
最新の分析結果では別人のものであると。

「科学的な分析」は
絶対的な正しさではなく、
実際にはかなり「儚(はかな)い」ものだ。

「当時の知識や技術では
 それが正しかった」
という説明が通ってしまうという意味で。

客観的な証拠や分析は重要なものだが
「科学的な分析」という言葉には
常にそういった危うさが
含まれていることを
忘れてはならないと思う。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年9月22日 (日)

未知の700万年

(全体の目次はこちら


未知の700万年

- 700万年と1万3000年 -

 

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(以下水色部、本からの引用)

は、上下巻で合計800ページを超える
大作だが、とにかく
取り組んでいるテーマがすごい!

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面から多角的に取り組んでいる。

なので内容としては
紹介したいトピックス満載なのだが、
読み始めて早々、
本の題名にもなっている
「1万3000年にわたる人類史の謎」
の「1万3000年」が
妙に気になってしまった。

もちろんそれは「1万3000年」が
正しいとか間違っているとか
そういう意味での「気になる」ではない。
そもそも、そこにコメントできるほどの
知識を持ち合わせてはいない。

あえて言えば、
scaleとscopeについて考えさせられた
というべきだろうか。

今日はそのことについて書いてみたい。

 

人類の歴史を、
それぞれの大陸ごとのちがいに
目を向けて考察するには、
紀元前1万1000年頃、すなわち
現在よりおよそ1万3000年前を
出発点とするのが適切
だろう。

1万3000年前とは、地質学的には
更新世の最終氷河期が終わり、
現在に至る完新世が
はじまった時期にあたる。

これは、世界のいくつかの地域で
村落生活がはじまり、
アメリカ大陸に人が住みはじめた
時期にも相当する。

少なくとも一部の地域では、
それから数千年以内には
植物の栽培化や動物の家畜化が
はじまっている。

とあるように、この本では、
「紀元前1万1000年から現代まで」の
1万3000年間を考察の対象としている。

もちろんその前には
人類の歴史を大きく振り返ることも
忘れていない。

人類の歴史はいまから約700万年前
(いまから
 900万年前から500万年前のあいだ
 と推定されている)
にはじまった

(中略)

発見された化石類を見ると、
人類は約400万年前に
直立姿勢
をとりはじめている。

700万年前に誕生し、
400万年前に直立姿勢をとるようになった
人類。

ただその時点ではまだ
世界中に住んでいたわけではない。

アフリカを発祥とする人類は
はじめの数百万年を
アフリカ大陸内で過ごしている。

700万年前に誕生した人類は、
はじめの500万~600万年を
アフリカ大陸ですごしている


(中略)

現在のところ、ヨーロッパ大陸に
人類が存在したことを示す
確固たる証拠で最古のものは
約50万年前のもの
であるが、
それより以前に存在していた
とする説も複数ある。

のように、アフリカから
世界中に拡散していく。

その概要は、
「人類の拡散」
という次の図で示されている。

700mfigmap

何万年というオーダーゆえ
地形そのものが今とは違っていたことも
考慮が必要だが、
気象条件であったり、
海を渡る手段であったり、
移動先での食料の確保であったり、
様々な条件のもと、
人類は世界に広がっていく。

図を見ると、その様子を
ざっくりと把握することができる。

ただ、この図を見ていると、
「気になる」ことがある。

700万年前から始まっているのに
実際は妙に最近のことしか
書かれていないではないか。

どういう意味か。

それをはっきりさせるため、
図にある拡散時期を
年表形式で書き直してみたい。
(図はクリックすると拡大されます)

700mfig_1k

ご覧いただけばわかる通り、
「紀元前700万年から西暦2000年」
までを全対象期間として描くと
本が対象としている考察期間である
「1万3000年前から現在まで」は、
右端の黄色い線の「幅」程度にしか
ならない。
まさに線の「太さ」でしか
表現できないほどのわずかな「幅」。

このわずかな黄色い線の幅が表す
1万3000年前の間に、
人類はまさに急成長したわけだ。
800ページの本書に書かれているのも、
この幅の中で起こった物語。

でも図を見ればわかる通り、
その左側にはまさに「未知の700万年」
が大きく大きく横たわっている。

黄色い線の幅が数百個も入るほどの期間が
未知の期間として横たわっている。

この間、
緩やかに直立姿勢になり、
緩やかに石器を使い始め、
緩やかに住む地域を広げ、
緩やかに農耕を始めた、
それだけなのだろうか?

そんなに単純に考えていいのだろうか?

