エレキギターが担うもの
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エレキギターが担うもの
- 椎名林檎さんの言葉 -
おくればせながら
映画「ボヘミアン・ラプソディ」を
観てきた。
映画自体は、
ロックバンド「クイーン」のメンバ、
フレディ・マーキュリー
個人に焦点をあてた物語だったが、
後半にたっぷり流れた
「アフリカ難民救済」を目的とした
大規模なチャリティーコンサート
「ライブ・エイド」での
演奏シーンを観ていたら
ロックやライブについて
いろいろな思いが喚起された。
「ライブ・エイド」が
実際に開催されたのは1985年。
いまから34年も前だ。
CDプレーヤが世に出たのが
そのわずか3年前の1982年。
レコードからCDへの移行期の
大イベントだったことになる。
その後、隆盛を極めたCDだったが、
そのCDも
いまや殲滅の危機に瀕している。
ロック音楽そのものも、
ロックを取り巻く環境も
この34年で大きく変化した。
そう言えば、昨年(2018年)は、
米の老舗ギターブランドだった
「ギブソン」が経営破綻したことも
音楽雑誌では大きな話題になっていた。
若者のロック離れが、
その背景にあるのだろうか?
ニュースを受けて
多くのミュージシャンや音楽関係者が、
ギターへの思いを熱く語っていたが、
そんな中、椎名林檎さんの言葉は
抜群によかった。
すてきな言葉が溢れていたので、
今日はそれを紹介したい。
(2018年5月15日の朝日新聞の記事
以下、水色部記事からの引用)
椎名さんがエレキギターに
最初に触れたのは中学3年生のとき。
高校では同時に8つほどのバンドを
掛け持ちしていたという。
担ってほしい役割というのは、
当時からはっきりしていました。
「いらだち」とか「怒り」「憎しみ」…。
「やり場のない悲しみ」とか、
そんな「負の感情」の表現をするときに
登場するのがエレキギター。
ひずんだ音色、ノイズが必須です。
そうすると声も共鳴して、
「エレキ声」になる。
そこに気づいていたので、
曲づくりでも「負の感情」を書くんだと
認識していました。
いまでもエレキギターはそういう役割、
もしくは「軋轢(あつれき)」役でしか
登場させていません。
もちろん近年の音楽シーンにおける
ギターそのものの存在感の変容も
椎名さんの目には入っているが、
それを認めつつも、こう言葉を繋いでいる。
時代が移り変わろうと廃れない、
エレキギターそのものの本来の美点を
いつも第一に考えています。
それは音符に書けない表現、
あるいは楽譜に記す理屈以前の、
「初期衝動」です。
エレキのプレーは
音符に表した途端に面白みを失います。
音色一発の魅力ありきだから。
実際にはあらゆるタイミングが合致して、
授かりもののような音が生まれます。
録音で珍しいテイクがとれて、
写譜屋さんに預けると、
肝心の箇所が「XX」と記されて
返ってきたりします。
口でいうと「ヴヲア!」みたいな
感じかもしれないけど、
カタカナで書くわけにもいかない。
そこにこそエレキの本質が
宿ると思います。
であるからこそ、
エレキギターのプレーだけは、
今後もコンピュータでは
再現できないでしょう。
「型」と「型破り」についても、
簡潔にポイントを突いて触れている。
クラシックバレエを習っており、
「型」に背中を押されてきました。
時に縛られたりしながらも、
やっていてよかった。
一方、エレキギターには、
それ以前のただの情動がある。
型を学べば学ぶほど、
「型破り」の尊さ、難しさを
思い知ります。
そのはざまが面白いからこそ、
私としてのエレキギターの「型」を
提示し続けるのかも知れません。
日本のバンド「SEKAI NO OWARI」の
ボーカル深瀬さんが
「今時、まだギター使ってんの?」
と言い放って話題になっていたのは
もう数年前だが、私個人としては、
「ロックはギターだ」と思っている。
椎名さんはその真髄を
うまく言葉にしてくれていたと思う。
打ち込みの隆盛は止めようがないし、
いわゆるヒット曲においては
ギターよりもキーボードが
活躍しているものが多い、
という現実は確かにあるが、まさに
「楽譜に書けぬ情動」の表現には
ギターがなければ・・・。
そして
「あらゆるタイミングが合致して、
授かりもののような音が生まれ」る。
ロックに限らず、生演奏つまりライブの
再現できない魅力はまさにこの点にある。
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