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2018年8月

2018年8月26日 (日)

オーストリア旅行記 (53) マリア・テレジア(2)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (53) マリア・テレジア(2)

- 「民族」寄せ集めの軍隊 -

 

前回
「スペイン乗馬学校」を紹介したが、
男性ばかりの騎手の中、
女帝と言われた
マリア・テレジアが、
実は馬も乗りこなしていた、
という話までを書いた。

そのことが大きな意味を持つ、
そのエピソードを始める前に、
時代を少し前に戻してみたい。

【アウグスティーナ教会】

P7179536s

ハプスブルク家の洗礼を担う
王宮内にあるこの教会。
華美な装飾がなく、
「意外に地味」が入った時の第一印象。

 

この教会で、1736年、
カール6世の長女マリア・テレジア
ロートリンゲン、ロレーヌ公の次男
フランツ1世と結婚式を挙げた。

P7179538s

 

マリア・テレジア 18歳
フランツ1世シュテファン 27歳

P7179539s

マリア・テレジアは、
6歳でシュテファンに出会い、
婚約が決まっていたとはいうものの、
当時の王室としては異例の
恋愛結婚
だった。

P7179541s

マリア・テレジアの父カール6世は、
早くから後継者問題に悩んでいた。
男子に恵まれていなかったからだ。

そこで、ある決断を下す。
ハプスブルク家領の
女子の相続を認める詔書を
発布することにしたのだ。
そして、
マリア・テレジアが結婚する時点では、
その内容を欧州主要国に認めさせていた。

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そんな父カールが
マリア・テレジア結婚のわずか4年後、
1740年に死去してしまう。

詔書に基づき
女性ながら、かつ23歳で
君主とならざるを得なくなった
マリア・テレジア

P7179545s

(アウグスティーナ教会内には
 ピラミッド型の大理石彫刻が見事な
 マリア・テレジアの娘
 【マリー・クリスティーナの墓碑】
 もある)

P7179548s

君主とはなったものの、
マリア・テレジアは
帝王学も学んでおらず、
欧州各国の嘲笑の的となってしまう。

そしてこれをハプスブルク勢力弱体化の
絶好の機会とみた対立国が動きだす。

「もはやハプスブルクは存在しない」

先の詔書を無視し、
オーストリア周辺国は、
オーストリア継承戦争へと
突入
していったのだ。

 

そのころ、
マリア・テレジアは
ハンガリのブラチスラバに向かっていた。

ハンガリはまだ、
継承戦争に参戦していなかったのだ。

伝統的に
馬を鍛えた強い軍隊を持つハンガリ


当時、ハンガリ君主は
ハプスブルク君主が兼任していたため、
マリア・テレジアは
ハンガリの聖マルティン教会で
戴冠式を執り行う

 

そしてそのあと、
彼女は驚くべき行動に出る。

皆が集まった街の広場に
なんと馬に乗って再登場したのだ。

そこで、後ろ足で馬を立たす技を披露。
サーベルを四方にかかげ
「ハンガリを守る」をアピールした。

続けて議会では
「今こそ戦わねば」と声をあげた。

彼女の馬術に心を掴まれたハンガリ市民は、
「われらの女王、マリア・テレジア」
と叫んだと言う。

これらのパフォーマンスが功を奏し、
ついにハンガリの参戦が決まる。

馬への思いが強いハンガリの民の心を
馬を乗りこなすことによって
しっかりと掴んだマリア・テレジア

 

ハンガリの参戦を得て、
ボヘミアの奪還に成功した彼女は、
今度は、ウィーンの街を
馬に乗ってパレードした。

名馬リピッツァナーに乗って、
パレードの先頭を行くマリア・テレジア。

それでも、最終的に
どうしても奪還したかった
シュレージェンを
取り返すことはできなかった。

 

軍隊を強くする必要性
痛感したマリア・テレジア。

なぜ、強くなれなかったのか?