ここ1万年に起こったことが、
[ 発生 - 隆盛 - 全滅 ]の形で
繰り返されたとしても
それを数百回も繰り返せるほど
時間があるのに。

もちろん何か証拠があるわけではない。
単なる素人の空想、お遊びだ。

でも、年表に基づく図を見ていると
「700万年」はあまりにも長く、
「1万3000年」はあまりにも短い。

空想で遊んでみたくなる「700万年」だ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年9月15日 (日)

伊勢神宮 外宮と内宮

(全体の目次はこちら



伊勢神宮 外宮と内宮

- なにごとのおはしますかは知らねども -

 

以前
2019年5月にお参りした
出雲大社のことをブログに書いたが、
それからわずか2ヶ月半後の7月、
縁あって伊勢神宮のほうにも
お参りに行ってきた。

同じ年に、出雲大社と伊勢神宮。

今年は最強の年(!?)になるかもしれない。

 

2013年、
60年に一度の大遷宮を迎えた出雲大社。
同じ2013年に
20年に一度の式年遷宮を迎えた伊勢神宮。

伊勢神宮の20年毎の式年遷宮は
62回、1300年も続いているという。

宮地(みやどころ)を改め、
社殿や神宝をはじめ全てを新しくして、
大御神に新宮(にいみや)へ
お遷(うつ)りいただく
式年遷宮を6年前に終えた外宮と内宮、
その両方に参拝してきた。

なお、通称「伊勢神宮」と呼ばれる
「神宮」は、正確に言うと
外宮、内宮を中心とした
14所の別宮(べつぐう)
43所の摂社(せっしゃ)
24所の末社(まっしゃ)
42所の所管社(しょかんしゃ)
これら125の宮社の総称らしい。

今回お参りしたのは外宮と内宮。
様子を少しお伝えしたい。

まずは外宮から。

【外宮(げくう)】

P7143606s

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)

天照大神(あまてらすおおみかみ)の
食事を司る神
豊受大神(とようけのおおかみ)を
祀っている。

内宮創建から500年後に
山田原(やまだのはら)に迎えられた。
衣食住をはじめ
あらゆる産業の守り神

P7143607s

これからお参りに行く人も、
お参りして出てくる人も、
多くの人が各鳥居で立ち止まり
丁寧に頭を下げて通過していく。

そういう些細な所作が、
境内の、つまり神宮の内と外とを
分ける空気を作り出している。

P7143609s

外宮に入ると、と言うか
外宮の森に包まれると、
ちょっと不思議な
あえて言葉で言うと「気」みたいなものを
明らかに感じる。

P7143611s

それは神宮のパワーというよりも
神宮によって守られた
森が持つパワーと言う方が
個人的にはぴったりする。

P7143613s

とにかく森が豊かだ。

神宮の社殿は、それぞれ東と西に
同じ広さの御敷地(みしきち)を持ち
式年遷宮に備えている。

正宮(しょうぐう)は写真が撮れないので、
式年遷宮後の
となりの古殿地(こでんち)のみ。

P7143616s

 

パワースポットとして
知られている「三ツ石」

P7143617s

正式には
「川原祓所」(かわらはらいしょ)
と呼ばれる場所。

しめ縄が張られていて
直接触れることはできないが、
しめ縄の外から、
ストーブにあたるがごとく
みな手をかざしている。

「温かくなる気がする」
とか
「パワーを感じる」
とか
皆いろいろ言い合っていたが、
私自身は、最初に書いた通り
外宮全体の森の気みたいなものを
すでに強く感じていたので、
小さな石のパワーには
あまり興味が持てなかった。

 

正宮だけでなく、各社殿それぞれに、
式年遷宮のための御敷地(みしきち)が
隣に並んで確保されているのは
興味深い。

風宮(かぜのみや)と御敷地

P7143627s

 

土宮(つちのみや)と御敷地

P7143626s

 

多賀宮(たがのみや)と御敷地

P7143631s

 

多賀宮(たがのみや)へ上る階段も
緑豊かだ。

P7143629s

 

森の気(!?)に引き込まれるように
少しゆっくり奥へと歩いたが、
観光のメインコースから外れると、
人もまばらになり、
さらに深く森を楽しむことができる。

P7143655s

 

奥の小さなお社にも、遷宮用の御敷地は
ちゃんと確保されている。
空いている側は、東西というか左右で
揃っているわけでなく、
お社によりバラバラだ。

P7143647s
P7143642s

外宮の参拝を終え、内宮に向かった。
路線バスで20分強の移動。

 

