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2019年4月21日 (日)

言霊思想と大山古墳

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言霊思想と大山古墳

- 文字で記録することの意味 -

 

先日、同僚と話をしている際、
我々中年世代が学生時代、
「仁徳天皇陵」として覚えたその名前が
今や教科書から消えている、
ということが話題になった。

今は、
「大山/大仙(だいせん)古墳」
と呼ばれているようだ。
大阪府堺市堺区大仙町という
地名からの呼称のようだが、
それは、被葬者が不明であることの
証でもある。

そう言えば、昨年(2018年)
宮内庁が地元自治体と
初の共同調査を始めることが
ニュースになっていた。
ついに発掘が許されるのであろうか。

「あんなに巨大な墓なのに、
 誰の墓かわからないなんてね」
の言葉を聞いて、以前読んだ
この本のことを思い出した。

加藤徹 (著)
漢文の素養
誰が日本文化をつくったのか?
光文社新書

(以下、水色部本からの引用)

 

この本、
新書ながら内容の濃い本で、
「なぜ被葬者がわからないのか」
に関する話は、導入部の
エピソードのひとつに過ぎないのだが
今日は、その部分にのみ
焦点をあてて話を進めたい。

 

「被葬者がわからない」ということは
「被葬者の名前がどこにも書かれていない」
または
「名前が書かれたものが見つからない」
という意味だ。

それには「言霊(ことだま)思想」が
深く関係しているのではないか、
というのが加藤さんの見解だ。

 そもそも、和語では、
「言(こと)」と「事(こと)」を
区別せず、ともにコトと言った。

すべての言葉には霊力があり、
ある言葉を口にすると、
実際にそういう事件が起きる、と
古代人は信じた。

例えば
「死ぬ」という言葉を口にすると
本当に「死」という事実が起きるし、
自分の本名を他人に知られると
霊的に支配されてしまう、
と恐れられていた。

こういった言葉の霊力を信じる気持ちが
言霊思想だ。

 そんな言霊思想をもつ
古代ヤマト民族にとって、
異国から伝来した文字は、
まるで、言霊を封じ込める
魔法のように見えたにちがいない。

幕末に
西洋から写真技術が入ってきたときも、
「写真に撮られると魂を抜かれる」
という迷信を信じた日本人は、
多かった。

何千里も遠く離れた人や、
数百年も前に死んだ人のメッセージも
正確に伝える文字
というものに対して、
古代ヤマト民族が
警戒心を懐(いだ)いたとしても、
不思議はない。

文字に対する警戒心は、
ほかの民族にもあったようだ。

 文字記録に対する抑制、
という現象は、どの民族にもあった。

 例えば、古代インドでも、
崇高(すうこう)な教えは
文字として記録してはいけない、という
社会的習慣があった。

釈迦の教えも、
弟子たちはこれを文字に記録せず、
口から口へと伝えた。

釈迦の教えを文字にした
成文経典ができあがるのは、
釈迦の入滅後、
数百年もたってからのことである。

現存する仏教の経典の多くが、
梵語(ぼんご)で
「エーヴァム・マヤー・シュルタム」
(このように私は聞いた。
 漢訳仏典では
 「如是我聞(にょぜがもん)」
という言葉で始まるのは、
こういうわけである。

「如是我聞」つまり
「このように私は聞いた」と
始まっているわけだ。

 西洋でも、
崇高なものは文字に写してはいけない、
という発想があった。

例えば、『旧約聖書』の神の名前も、
その正確な発音を
文字に写すことを禁じられたため、

YHWHという「聖四文字」
(ラテン語でテトラグラマトン)の
子音しか伝わらず、
どう母音をつけて読むか、
不明になってしまった。

13世紀以降、キリスト教では
「エホバ」と読む習慣ができたが、
現在ではヤハウェと読む学説が
有力である。

加藤さんは、
中島敦の短編小説『文字禍』を引用し、
古代ヤマト民族も、
「文字の精霊にこき使われる
 下僕(しもべ)」になる危険性

本能的に嗅ぎとり、
漢字文化の摂取を
躊躇したのかもしれない、
と言っている。

この思想は墓誌銘の扱いにも
影響を与えていたはずだ。

古代ヤマト民族は、墓誌銘を嫌った。
弥生時代の甕棺から
漢字を鋳込んだ鏡は出土しても、
被葬者の名前を漢字で書いた甕棺は
出てこない。

3世紀半ばから
古墳が造営されるようになったが、
古墳の墓室内に被葬者の名前や事跡を
文字で書き記すことはなかった

 

文字そのものが全く入ってきていなかった、
というわけではない。

 5世紀の日本
(当時はまだ「倭国」と呼ばれていた)
には、すでに
高度な漢文を書く能力をもつ書記官が
存在していた。

例えば、いわゆる「倭の五王」が
中国の南朝に派遣した使者は、
中国の皇帝に、堂々たる純正漢文の
上奏文を渡している


5世紀当時の倭国の大王は、
その気になれば、
古墳の被葬者の名前を、
墓誌銘なり石碑なりで
明示することは簡単だった
はずだ。

古代の天皇陵の大半は
過去に盗掘に遭い、
副葬品がもち出されたが、
墓誌銘が見つかったという記録は
残っていない。

 日本では、
たった1500年前の古墳でさえ、
その被葬者を確定できない

 

日本の古墳よりもさらに2000年以上も古い
エジプトのピラミッドはどうだろう。

対照的に、エジプトでは、
4000年前の陵でも、
ちゃんと被葬者の名前がわかる


墓のなかにびっしりと、
ヒエログリフ(エジプトの象形文字)で
文字が書いてあるからである。

 

もちろんその影響は、
墓誌銘に留まらない。
加藤さんはこうまで言い切っている。

 3世紀の邪馬台国の所在が
今日も不明なのも、
その場所が示されていないからだ。

すでにその候補地となる遺跡は
いくつも発見されているのだが、
「ここが邪馬台国です」とか
「ここが卑弥呼の墓です」と
文字で書いた遺物なり碑文が
出土する可能性は、
今後も期待できない

 

漢字が日本に入ってきて、受容され、
そして一般的に使われるようになるまで
時間がかかっているのには、
背景にこういった言霊思想が
あったこともひとつの理由なのだろう。

 もし、単に漢字の字形を
まねることをもって漢字の受容と
見なすのであれば、日本人は、
弥生時代から文字時代に入った、
と言うことができる。

ただ、日本人自身が、
自分たちの事跡を
漢字で記録することはなかった。

その意味で、真の漢字文化は、
4世紀ごろまでの日本には
存在しなかった。

文字がまだ威信材だったころ
「事跡(ことと)を文字で記録する」
ことの意味は、
今とは全く違っていた。

言霊や文字の力を
改めて想像してみるのはおもしろい。

 

 

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