 

旧陸軍省の建物を訪問してみた。

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壁面には、
多くの兵士の頭部が
彫刻で並んでいる。

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ちょっと気をつけて
各頭部を見比べてみてほしい。

P7159150s

よく見ると、
服装も帽子もヒゲもすべてバラバラ。

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比較しやすいように、
頭部だけを4枚集めてみた。

Hei1s

まったく統一感がない。
「民族の寄せ集め」の軍隊だったことが
よくわかる


もちろん言語もバラバラ、
双頭の鷲のもととはいえ、
全体としてひとつにまとまることは
きわめて難しかった。

P7159157s

 2007年放送 NHKハイビジョン特集
 シリーズ ハプスブルク帝国 
 第2回「女帝マリア・テレジア」


の中では、
ドイツ語、ハンガリ語、
イタリア語、チェコ語、
ポーランド語、スロバキア語
などが同じ軍隊の中で使われていた、と
現在の軍事学校の教官が
インタビューに答えていた。

P7159153s

そこで、マリア・テレジアは、
軍隊を強くするために
士官学校を設立
する。

そこでは、・・・

(1) 命令はドイツ語に統一
  命令に合わせてドラムを打つなど、
  指示系統を統一。

(2) 体罰を禁止し、
  高潔な兵士の育成を目指す。

(3) マリア・テレジア勲章を授与。
  指揮官を明示し、
  民族や身分にとらわれず
  有能な人材を重用

  勲章を授与されると
  貴族として宮廷に出入りすることもできた。

(4) 「乗馬」を必須科目に。
  馬術の習得はもちろん
  ボディランゲージによる
  馬とのコミュニケーション

  異民族間での人同士の
  コミュニケーションにも役立った。

などの姿勢を明確にし、
着実に成果をあげていった。

君主として次第に民衆の支持を
集めるようになるマリア・テレジア。

そして彼女は、
ついにあの大改造に着手する。

続きは次回に。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年8月19日 (日)

オーストリア旅行記 (52) マリア・テレジア(1)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (52) マリア・テレジア(1)

- スペイン乗馬学校 -

 

本記事で52回目となる
オーストリア旅行記。

ここ数回は、
ハプスブルク家の人々から、

* ルドルフ1世
 (生没:1218年-1291年)

* マクシミリアン1世
 (生没:1459年-1519年)

* カール5世
 (生没:1500年-1558年)

* フェリペ2世(スペイン王)
 (生没:1527年-1598年)

らを採りあげ、
大きく歴史を振り返ってきたが、
旅行中に撮った写真を挿絵代わりに
使ってきたものの、
本文が写真の説明にはなっておらず、
「旅行記」というタイトルからは
少し離れた記事が続いてしまっていた。

今日からは

* マリア・テレジア
 (生没:1717年-1780年)

について書きたいと思っているのだが、
彼女については、うれしいことに
訪問先と直接関連している
トピックスが多い。

関連する訪問先の写真を
積極的に使いながら、
「女帝」と呼ばれた君主の
足跡を追ってみたい。

 

まず、彼女が生きた時代、18世紀。
日本では江戸時代中期。
享保の大飢饉があり、
8代将軍吉宗、田沼意次らが
活躍したころ、ということになる。

エピソードには事欠かない人物ゆえ、
これまで参照してきた参考図書をはじめ、
多くの本に様々なエピソードが
紹介されているが、
いろいろ調べた中では、

2007年放送 NHKハイビジョン特集
シリーズ ハプスブルク帝国 
第2回「女帝マリア・テレジア」


がたいへんよくまとまっていた。
この番組を参考に、
訪問先の写真を交えながら、
話を進めていきたいと思う。

「今日からは」と書いた通り、
とても一回では終わらないボリュームだが、
興味のある部分だけでも、
のんびりお付き合いいただければと
思っている。

 

さて、マリア・テレジアに関して
最初に採りあげたいのは、
この乗馬学校。

【スペイン乗馬学校】
乗馬学校だが、
場所はなんと王宮の中!

P7159104s

厩舎もすぐお隣。

なにも知らないと
馬がそこまで丁寧に、というか
大事にされていること自体に
ちょっと驚いてしまうが、
もちろんそれには
それなりの背景がある。

この乗馬学校は、1572年の創設。
世界で最も古い乗馬学校
だ。

当時、スペイン種の強靭な馬を
導入したことから
「スペイン」の名があるが、
その後、
スペイン、イタリアの名馬を
トリエステ近郊のリピッツァで交配、
古典馬術に最も適した気高い白馬
「リピッツァナー(Lipizzaner)種」