【内宮(ないくう)】
皇大神宮(こうたいじんぐう)
皇室のご祖神
天照大神(あまてらすおおみかみ)を
おまつりしている。

五十鈴川(いすずがわ)に架かる
宇治橋(うじばし:長さ102m)を渡り
内宮に向かう。
両端の鳥居は、両正宮の旧正殿
棟持柱(むなもちばしら)を
リサイクルしているという。

P7153709s



神苑(しんえん)を歩く。

P7153710s



手水舎(てみずしゃ)にて
参拝前に心身を清め、
正宮(しょうぐう)に向かう。

こちらも写真が撮れるのはこの位置まで。

P7153713s

 

平安末期の歌人・西行は
伊勢神宮にお参りして、

 なにごとのおはしますかは知らねども
 かたじけなさに涙こぼるる


と詠んだという。

何度も書いた通り、外宮も内宮も
とにかくお社を包む森がすばらしい。

華美な部分はないが、
繰り返される日々の営みに支えられた
圧倒的とも言える時の流れ、歴史、
それらを静かに包み込んでいる
深い深い森の生命力、
そういうものを
「なにごと」かはわからなくても
まさに全身で感じることできるのが、
お伊勢参りの魅力なのかもしれない。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年9月 8日 (日)

「ウィーン・モダン」展

(全体の目次はこちら


「ウィーン・モダン」展

- 作品とその時代を同時に体験 -

 

日本・オーストリア外交樹立150周年記念
ウィーン・モダン
クリムト、シーレ 世紀末への道


という企画展が、
東京六本木の国立新美術館で
開催されていた。
(2019年4月24日~8月5日)

Viennamodern1

工夫を凝らしたいい企画展だったため
本ブログで紹介できれば、
と思っていたのだが、
モタモタしているうちに気がつくと
閉幕日を過ぎてしまっていた。

ありゃ、ありゃ、これから書いても
単なる日記にしかならないか。

そう思っていたら、偶然
ラジオから
「8月末から大阪にて公開中」
なる情報が流れてきた。

慌てて調べてみると、東京に続いて

【大阪展】
2019年8月27日~12月8日 
国立国際美術館


が開催されているらしい。

だったら、日記のようなメモでも
「これから行こうか?」と
迷っている人に
多少は参考になるかもしれない。

 

本企画展、
会場を事実上一方通行にすることで
18世紀から20世紀までのウィーンを
時間順に、文化とともに歩めるような
演出になっている。

単に絵画を並べた展覧会ではなく、
作品をその時代の社会的背景とともに
体験できる点に大きな特徴がある。

なお、大阪展は、
若干出展数が減ってしまっているようで、
「東京展と全く同じ」
というわけではないようだ。
本記事は、あくまでも
東京展を観ての感想なので、
その点はご承知おき下さい。

 

まず、全体構成。
(1)「啓蒙主義時代のウィーン」
(2)「ビーダーマイアー時代のウィーン」

(3)「リンク通りとウィーン」
(4)「1900年 ― 世紀末のウィーン」
の4部構成となっており、
時代の流れに沿って
各文化を楽しめるようになっている。


18世紀の女帝マリア・テレジアの
肖像画から展示は始まっているが、
マリア・テレジアの時代に始まった
啓蒙思想が
 フランス革命 (1789-1799)
 ウィーン会議 (1814-1815)
を通して
ビーダーマイアー時代へと
繋がっていく様子が前半。

(3)「リンク通りとウィーン」
のセクションでは、
ここに書いた話を
ショートフィルムも交えて
写真と絵画で
より詳しく知ることができる。

1857年に長い間ウィーンを囲っていた
市壁の取り壊しが決定。
その跡地がリンク通りとなり
沿道には国会議事堂、歌劇場など
特徴ある建物が次々と造られていく。
一気に都市部が広がり始めるウィーン。

 ウィーン万国博覧会 (1873)
 皇帝の銀婚式祝賀パレード (1879)

といった大きなイベントを
ハンス・マカルトをはじめ
多くの画家が作品に残している。

そういった、歴史の流れを
十分実感させた上で、
最後のセクション
(4)「1900年 ― 世紀末のウィーン」へと
繋がっていく。

19世紀末から20世紀にかけて、
都市機能がさらに充実していくウィーン。

鉄道を始め、都市デザインに貢献した
建築家オットー・ヴァーグナーの業績も
いくつもの模型を交えて展示してある。
ウィーン旅行記で記事にした
カールスプラッツ駅舎も彼の作品だ。

芸術の分野では、
画家グスタフ・クリムトらが中心となって
ウィーン分離派」が結成される。

多くの絵画の展示がある中、
どういう理由かよくわからないが
クリムトが最愛の女性を描いたとされる
1902年の作品
「エミーリエ・フレーゲの肖像」
のみ写真撮影が許可されていた。

