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2018年9月

2018年9月30日 (日)

オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

- 吊り輪や鉄棒のある化粧室 -

 

前回は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
について書いた。
今日は続けて、
その妻エリーザベト(愛称シシィ)
(生没:1837-1898)

について
そのエピソードを紹介したい。

ただ、前回にも書いた通り、王宮内の
「シシィ博物館」と
「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」
は残念ながら写真撮影禁止。
肝心な彼女の部屋の様子を
写真でお見せすることができない。

皇妃とは直接関係ないものの
ウィーン市内で撮った写真を
挿絵代わりに貼って話を進めていきたい。

P7179525s

 

【シシィの誕生:1837年】
エリーザベトは
ドイツ、バイエルンの
ヴィッテルスバッハ公爵家の
次女として生まれ、
幼い頃からシシィの愛称で呼ばれて
多くの兄弟姉妹とともに
自由奔放に育った。

P7169440s

 

【15歳のときの出会い:1853年】
15歳のとき、
姉ヘレーナの見合いに同行し、
バート・イシュルを訪問する。

皇帝フランツ・ヨーゼフの母、
オーストリア大公妃ゾフィーが、
若くして皇帝になった
息子の花嫁を探しており、
姉ヘレーナが
その候補にあがっていたのだ。

これは、オーストリアと同じく
厳格なカトリック教国で、
ドイツ連邦の忠実な同盟国である
「バイエルン王国」から皇后を迎え、
関係強化を図るという
政略目的にもかなっていた。

ところが、その時、
若きオーストリア皇帝は
ヘレーナに同行していた
エリーザベトのほうに一目惚れ
姉のヘレーナではなく、
妹のエリーザベトを妃に選んでしまう。

P7179633s

 

選ばれてはみたものの
まだあどけなさの残るエリーザベトには、
ハブスブルク大帝国の首都、
ウィーン王宮での
堅苦しい宮廷儀式の数々は
精神的に大きな負担だった。

フランツ・ヨーゼフの
求婚の申し出に対して
エリーザベトはこう語ったという。

「どうしてあの方を
 愛せないはずがありましょう」

とひと泣きした後、

皇帝のことはとても好きです。
 あの人が皇帝でさえなければ


皇帝に愛されてうれしい反面、
宮廷生活への
不安のほうが大きかった。

P7179529s

 

【16歳で結婚:1854年】
1854年4月24日、16歳のとき、
ウィーンのアウグスティーナー教会で
結婚式が行われた。

直後から、皇妃として
義母ゾフィーに鍛えられる日々が続く。

P7159148s

 

【なじまないウィーンでの宮廷生活】
皇妃として、結婚後の4年間に
王位継承者である息子ルドルフを含む
3人の子どもを産んだ
エリーザベトだったが、

自由奔放に育った彼女は
窮屈なウィーンの宮廷生活に
なかなかなじむことができず、
次第に精神を患って
転地療養生活
を送るようになる。

長い旅に出かけることもしばしばだった。
夫フランツ・ヨーゼフは、
旅路の妻に宛てて、
頻繁に手紙を書いていたという。

P7169464s

 

【美への執着】
エリーザベトと言えば「美」。

夫フランツ・ヨーゼフが
一目惚れしたその美貌は
最初からよく知られていたが、
エリーザベト自身、「美」、
特に健康なほっそりとした体、
透明な肌、美しい髪には、
思い入れが深く、
手入れを怠ることは決してなかった。

成人してからは
身長172cm、ウエスト50cm、
体重50kg(踵まで届いた髪の重さ5kgを含む)
が常に維持されていたという。

エリーザベトは、
このプロポーションを保つために、
生涯にわたって毎日、
運動とダイエットに励んだ

P7169352s

 

それでも50代ともなると、
過度の運動と
極端なダイエットが逆効果となり、
くるぶしの腫れや
栄養失調に悩まされるようになる。

いつしか、
外出の際はパラソルと扇を
片時も手放すことなく、
顔を隠して歩くようになっていった。

彼女の美貌は自信であり、
宮廷での権力でもあった
が、
皇妃といえども
寄る年波には勝てなかった。

P7169353s

 