を誕生させた。

この馬を使った古典馬術は、
伝統と共に今もしっかり引継がれており、
ユネスコ無形文化遺産にも
登録されている。

調教された馬の高度なテクニックは、
本公演や調教見学として公開されており、
だれでも見ることができるようなのだが、
今回は残念ながら公開プログラムと
我々の旅程が合わなかったため、
乗馬学校の見学ツアーにのみ
参加することにした。

「学校」を見学するだけで、
馬の演技が見られるわけでもないのに、
観光客には大人気で
チケット売り場はかなり混んでいた。
(チケットを買う際、
「今日のこのコースでは馬の演技は
 見られないけれどOKですか」
 と何度も何度も確認された。
 演技を期待して、のトラブルが
 きっとあるのだろう)

チケットを買うと、
15人程度がひとグループとなり、
ガイドさんに付いて
学校内を歩くことになる。

日本語のガイドさんはいなかったので、
英語のガイドさんのグループに合流した。

「学校内の写真は基本的にOKだが、
 厩舎内(馬のそば)は撮影禁止」
との注意事項の説明からスタート。

最初に見たのは、
王宮内にある周回コース。

何頭かが、
ゆっくり周回コースを歩いている。

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古典馬術に適した馬が誕生した由来
馬術における、
馬と騎手との信頼関係の重要性
毎年開かれる馬術コンテストで競われる
高度な演技のポイント
コンテストにかける騎手たちの思い
などなど、
ひとつひとつ丁寧に説明してくれる。

後ろ足立ちなど、
コンテスト上位入賞者の
写真が並ぶエリアもある。

P7179555s

 

ひととおりの説明が終わると
歩いて厩舎のほうに向かった。
幅の狭い道を渡るものの
まさに王宮に隣接した位置にある。

外から見るとこんな感じの厩舎だ。

P7179560s

ずらりと並ぶ白い煙突にご注目あれ。

冬は寒いウィーン。
馬用の暖をとるための煙突だ。

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厩舎内での馬の撮影は禁止されていたので
写真を撮ることはできなかったが、
一頭一頭大事にされていることは、
厩舎内をちょっと歩いてみただけでも
よくわかる。

馬具が管理されている部屋もある。
馬具だけなのに妙に美しい。

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そういえば、
「エルメス」だって「グッチ」だって
もともとは馬具メーカだ。

 

外から撮った厩舎の馬。
白い背中が
少し見えるだろうか?

P7179568s

 

その後再度、
王宮内の乗馬学校部分に移動。

最初に書いた通り、
今回の内部ツアーでは
馬の演技を見ることはできなかったのだが、
この乗馬学校の見どころは
なんと言ってもこの「室内馬場」。

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王宮の中にあり、
本公演ではシャンデリアの明かりのもと、
ワルツにのった
名馬の優雅なステップが披露される。

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話を最初に戻そう。
このスペイン乗馬学校と
マリア・テレジアには
いったいどんな関係があるのか?

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優雅な室内馬場は、
マリア・テレジアの父
カール6世の時代に
建てられたものだが、
単なる時代的な重なりを
言いたいわけではない。

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乗馬学校の騎手は
男性に限られている。
ところが、実は女性でただひとり、
馬を乗りこなした人がいる。

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その人こそ
ハプスブルク家唯一の女性君主
女帝と呼ばれたマリア・テレジアなのだ。

P7179592s

ここで練習を重ね
馬を乗りこなしたことで、
彼女は大きな力を得ることになる。
それは誰のどんな力か?

この話、次回に続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年8月12日 (日)

オーストリア旅行記 (51) フェリペ2世<スペイン王>(2)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (51) フェリペ2世<スペイン王>(2)

- 的中!ノストラダムスの大予言 -

 

世継ぎを生むことが叶わなかった
2人目の妻メアリの待つイングランドに
1年3ヶ月ぶりに帰ってきたフェリペ2世。

このころから
彼のヒール(悪役)的特徴が
鮮明になってゆく。

これが前回の最後。
この続きから始めたい。

これまで同様、参考図書は
この2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

今日も美術史博物館で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7169415s

 

フェリペ2世が1年3ヶ月ぶりに
イングランドに戻った理由は?

