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2019年8月

2019年8月25日 (日)

ウォークマン発売40周年

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ウォークマン発売40周年

- 「音楽が歩き出した日」から40年 -

 

SONYが、
ウォークマン発売40周年を記念して、
東京・銀座ソニーパークで
2019年7月1日 - 9月1日
 #009 WALKMAN IN THE PARK
 「音楽が歩き出した日」から40年

を開催している。

Walkman40

歴代のウォークマン約230台が
展示してある、というので
懐かしさにつられて覗いてきた。

 

友人のひとりが買った初代WALKMAN

P7033511s

「TPS-L2」を取り囲むようにして
驚きながら回し聞きしていた
そんな私の世代にはたまらない企画だ。

「家で聞くしかなかった音楽」が
「歩き出した日」の衝撃は
今の若い人にはなかなか
わかってもらえないかもしれない。

まさに名前の通り
「歩きながら聞く」という
スタイルを作り出した
画期的な新製品だった。

 

私自身も、何世代目かの
カセットテープのモデルから始まり
今もメモリタイプの
ウォークマンNW-A16を
毎日持ち歩いて音楽を聴いているのだから、
30数年におよぶ
ウォークマンユーザということになる。

 

地下の会場には、実機とともに
著名人とウォークマンとの
思い出エピソードも並べられていたが、
驚いたのは、
カセットテープのウォークマンが
テープが入った状態で展示してあり、
しかも、ヘッドフォンも挿さっていて
すぐに音が聞ける状態になっていたこと。

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カセットテープの音を聞くのは
何年ぶりだろう。

軽い気分でちょっと聞いてみたところ、
さらに驚いた。

すごくいい!
いゃ、懐かしさだけでなく、
ほんとにすごくいい!

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ここのところデジタル音、
しかもmp3を始めとする
圧縮フォーマットによる音楽ばかり
耳にするようになっていたせいか、
なんとも優しい「アナログ感」に
引き込まれてしまう。

ふくよかで奥行きがあって
とにかく響きが心地よい。

曲間では、「サーッ」という
テープ独特の
ヒスノイズが聞こえてくるが、
いまやそんな音までも楽しめてしまう。

 

ひとりの青年は、
「これがカセットテープか」
とテープ自体をしげしげと眺めていた。
連れの年輩者が
テープを鉛筆で巻き取った話やら
レーベルを手書きで作った話やら
思い出を楽しそうに語って聞かせていたが、
古い電子機器を挟んでの
なんとも微笑ましい光景だった。

 

初代「TPS-L2」には二人で聞けるように
ヘッドホンジャックが2つあったのだが、
初期ロットにのみ
「GUY&DOLLS」と印字があったことや

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発売時は世界で名前が統一されておらず、
アメリカでは
SOUNDABOUT(サンドアバウト)
イギリスでは
STOWAWAY(ストウアウェイ)
といった名前で発売されていた

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というような
エピソードのポスターもあって
実機以外も楽しめる。

 

一通り回って帰ろうと出口近くまで来ると、
ちょうど、ふたり組の男性のひとりが
スタンプラリーの景品を
もらっているところだった。

直後、景品を開けた男性から
「何これ、すげぇ! うれしいぃ!」と
びっくりするような歓声が聞こえてきた。

「えっ、何?」
声につられてそちらを見ると、
興奮しながら小さなブックレットの
ページをめくって連れに見せている。

それを見た瞬間、
「何これ、すげぇ!」の声が
今度は私の中を駆け抜けた。

会場を出ようとしていた私は
スタンプラリーの台紙をもらって
即再入場。
5分程度で駆け足で回って
スタンプだけを揃えて戻ってきた。
集めたスタンプは、
これまた懐かしいロゴ、ロゴ、ロゴ。

Walkman40s

で、景品をゲット。

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カセットテープのケースを
そのままケースに使っているので、
一見、カセットテープのように見えるが、
中身はブックレット。

その中身は・・・

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1号機「TPS-L2」から始まり、
2018年発売の現行の
A50シリーズに至るまで、
歴代機種のうち83モデルを
時系列に並べ、
ウォークマンの40年を
写真で振り返ることができる
冊子となっているのだ。

もう、まさに涙がでるほど懐かしい
モデルの写真が一機種一ページで
ずらりと並んでいる。

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再生メディアもこの40年で
カセットテープ、CD、DAT、MD、
そしてメモリへと
大きく変化してきた。