Viennamodern4

フレーゲの姉とクリムトの弟が
結婚したこと、
つまり義理の兄妹の関係になったことが
ふたりが知り合った
きっかけだったようだが、
ふたりは結婚はしなかったものの、
まさに死ぬまで生涯のパートナーとして
すごしたらしい。

とにかく色が美しく、
まさに本物を観る価値がある。

Viennamodern5

 

展覧会パンフレットの
裏表紙に使われている
エゴン・シーレ の「自画像」

Viennamodern2

は、ほぼ等身大の
「エミーリエ・フレーゲの肖像」
とは対照的に、30cm四方程度の
思ったより小さな作品だった。
エロティックなデッサンも含め、
多くの分離派の作品を堪能できる。

 

魅力的な絵画が並ぶ中
個人的に特に強く印象に残ったのは
ウィーン分離派が
分離派の展覧会のために作った
ポスター群だった。

展覧会ごとに
作家が順番に担当したらしいが、
どれも全体のデザインはもちろん
文字、つまり字体も美しく
一枚、一枚、実にユニーク。

新しいものを生み出していこうという
ある種の勢いみたいなものが
ヒシヒシと伝わってくる。

残念ながら写真は撮れなかったので
パンフレットの中の写真を
2枚だけ貼っておきたい。

Viennamodern3

ポスターなので
素材はもちろん紙なのだが、
どれも保存状態がよく
ほとんどシミがないのにも驚いた。
どうやって保存していたのだろう?

 

ここから42回にも渡って
旅行記を書き続けたように、
ウィーンは2年前の旅行で
個人的に満喫した都市のひとつだ。

なので、「行ったからこそ」、
「その後、詳しく調べたからこそ」、
楽しめた部分は確かにある。
一緒に行った妻も同意見だ。

しかし、仮にウィーンに
一度も行ったことがなかったとしても、
時代の流れを感じながら
作品を楽しむことは十分にできたと思う。

作品とその背景となる歴史や社会を
じょうずに結びつけた
工夫に満ちた展覧会だった。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年9月 1日 (日)

ウォークマン 再び

(全体の目次はこちら



ウォークマン 再び

- 雑誌の特集記事を読みながら -

 

前回
ウォークマン発売40周年を記念して、
東京・銀座ソニーパークで開催されていた
 #009 WALKMAN IN THE PARK
 「音楽が歩き出した日」から40年

のことを書いたが、
ちょうどそのころ書店を覗いたら
こんな雑誌が平積みされており
表紙のウォークマン2の写真に、
またまた引き寄せられてしまった。
雑誌の発売日は2019年8月20日。

俺たちをときめかせた音楽モノ大全
2019年10月号 : 昭和40年男増刊 総集編
クレタパブリッシング

雑誌は
「ウォークマン」「ラジカセ」
「ステレオコンポ」「楽器」
の4カテゴリについて
「音楽モノ」が元気だった時代を
多くの資料とともに振り返っている。

上記ソニーパークで開催されている
ウォークマン展でも得られなかったような
興味深いデータも載っていたので
それらを参考に
再度ウォークマンを振り返ってみたい。

なお実機の写真があったほうが
イメージしやすいので
ウォークマン展で撮影したものを
前回と同じものになってしまうが
再度添えておきたい。
どれもちゃんとテープを再生できる状態で
展示されていたのには
ほんとうに驚いた。
壊れずに動き続けていますように。

 

まずは、やはりコレから。

(1) ウォークマン1号機TPS-L2

P7033511s

ソニーの創業33周年に
3万3000円で売り出された記念すべき1号機。

録音もできないし、スピーカもない、
でも持ち歩きながら「ステレオ」で聴ける
カセットプレーヤ、
そんな1号機TPS-L2が
どんな経緯で誕生したのか。

ソニー創業者のひとり
井深大さんの言葉を始め
詳しい経緯は雑誌に譲るが、
改めてカタログを見ると
一番興味深いのは
当時の開発者の「熱い思い」が
感じられる「仕様」そのものだ。

(1-1) 2つのヘッドフォンジャック
ヘッドフォンジャックに印刷された
「GUY & DOLLS」については
前回、写真を添えて書いたが、
「ふたりで一緒に聴く」というコンセプトは
雑誌の表紙にもなっている
250万台を売ったという大ヒット作
2号機となるWM-2

P7033514s

にも引き継がれている。
「歩きながら聴く」ステレオは
「ふたりで聴く」ステレオでも
あったわけだ。

 

(1-2) HOT LINEボタン
これこそまさに初代TPS-L2のみの機能。
「ふたりで聴く」を考えたとき、
ふたりがヘッドフォンをしていたら
どうやって会話をすればいいのか?