【息子ルドルフ、情死:1889年】
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死

ハプスブルク家の跡継ぎだった
ひとり息子のルドルフが自殺して以来、
エリーザベトは
喪服を脱ぐことはなかった。

P7169439s

 

【スイスで暗殺される:1898年】
スイス、レマン湖で
遊覧船に乗ろうとしていたところを
無政府主義者に襲われ、
やすりで心臓を一突きされて死亡。
このときも黒い服を着ていた。

P7158945s

 

「シシィ博物館」も
「皇妃シシィの住居」も
こういった人生を知って見ると、
印象的な部屋や遺品がいくつもある。

特にシシィに関しては、
やはり「美への執着」を感じさせるものが
印象的だ。

旅の多かった彼女が携帯していた
美容関係グッズも実に大量でかつ多彩。

吊り輪や肋木、鉄棒がある化粧室は、
まさにトレーニングルーム。

博物館で買った日本語版のガイドブック

Ginnki1

にはその化粧室の写真もある。

王宮内の化粧室と
トレーニング機器の組合せは
ちょっと珍しいので
上記ガイドブックから2枚だけ
写真を引用し貼っておきたい。

Sissi1

中央部、釣り輪が見えるだろうか。

Sissi2

 

劇的な人生と終始貫かれている美への執着、
映画化にはピッタリの題材だ。

オーストリアの人気女優
ロミー・シュナイダーが主演した
映画『シシィ』の一部が
「シシィ博物館」の入口付近のモニタに
映し出されていた。
オーストリアでは
きっとよく知られた映画なのだろう。

懐かしそうに見ている顔が
いくつもあった。

日本では1959年、
当時の「皇太子御成婚記念映画として
封切られた」とWikipediaにはある。

「プリンセス・シシー」として
DVDも出ているようなので
ぜひ一度観てみたいと思っている。

 

 

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2018年9月23日 (日)

オーストリア旅行記 (57) フランツ・ヨーゼフ1世

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オーストリア旅行記 (57) フランツ・ヨーゼフ1世

- 愛するものを次々と失いながらも -

 

もともとは、旧王宮内の観光スポット

 「シシィ博物館」
 「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」

を歩く際、
長い王朝の歴史の最後に登場する
皇妃シシィや、
その夫フランツ・ヨーゼフ1世
の部屋に入る前に、
ハプスブルク帝国全体の歴史を
振り返ってみよう、と
ここで、つまり6月から始めた
寄り道だったが、飛び飛びながら

* ルドルフ1世
 (生没:1218年-1291年)

* マクシミリアン1世
 (生没:1459年-1519年)

* カール5世
 (生没:1500年-1558年)

* フェリペ2世(スペイン王)
 (生没:1527年-1598年)

* マリア・テレジア
 (生没:1717年-1780年)

を見てきたので、このあたりで
ようやく元のところに合流、
事実上
最後の皇帝夫妻となった
ふたりを見ていきたいと思う。

ただ、残念ながら、ここも見学エリアの
写真撮影は許可されていなかった。
なので、ウィーンの街角で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら
話を進めていきたい。

P7158991s

 

見学している旧王宮は、
歴代の皇帝が住んでいたもので、
当然のことながら、
フランツ・ヨーゼフ1世&皇妃シシィ
この「ふたりのためだけ」
に造られたものではない。

しかし展示では、
「皇妃シシィ」の名が
前面に押し出された展示になっているので、
どんな夫と妻だったのかは
断片的であれ知っておきたい。

まずは夫
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
 (生没:1830年-1916年)
から。

P7179625s

 

「事実上最後の皇帝
 フランツ・ヨーゼフ1世」


その一生を簡単に追ってみたい。

【18歳で即位】1848年
ウィーンで起こった革命の直後に
オーストリア皇帝に即位。
18歳で即位した皇帝は、
以後68年の長きにわたって
ひたすらオーストリアのために
生涯を捧げた。

P7179637s

【エリーザベトに一目惚れ】1853年
見合いのためバート・イシュルを訪問。
ところが、皇帝は
見合い相手ヘレーナに同行していた
15歳の妹エリーザベトのほうに
一目惚れしてしまう。