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音楽プレーヤも数のうえでは
いまや主役は完全にスマホだろう。

専用プレーヤは生き残りをかけて
ハイレゾだ、FLACだ、ALACだと
高音質をウリにしているが
携帯音楽プレーヤの一ファンから見ても
残念ながらそこには
肝心要のワクワク感がない。

「歩き出した音楽」は
この先どこに向かって
歩いてゆくのだろう。

 

 

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2019年8月18日 (日)

古代出雲 歴史博物館

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古代出雲 歴史博物館

- 高さ48mの本殿は? -

 

出雲大社にお参りしたあとは
島根県立 古代出雲 歴史博物館
に寄ってみた。

入って最初に出迎えてくれたのは、
直径1mを越える巨大なスギが
3本一組となったコレ。
宇豆柱(うずばしら)

Img_4355s

これは出雲大社の八足門前、
下記写真の右下足元、赤丸の位置から
平成12年(2000年)に発掘された
巨大な柱の一部だ。
鎌倉時代のものと推定されている。

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出雲大社の本殿の高さは、
現在8丈(24m)だが、
「古代は16丈(48m)あった」という
言い伝えが残されている。

しかし、そんな巨大な建物を
当時の技術で建てることができたのか、
疑問の声も多かった。

そんな中、こんな巨大な柱の跡が
3箇所でみつかった。
しかもそれは古い平面図に描かれていた
位置通りの場所だったのだ。

この柱の発見により、
高さ48mの本殿の現実味
が一気に高まった。
巨大柱が支えた
鎌倉時代前半(1248年造営)の神殿は
どのような姿だったのだろうか?

博物館には、6種類の
復元案に基づく模型が展示してある。

本殿 復元案1

Img_4358s_1

一番インパクトがある巨大模型。
階段を歩く二人(白い点)にご注目。

高さ16丈の言い伝えは古くからあるため、
出雲大社本殿建築の復元研究と
その高さをめぐる論争は
すでに100年にもおよぶという。

復元案2, 復元案3, 復元案4

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発掘成果をもとに
限られた文献や絵画史料を駆使し、
上屋(うわや)構造を推定したもの。

学者によって
ずいぶん違う案が提示されていて
おもしろい。

復元案5, 復元案6

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図面や文書ではなく、
こうして模型で展示してくれると
だれにでもわかりやすいうえ
あれやこれや勝手な想像も
スケール感を伴ってしやすいので
形にする意味は大きい。

6つの案の中にほんとうの姿が
あるかどうかはわからないが、
柱の跡と現存の資料から考える範囲では
どの可能性も否定はできない。

 

館内では出雲大社のほか、
「出雲国風土記の世界」と
「青銅器」
がテーマ別の常設展になっていた。

【出雲国風土記の世界】
風土記は奈良時代に
全国六十余国で作成されたが
現在残っているものは5つのみ

そのうち
「常陸国風土記」「播磨国風土記」
は一部が欠落。
「豊後国風土記」「肥前国風土記」
は元の形から文章が省略されている、と
考えられているらしい。

つまり、現存する5つの風土記の中で、
ほぼ完全な形で伝わっているのは
「出雲国風土記」だけ


その風土記に基づいて
古代の地域の様子を
「くらし」の様子を
様々な角度から展示している。

 

【青銅器と大刀】
荒神谷(こうじんだに)遺跡から
358本の銅剣、
16本の銅矛、
6個の銅鐸が出土。

加茂岩倉遺跡から
39個の銅鐸が出土。

大量に出土した弥生時代の青銅器、
古墳時代の金銀の大刀
などが見やすく展示してある。

特に銅鐸。
こんなに多くの銅鐸は初めて見た。

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整然と並べられた銅剣、銅矛も圧巻だ。

Img_4379s

 

他にも
島根の歴史と文化を特徴づける
「四隅突出型墳丘墓」
「出雲の玉作」
「石見銀山」
「たたら製鉄」
を中心に、古代から現代に至る
島根の人々の生活と交流の歴史を
紹介している総合展示室もある。
どの展示・説明もわかりやすく、
見やすく、見どころ満載。

出雲大社にお参りした折には、
ぜひ立ち寄ってみてほしい。
お薦めだ。

 

 

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2019年8月11日 (日)

出雲大社

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出雲大社

- ぜんざいは神在(じんざい)? -

 

島根・鳥取方面への旅行、
最終日は、出雲大社にお参りした。

勢溜(せいだまり)の大鳥居から
松の参道と呼ばれる参道を
ゆるやかに上っていく。

Img_4306s

(写真はすべてiPadにて撮影)

ふと前方の鳥居を見ると、
そこから先、参道から人が消えている。
どうして?