彼がもどったのは
何も妻に会いたいからではなく、
彼女の自分への愛情を利用して、
対フランス戦での
資金援助をあおぐため
にすぎない。

その後、前回書いた腫瘍が原因で
メアリは息を引き取ることになるのだが、
フェリペ2世は
メアリの葬儀にさえ出席しなかった。
しかも、内々に打診していた
イギリス女王との結婚が
失敗に終わると、
今度は変わり身早く
仇敵フランスに近づいていったのだ。

P7169432s

 

そして3度目の結婚を迎える。

【3度目の結婚】

アンリ二世と講和を結び、ついでに
彼の娘エリザベートとの婚姻も決める
という、みごとな離れ業で、
イングランドの鼻をあかす。

だが、ここでもまた流血沙汰が
ついてまわった。

彼は、当時のしきたりに従い、
スペイン側としては
フェリペの代理人をたて、
フランスでエリザベートとの挙式
を行なった。

P7169427s

 

【的中!ノストラダムスの大予言】

その席上、
フェリペの舅となるアンリ二世が、
自ら馬上槍試合に参加した。

 あまりに有名な
ノストラダムスの予言
的中例としてあげられる
のが、
この寿ぎの場で起こった
恐ろしい事故である。

 ノストラダムスの詩文に曰く、

若き獅子は人に打ち勝たん
 戦のにて一騎打ちのすえ
 黄を抉(えぐ)りぬかん
 傷はふたつ、
 さらに酷き死を死なん」。

 馬上試合の「庭」で
「一騎打ち」の最中、
「若い」対戦相手の槍が折れ、
「老」アンリの「金」の
「兜」(=檻)を貫いて 
「眼」に突き刺さったのだ。

王は九日聞苦しみぬいたあげく、
「酷き死」を迎えた。

 これがフェリペ三度日の結婚の、
縁起でもないスタートであった。

200万部以上が売れた大ベストセラー、
五島勉さんの著書
『ノストラダムスの大予言』が
日本で出版されたのは1973年なので、
日本での最初のブームを知っているのは、
50代も後半以上の方ということに
なるだろうか。

ただ、その中では、
「人類滅亡」にまで触れられており
「1999年 7の月に恐怖の大王が来るだろう」
との記述になっていたので、
実際の1999年の記憶がある
30代以上の方であれば
聞いたことがあるのではないだろうか、
「ノストラダムスの大予言」

P7169428s

 

閑話休題。
縁起でもないスタートとなった
32歳の花婿と14歳の花嫁のカップルは
はたして幸せになれたのだろうか?

実はエリザベートは
生まれてまもなく、
フェリペの息子
カルロス(彼女と同年齢)と
婚約していた。

国家間の政略上
よくあることとはいえ、
フェリペは息子の婚約者を
奪った
ことになる。

しかも
カルロスとエリザベートは
この9年後、23歳で、
相次ぎ間をおかず死去してしまう。

P7169429s

 

【オペラ「ドン・カルロ」】

ヴェルディのオペラ
『ドン・カルロ』も、
この黒い伝説をもとにしている


相思相愛だった
エリザベートとカルロスが、
「老王」フェリペに
仲を引き裂かれた悲恋を縦糸に、
横糸には、
当時独立運動が盛んだった
ネーデルランドを支持したカルロスが、
けっきょくはフェリペに邪魔されて
死に至るというストーリーだ。

実際のカルロスも
父に反逆して
ネーデルランドヘ行こうとし、
逮捕監禁され、自殺未遂のあげく、
半年後、牢内で病死している。

そしてそのたった2ヶ月後、
エリザベートが男児を早産。
まるでカルロスの呪いのように、
そのまま母子ともに死去してしまう。

結局、娘ふたりを残しただけだった

話は続く。

フェリペは
彼らを亡くした同年のうちに、
四人目の妻を迎える。

P7169431s

 

【4度目の結婚】

今度の相手は
健康で多産でなければならない。
多産というなら、
十人も子を産んだ自分の妹だ、
というわけで、
現代人には受け入れがたい
叔父姪結婚、
正確には、従兄と実妹との間にできた
娘アナを妻にした。

大変な血の濃さ。

おそらくそのせいと思われるが、
アナは多産ではあったが、
生まれた子は次々夭逝し、
けっきょく
息子ひとり(フェリペ三世となる)を
残して
12年後に、
やはり産褥で亡くなった。

フェリペ53歳。またも独り身
ようやく息子を得て
もう結婚は考えていなかったのだろうか。


P7169430s

 

それとも噂どおり、
スコットランド女王
メアリ・スチュアート

次の視野に入れていたのだろうか? 