P7159160s

【結婚】1854年
アウグスティーナ教会で
エリーザベトと結婚。
1736年、マリア・テレジアと
フランツ・シュテファンが結婚式を挙げた
意外に地味なこの教会だ。

P7179538s

【ウィーン市拡張計画】1857年
ウィーンの外壁を取り壊す
ウィーン市拡張計画を発表。
ここに書いた通り、城壁を取り壊し
リンク通りを作って町を広げる
壮大な町づくりがスタートする。

P7179682s

【弟(メキシコ皇帝)、処刑される】1867年
弟のメキシコ皇帝
マクシミリアン1世が反乱軍に
捕らえられて処刑された。

P7179710s

【息子ルドルフ、情死】1889年
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死。

P7179624s

【妻エリーザベト、暗殺される】1898年
最愛の妻エリーザベトが
ジュネーヴで無政府主義者に暗殺される。

P7179609s

【甥(王位継承者)、暗殺される】1914年
王位継承者に指名した
甥のフェルディナント大公
サライェヴォで暗殺される。

P7179676s

【死去】1916年
第一次世界大戦の最中に死去。享年86。

P7179612s

【君主国崩壊】1918年
ヨーゼフ1世の死の2年後、
650年続いた「ハプスブルク君主国」
は崩壊する。

P7179627s

「皇帝の部屋」を巡ると
「護衛官の部屋」、
「謁見の控室」、「謁見の間」、
「会議室」、「執務室」、
「寝室」、「サロン」などを
見ることができる。

P7179680s

オーディオガイドによると
彼は毎日早起きをして
多くの書類に目を通し、
週2回、午前中に人々と謁見したらしい。
その数およそ100人。
ひとり2~3分というのが原則だったとか。

皇帝は立ったまま謁見に臨んだので、
その際使われていた「高い」書見台も
見ることができる。

P7179689s

最初に書いた通り、
写真は撮れなかったので
文字での説明ばかりになってしまったが、
愛するものを次々と失いながら
皇帝を全うせざるを得なかった
フランツ・ヨーゼフ1世の姿が見えてくる。

常に軍服を身につけて
執務にあたっていたせいか、
肖像画は軍服姿のものが多い。

棒年表を書いてみると
「愛するものを次々と失いながら」が
より鮮明になる。

Joseph1

* 棒左端の数字は生年
* 棒の色
    0 -20歳 緑
    20-40歳 青
    40-60歳 黄
    60歳以上 紫
* 棒右端の数字は享年
    (死んだときの満年齢)

 

 

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2018年9月16日 (日)

オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

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オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

- 胃袋を掴め -

 

マリア・テレジアの 初回
スペイン乗馬学校を紹介した。

王宮内にある室内馬場は、
「馬場」とはいえ
2層のバルコニー席で囲まれた
シャンデリアの下がる
優雅な空間だ。

P7179571s

ここを「馬場」ではなく、
別な用途に使っていた時期がある。

フランス革命とナポレオン戦争という
ヨーロッパ大混乱ののち、
秩序の再建と領土分割を目的として
開催されたウィーン会議(1814-1815)

この長い会議の期間中、
舞踏会場として使われたのが、
この室内馬場だ。

有名な
「会議は踊る、されど進まず」
と言われたまさに「踊る」の会場。

このウィーン会議、

青木ゆり子 (著)
日本の洋食:
洋食から紐解く日本の歴史と文化
(シリーズ・ニッポン再発見)
ミネルヴァ書房

(以下水色部、本からの引用)

を読んでいたら
フランス料理との関係
たいへん興味深い記述があった。

街歩きの際に撮ったスナップ写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
今日は料理の話を紹介したい。

P7179711s

 

最初に簡単に、
フランスとフランス料理の関係を
見ておこう。

フランス料理と呼ばれる今の料理は
フランスの伝統的な料理
というわけではない。

【イタリアからやってきた
 フランス料理】

フランス料理は現在、
ヨーロッパをはじめ、
日本を含む世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐
として
採用されています。