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ここまで真ん中を歩いて来た人たちは
この鳥居から先、鳥居の両脇の道に
進路を変えているのだ。

神様の集まる出雲大社のこと、
「真ん中は神様の通る道で
 人はその両脇を歩く」
なる話も聞いたことがあったので、
「もしかしたら、このこと?」
と思いながら近づいていった。

鳥居の下まで来ると、
何か書いてある。
いったい、何が書いてあるのだろう?

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「松の根の保護のため
 参道左右をお進み下さい」

なんだ、松の養生のためか。
なぜかガッカリ。

脇の参道を歩くことになったが、
参道からちょっと右に目を遣ると
山の緑がほんとうに美しい。

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「ムスビの御神像」と呼ばれる像。

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立派な像ではあるが、
なぜか「気恥ずかしい」。

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「御自愛の御神像」

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因幡の白ウサギの話って、
子どものころ絵本で読んだ記憶しかない。

絵本で語られる物語というのは、
多くの子どもに知ってもらえるという
大きなメリットがある反面、
それだけで知った気になってしまう
そういう子どもを大量に生産してしまう
ある種の不幸を背負っている気がする。

「大人になってからちゃんと知ろう」
をサボっている自分の怠惰を棚に上げての
勝手な思い込みではあるが、
小学生のころ読んだ
「こども**全集」に入っていた話を
大人になってから「原作」で読んでみると、
その印象のあまりの落差に
驚くことはよくある。

絵本で知った、ならなおさらだ。

 

「拝殿」まで来た。

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出雲大社独特の
「2礼4拍手1礼」でお参りする。

左奥に本殿、右に拝殿

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境内を右回りに、大きく歩く。

左に八足門、右に観祭楼

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八足門

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右下の足元、赤い丸については
のちほど見学する歴史博物館で
驚きの事実を知ることになる。

 

御本殿西側

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西側から臨む御本殿

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素鵞社(そがのやしろ)
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境内の一番うしろ、
もっとも奥まったところにある。
大国主大神の父神とされる
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る社
御本殿を背後から見守るかのような
位置にある。

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真後ろから見る御本殿

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物理的な距離という意味では、
この真後ろが一番近いかもしれない。

東側から臨む、右が御本殿

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左から御本殿、御向社、天前社

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東十九社

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旧暦10月の神在月(かみありづき)の際
全国から訪れる神々の宿舎
西十九社として西側にもある。

御本殿を一周、拝殿に戻ってきた。

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お参りした後は、名物のコレを。

出雲割子そば

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蕎麦の実を皮つきのまま製粉するため
色は黒っぽくいが、香りもよく、
お参りで歩いて
ちょっとすいたお腹にピッタリ。

食事のあとはデザート代わりに
別なお店で「ぜんざい」を。

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このぜんざい、「縁結び」にからめて
なんと結んだ「蕎麦」が入っている。

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そもそも
「ぜんざい」の発祥はこの地だとか。

出雲では神在祭の時に
神在餅(じんざいもち)をふるまっていた。
「祇園物語」には
「赤豆を煮て汁を多くし、
 少し餅を入れ」とある。

この「じんざい」が
出雲弁でなまって「ぜんざい」となり、
京都に伝わったとのこと。

元は、神在(じんざい)か。

旅行最後に立ち寄った
島根県立古代出雲歴史博物館
の話は次回に。

 

 

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2019年8月 4日 (日)

国宝「松江城」

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国宝「松江城」

- 2階ごとの通し柱と包板(つつみいた) -

 

前回に引き続き、
松江旅行記を続けたい。

「カラコロ広場乗船場」から
堀川めぐりの船に乗り込んだ我々は
橋や石垣を船から楽しみながら、
「大手前広場乗船場」まで来た。

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(写真はすべてiPadで撮影)

ここで降りて、
松江城を見学することにする。
松江城は、現存する12天守のひとつ。
1935年に国宝に指定されたものの
1950年に重要文化財に。
2015年に国宝に再指定
というちょっとかわった経歴を持つ。