なんとその答えを
「機能」として提供してくれている。
それがオレンジ色の「HOT LINE」ボタン。

P7033510s

このボタンを押すと、
再生中のテープの音が、
本体内蔵マイクの音に切り替わる。
つまり、マイクを通じて
ヘッドフォンをしたまま
ふたりが会話できる、というもの。

録音もできない機械が
マイクを実装している。

 

(1-3) 左右独立のボリュームコントール
TPS-L2にはスライド式の
ボリュームがついているのだが、
その設定は左右独立。
つまり右耳用と左耳用
それぞれにボリュームがついている。

空間に配置されるスピーカを持つ
ステレオセットでもなく、
もちろんミキサーでもないのに、
左右独立。
どんな状況を考えての機能なのだろう?
「ステレオ」という機能を強調するため、
ならわからなくはないが。


これらがすばらしい仕様だ、
と言いたいわけではない。
結果としてみれば、
どれも後継機に引き継がれて
長く残ることはなかったことを考えると
むしろマーケティング的には
フィットしなかった機能と
言えるかもしれない。

それでも、
電機メーカのエンジニアとして、
これらの仕様を決めるときの
商品企画会議の様子を想像すると、
もうそれだけで興奮してしまう。
どんな「思い」の
ぶつけ合いがあったのだろう。
新しいものが生まれる瞬間は
いつでも魅力的だ。

 

(2) 音楽メディアの変遷
カセットテープから始まったウォークマンは
その後、様々な音楽メディアに
対応していく。

上記ウォークマン展の
スタンプラリーの景品としてもらった
ブックレットの写真を一部拝借
して、
メディアごとのモデルを振り返ってみたい。
ブックレット入手の顛末はここ


1979 カセットテープ    :TPS-L2

Walkman21

 

1984 CD         :D-50

Walkman22

 

1990 DAT          :TCD-D3

Walkman23

 

1992 MD         :MZ-1

Walkman24

 

1999 メモリースティック  :NW-MS7

Walkman25

 

2004 HDD(20GB)      :NW-HD1

Walkman26

 

メディア対応だけでなく、機能のほうも
録音、オートリバース、防水、
ソーラーバッテリー、Wカセット、
FMチューナー、ワイヤレスリモコン、
ワイヤレスヘッドフォン、
果ては
カメラ、ワンセグテレビ、
まで、
あの小さな小さな筐体に
さまざまな夢が次々と実装されては
消えて行っている。

 

(3) 連続再生時間への挑戦
ウォークマンの歴史と言うと、
極限にまで最小化された
「サイズへの挑戦」に
フォーカスがあたりがちだが、
今回の雑誌の特集では、
連続再生時間についても
詳しく記録を残してくれている。
一部をピックアップしても・・・

1979 単三x2本:8時間
1981 単三x2本:9時間
1983 単三x1本:5時間
1985 単三x1本:4時間  Ni-Cdガム:2時間
1987 単三x1本:7.5時間 Ni-Cdガム:4時間
1989 単三x1本&Ni-Cdガム:11時間 併用
1991 単三x1本&Ni-Cdガム:12.5時間 併用
1992 単三x1本&Ni-MHガム:22時間 併用
1994 単三x1本&Ni-MHガム:36時間 併用
1996 単三x1本&Ni-MHガム:62時間 併用
1998 単三x1本&Ni-MHガム:100時間 併用

Ni-Cdガム:
  ニッケル・カドミウム・ガム型充電池
Ni-MHガム:
  ニッケル・水素・ガム型充電池

単三x1本のモデルを作るときは、
1.5Vで動作するICがなかったため、
そこからの開発だったという。
最初(1983年)の単三電池1本で5時間だって
十分驚きに値する消費電力だが、
そこからここまでの成長を見せるとは!

単三x1本とニッケル水素ガム型充電池との
併用で
連続再生時間100時間を達成した
WM-EX9はこれ。

Walkman27

カセットテープ機では、言うまでもなく
音楽再生の電子回路の他、
モータでテープを送り、
それを巻き取るというメカを
再生中、常に動かさなければならない。
そういった「メカを動作させること」も
含めての100時間!

まさに「到達点」と呼ばれるにふさわしい
信じられない技術の結晶だ。

コンセプトでもデザインでも技術でも
我々昭和世代に衝撃を与えた
カセットテープ対応のウォークマンは
2010年をもって
国内向けの出荷を終了したという。

ほんとうにお世話になりました。合掌。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »

最近のトラックバック

2019年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