しかし、
16世紀までのフランスは
貴族でさえ手づかみで
がつがつと食事するような
野暮なマナーしかない国でした。

ナイフ・フォークを使った食事など
洗練された食事作法が
取り入れられたのは、
国王アンリ2世のもとに
イタリアから嫁いだ
カトリーヌ・ド・メディシスと
その専属料理人が
フランス王室に
やってきてからの
ことです。

P7159108s

 

そんな
フランスの王宮でのみ供されていた
特別な料理が
フランスの街の中に広がっていくのには
歴史的な「あのできごと」が
大きなきっかけになった。

【料理が広がるきっかけ】

その後、1789年に勃発した
フランス革命によって
王宮を追われた料理人たちが
街に出てレストランを開き

フランス料理は
18世紀から19世紀にかけて
彼らの活躍で
その質がめざましく向上しました。

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フランス革命による
「王宮を追われた料理人たち」によって
フランスの街に広がり始めた
「フランス料理」。

そして1815年、
ウィーン会議が開催される。

【ウィーン会議】

フランス料理が∃-ロッパで一躍、
脚光を浴びる出来事が起こりました


1815年から1816年にかけて
オーストリア帝国の首都
ウィーンで開催された
「ウィーン会議」です。

 フランス革命後に
軍事独裁政権を樹立した
ナポレオン・ボナパルトは、
ナポレオン戦争によって
一時期∃-ロッパ大陸の
ほとんどを征服しましたが、
結局、失敗して失脚。

その結果
ヨーロッパの国境はスタズタになり、
戦後処理を話し合うために

フランスと、
∃-ロッパ列強国だったイギリスや
ロシア、プロイセン、
オーストリアらの代表が
集ったのが
この国際会議の目的でした。

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約1年におよぶ会議の期間中、
フランスの外交官の
お抱え料理人が大活躍する。

【敗戦国の宴会戦術】

フランスからは外交官
シャルル・モーリス・ド・
タレーラン・べリゴールが出席し、
会議期間中にしばしばお抱え料理人の
アントナン・カレームの手による
夕食会を開催
して各国の有力者を
もてなしました。

カレームは貧民街で育ち、
パリの菓子店で働いているところを
美食家のタレーランに
腕を見込まれた人で、
その卓越した料理は客人を魅了。

「会議は踊る、されど進まず」
といわれ、
各国の思惑が飛び交いながら
1年にもわたって続いた
ウィーン会議ですが、
この宴会戦術を使った
タレーランの巧みな外交によって、
フランスは
敗戦国の立場だったにもかかわらず、
戦勝国に要求を呑ませることができた

というエピソードが残っています。

P7158944s

 

具体的に、料理の力が
単独でどれほどのものであったのかは
もちろん明確にしようがないが、
たいへん興味深いエピソードだ。

まさに胃袋を掴まれた、ということだろう。

いずにせよ、
主要国の代表が集まっている以上
その影響力は計り知れない。

実際、料理人カレームは、その後

ロシア帝国のアレクサンドル1世や
イギリス王室のジョージ4世らの
依頼を受けて料理人を務め、
フランス料理が西洋料理を
代表する存在
に導いたのです。

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フランス料理が世界に広がり、
そして、世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐になっていく背景には
こんなきっかけがあったのだ。

 

 

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2018年9月 9日 (日)

オーストリア旅行記 (55) マリア・テレジア(4)

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オーストリア旅行記 (55) マリア・テレジア(4)

- 義務教育と多文化の混在 -

 

シェーンブルン宮殿の庭園の一番奥、
丘の上のグロリエッテまで来たので、
ゆっくり丘を降りながら、
もう少し庭を散策したい。

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庭は、200haにもおよぶ
イギリス式とフランス式が
混在した美しいものだが、

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木々の刈り込みに
思わずシャッターを切ってしまった。

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平面すぎるでしょ。

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宮殿の
「マリア・テレジア・イエロー」が美しい。

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庭の一角には、
植物園と動物園がある。

植物園のこの建物は1882年に完成した
ヨーロッパ大陸で最大の温室。

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こちらの刈り込みも特徴がある。

P7169323s

 