【松江城】
入るとまず、
大手門跡からの石垣に圧倒される。

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子どもではあるが
人と一緒に写真を撮ると、
石垣の高さがよく分かる。

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石垣積は、築城工事にあたって、
全体の半分以上の労力を要した大事業。

築成には遠く大津市坂本町穴太の
穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる
優れた技能を持った
石垣築成集団が招かれて
その任にあたったという。

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自然石や割石を積む「野面積」や
石切り場で切り出した石の、
平坦な面の角を加工し、
合わせやすくした「打ち込み接(はぎ)
といった様々な積み方を
実際に目にすることができる。

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訪問は5月4日、城内ではちょうど
ヒトツバタゴ(一つ葉田子)
通称ナンジャモンジャの木の花が満開で
多くの人がカメラを向けていた。

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ナンジャモンジャという名前には
きっとおもしろい由来があるに違いない、と
ちょっとググってみたのだが、
諸説出てくるものの
改めてここに書くようなネタは
見つからなかった。残念。

 

城の前まで来ると、
鎧を纏った武士の格好をした人が。

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城を背景に、
武士を囲んで写真撮影をする観光客、
特に外国人の方が多く、
各グループにひっぱりダコ。
忙しくても笑顔を絶やさない
にこやかな対応はさすが。

それにしても、この城、
堂々たる風格だ。

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さっそく中に入ってみることにした。

入って最初に目に飛び込んできたのは
「井戸」。
まさに城の中に井戸。
深さは24mもあるらしいが、
城から出ずに飲料水が得られたことは
籠城対策としても有効だったことだろう。

他にも、2015年の
国宝再指定を決定づけた「釘のあと」
木造では国内最大の鯱鉾(しゃちほこ)など
見どころはいろいろあるが、
一通り見学して、素人ながら
特に強く印象に残ったのは次の二点だった。

(1) 2階ごとの通し柱
松江城には、下から最上階までを貫く
「通し柱」がない。
1階と2階、2階と3階、というように、
「2階ごとの通し柱」を組合せて
天守を構成している。

iPadは暗いところに弱いので
写真ではちょっとわかりにくいが
写真を撮ったので貼っておきたい。

柱は、通常、こんなふうに
下の階から上の階に貫かれているのが
ふつうだ。(写真中央の柱)

Img_4226s


ところが、松江城では、
2階分の通し柱が使われているので
こんな部分がある。
中央の柱は、上の階にだけあって
下に伸びていない。

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ちょっと不思議な感じ。
全体の構造図で示すとこうなっている。

Toshihashira2

(登閣券を買ったときにもらった
 松江城のパンフレット掲載図。
 より詳細な資料は、松江市が
 通し柱配置図として公開している)

ちなみに、姫路城の天守には
地階から6階までを貫く柱が2本あり、
それらがまさに中心となって、
全体を支えているらしい。

なお、これら
各階の階段に「桐」の板
使っていることも、
松江城ならではの特徴のひとつ。

防火・防腐に効果があるだけでなく、
緊急時に
防衛のために階段を引き上げるとき、
軽くて引き上げやすい、
というメリットもあるのだとか。

 

(2) 包板(つつみいた)
天守を支える柱には、一面だけ、
あるいは二面、三面、四面に板を張って、
鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で
留められているものがある。

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これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、
天守にある総数308本の柱のうち
103本に施してあるという。
割れ隠しなど不良材の体裁を
整えることを目的としながらも、
補強効果も期待したものと考えられる、
との説明が出ている。

Img_4236s

現存天守では
松江城だけに見られる技法
らしいが、
数本ならともかく100本以上、
30%以上の柱が不良材ベースとは。

権威や体裁を気にする天守において
良材が調達できなかったこと、
そしてその不良材を工夫はしたにせよ
実際に使ってしまったこと、
それらにはどんな意味があるのだろうか?

 

天守閣からの眺めは抜群。
遠く、登山した大山も見える。

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南側には宍道湖が広がっている。

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明治の初め、全国の城はほとんど
取り壊される運命にあった。
ところが、松江城天守は
地元の豪農 勝部本右衛門、
旧松江藩士 高城権八ら
有志の奔走によって
山陰で唯一保存され、守られた。

今後も継続的なメンテナンスが
必須であることは間違いないが、
なんとかその姿を後世に残してもらいたい、
そう思える見応え十分の天守だった。

 

 

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