植物園の方は静かだったが、
動物園の方は、多くの人で賑わっていた。
この動物園、1754年に作られた
世界最古の動物園
だ。

P7169315s

創ったのは、マリア・テレジアの夫、
フランツ・シュテファン。

シマウマやフラミンゴなど、
当時のウィーンの人々が
見たことがなかったような動物を
インド、アフリカ、南アメリカからも
集めていたという。

そういえば、ウィーン自然史博物館
のところでも書いた通り、
自然史博物館もベースは
フランツ・シュテファンの
コレクションだった。

改めて自身の鉱物コレクションを見る
フランツ・シュテファンの絵を
貼っておきたい。(絵葉書で購入したもの)
壁一面コレクションで埋め尽くされている。

Natur3s

 

マリア・テレジアが君主として残したものは
これまでの記事に書いたような、
* 強い軍隊を作るための士官学校 や
* 民族や身分にとらわれず
  有能な人材を重用する制度
 や、
* 壮大な大改造を施した
  シェーンブルン宮殿
だけではない。

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* 教育と書籍の検閲を
  教会(イエズス会)から解き放し、
  自然科学が急成長していた
  イギリスやフランスからの本が、
  ウィーンに多く
  入ってくるようにしたり、

【ウィーン イエズス会教会】

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* 君主の権限が及ばない
  貴族の力を削いで、
  安定した税制を導入したり、

その改革の範囲は多岐にわたる。

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その中でも、ぜひ書いておきたいのは、
イギリスよりも早く実現した
義務教育制度の確立だ。

「すべての地方、
 すべての階級の子どもたちに教育を」

と全土に均一の小学校を新設。
金持ちの子どもだけでなく、
すべての子どもたちが教育を受ける
ことができるようになった。

さらに注目すべきは教科書。

軍隊とは違って、
こちらはドイツ語を強制はしなかった。

10以上の言語で教科書を用意
商人の子どもも農民の子どもも
皆、自分たちの言葉で
教育を受けることができた。
その上で、
外国語教育も視野に入れていた。

若者たちの教育は
 国の幸福の源(みなもと)です


とも語っていたという。

 

ここに書いた通り、
シェーンブルン宮殿の中を歩くと
内装の豪華さ以上に
文化の多彩さに驚く。

欧州各地方の風俗に限らず、
中国ありインドあり・・・。

一番大きなメインの広間
「大ギャラリー」の天井画には、
中央のフランツ・シュテファン、
マリア・テレジア夫妻を囲むように
フランドル地方の海上貿易、
ボヘミア貴族の狩猟、
ハンガリーの牧畜、
オーストリア・
ザルツカンマーグートの岩塩、
イタリア・トスカーナ地方のワイン造り、
ミラノの絹織物
などの様子が描かれている。
民族の多様性を尊重していたことの
証とも言えるだろう。

同君連合国家の形態を
伝統的にとってきたとはいえ、

ウィーンで食べる料理が、
ハンガリだったり、
ルーマニアだったり、
バルカン地方だったり、
セリビアだったり、
スペインだったり、
ボヘミアだったりと
その起源が多岐に渡ることも
様々な文化を受け入れてきた
歴史を物語っている。

音楽だけではなく
多様な文化を受け入れる器として
ウィーンを「豊かな」都に
発展させていったマリア・テレジア。

これら君主としての活躍が
16人もの子どもを生みながら
成し遂げられていったことも
最後に記しておきたい。

 

 

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2018年9月 2日 (日)

オーストリア旅行記 (54) マリア・テレジア(3)

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オーストリア旅行記 (54) マリア・テレジア(3)

- シェーンブルン宮殿 -

 

軍隊を強化する一方で、
「スペクタクルが必要だ」と言っていた
マリア・テレジアは、
一大事業、シェーンブルン宮殿の
大改造に着手する。

ウィーン観光の目玉のひとつ、
今日はシェーンブルン宮殿を訪ねたい。

【シェーンブルン宮殿】

P7169211s

門を入ると、真正面に
壮大な黄色い建物が広がっている。

シェーンブルンとは
「美しい泉」という意味
で、
17世紀初頭、マティアス皇帝が
当時この地にあった狩りの城の森で
美しい泉を発見したことに由来している。

狩りの城はのちに
トルコ軍に破壊されてしまったため、
レオポルト1世の時代、1696年に
「フランスの
 ヴェルサイユ宮殿をしのぐものを」
と新しい城の建設工事が始まった。

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宮殿前広場も広々としている。

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宮殿の設計は
オーストリア・バロック最大の建築家
フィッシャー・フォン・エルラッハ。

婚礼のお祝いにこの城をもらった
マリア・テレジアは、
さらなる本格的な大改造に着手する。

工事はエルラッハ亡き後も続き、
18世紀半ば
マリア・テレジアの時代にその完成をみる


彼女の大改造の結果、完成したときは
1,441室の大宮殿になっていた。

中心から左右に翼を広げた宮殿は180m、
外壁の色は
マリア・テレジアの黄色とよばれる
高貴な色に塗られている。

のちに庭園側から撮った写真を
先行して一枚貼ってしまおう。

P7169246s

 

1,441室ある宮殿内部も、
その一部は一般に公開されているので、
音声ガイドを聞きながら
一部屋づつ丁寧に回ることができるのだが、
残念ながらここも部屋は写真撮影禁止。

印象に残った部屋のメモを
並べただけでも・・・

フランツ・ヨーゼフが人々と会っていた
高価なクルミ木材を使用した
「クルミの間」

フランツ・∃-ゼフが息を引き取った
質素な「寝室」

長い髪が濡れるのを防ぐ
ヘアーハンガーと呼ばれる輪が
壁に取り付けられている
「エリーザベトの浴室」

幼いモーツァルトが
マリア・テレジアの前で
ピアノを弾いた「鏡の間」

演奏会は大成功だったという。

幅10m、長さ40mの大ホールで、
マリア・テレジア時代に
祝典行事用広間になった
「大ギャラリー」

小さな宴会が催された部屋だが、
豪華さでは光っている
「小ギャラリー」

燭台用の青い陶器が美しい
「中国の丸い小部屋

19世紀、宮廷将軍たちの食堂だった
「馬の間

中国趣味で青の色彩が美しい
「青の中国サロン」

寄木張りの床と
漆の板張り壁が豪華で
未亡人となったマリア・テレジアが
おもに住んでいた「漆の間」

ナポレオンが
ウィーンを征服したときに使っていた
「ナポレオンの部屋」
時の皇帝フランツ1世は、
娘のマリー・ルイーズを
ナポレオンと結婚させた。
その息子ライヒシュタット公爵は
ナポレオン失脚後、
幽閉されるようにこの部屋で暮らし、
21歳で病死した。

無数のインド細密画が壁にはめ込まれた
ローズウッドの重厚な壁が印象的な
総工費が当時の通貨で
100万グルデンかかったという
「百万の間」

1830年にフランツ・ヨーゼフが生まれた
「寝室」
マリア・テレジアも使用した
天蓋付きベッドがある。

細かいことはともかく、
特定の地域や文化ばかりに偏っていない
「多彩さ」が特に強く印象に残る

 

宮殿内の写真は撮れなかったが、
外はもちろんOK。
まずは美しい庭を少し散策してみよう。

P7169233s

中央正面の噴水を目指す。

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振り返ると宮殿が正面に。

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花々も手入れが行き届いていて美しい。

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噴水を越えて、
シェーンブルンの丘の上に建つ
「グロリエッテ」を目指す。

緩やかに丘を登る。

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だんだん角度が変わってくる。

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途中には大きな池も。

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芝生に寝転がって、
のんびりしている人も多い。

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少し高い位置に来たので、
前方右側遠方にはウィーン市街地、
シュテファン大聖堂の塔も小さく見える。

丘の一番上、
「グロリエッテ」に到着。

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全体の長さ135m、高さ26m、幅15m。
1757年に、プロイセン勝利と
戦没者慰霊のために建てられた
ギリシャ建築の記念碑。

距離感を伝えることは難しいが、
このグロリエッテを
宮殿から見るとこんな感じ。

P7169339s

真正面、丘の上に
小さく見えるのがグロリエッテ。

庭の広さが多少は伝わるだろうか?
距離感、規模感が麻痺してしまう
広くて美しい庭だ。

 

 

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