幽閉中のメアリにフェリペが密かに
コンタクトを取ったせいで、
彼女は謀反人として
エリザベスから首を
刎(は)ねられてしまう

「スペインが動けば世界は震える」
と言われていたが、
間違いなく
フェリペが動けば血が流れた
のだった。

1500年代後半、
日本では戦国時代のころのことだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年8月 5日 (日)

オーストリア旅行記 (50) フェリペ2世<スペイン王>(1)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (50) フェリペ2世<スペイン王>(1)

- カクテル名「ブラッディ・メアリー」の由来 -

 

ハプスブルク帝国の歴史を

(1) ルドルフ1世
  (生没:1218年-1291年)

(2) マクシミリアン1世
  (生没:1459年-1519年)

(3) カール5世
  (生没:1500年-1558年)

で振り返ってきたが、
今日取り上げたいのは、
フェリペ2世(スペイン王)
(生没:1527年-1598年)


スペイン帝国の絶頂期、
ヨーロッパ、中南米、
アジアもフィリピンにまで及ぶ
大帝国を支配。
さらにポルトガル国王も兼ね、
ポルトガルが有していた植民地も継承。

「太陽の沈まない帝国」と言われた
スペイン黄金期に君臨した
偉大なる王だ。

これまで同様この2冊を参考図書に
見ていきたい。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

挿絵代わりに挿入する写真は、
美術史博物館で撮ったもの。

P7169423s

 

【流血のイメージ、フェリペ2世】

フェリペ2世が君臨したのは
スペイン黄金時代である。

だがその黄金は、
インカ帝国などでの略奪
ネーデルランドの
弾圧によって得た富であり、
血の匂い
たっぷり沁(し)みこんでいた。

おまけに絶えざる陰謀、
反乱、宗教戦争、
異端審問、ペストと、
この絶対君主の生涯は

(中略)

結婚にさえ、どこかしら
流血のイメージが
纏(まと)わりついている


四度の結婚で、それぞれ
ポルトガル、イングランド、
フランス、オーストリアから
妻を迎え、全員に先立たれた
というだけではない。

加えて
プロテスタント虐殺、事故死、
息子殺し
、などなど
まさに激動の人生を送っている。

P7169408s

 

最初の結婚から順に見ていこう。

【最初の結婚】

 最初の結婚は16歳
相手は同じ年齢のポルトガル王女で、
父方からも母方からも従妹にあたる。

ハプスブルクの
少し垂れ下がった下唇を持つ
ほがらかな彼女は、
口数の少ない社交下手の
フェリペ皇太子に
若々しい喜びを与えたようだ。

ただし幸せは二年に満たず、
難産の数日後には
あっけなく世を去ってしまった。

18歳でやもめとなった
フェリペの手には、
ひ弱な息子が残された。

祖父の名にちなみ、
カルロスと名づけられたこの子が、
後世、ヴェルディの傑作オペラ
『ドン・カルロ』のモデル
となる。

たった二年で終わった一度目の結婚。
ひとり残されたひ弱な息子。

二度目の結婚は父の命令だった。

P7169412s

 

【2度目の結婚】

 二度目は27歳のとき。
相手は11歳も年上の
イングランド女王メアリー1世
で、
これは父カール5世の命令だから
皇太子に否も応もない。

カトリック対プロテスタントの抗争が
再燃し始めたイングランドを、
しっかりカトリック化する
使命
を担ったのだ。

P7169414s

契約でイングランドに渡った
フェリペだったが、メアリーは
フェリペの意を汲み、
プロテスタントの反乱者
数百人をすでに血祭りにあげていた


後世、カクテルの名前になる
ブラッディ・メアリー
 (血まみれメアリー)

はこのエピソードに由来する。

よくこんな恐ろしい名前を
カクテルの名前につけたものだ。
単なる見た目だけによる命名ではなく
史実に繋がる背景があったかと思うと
トマトジュースベースとは言え、
もう冷静には味わえない気がする。

両親の離婚、幽閉、栄養失調、など、
多くの苦労を経験していたメアリーは、
病弱で痩せこけていたが、
世継ぎを産みたいとの執念だけは
強かった。

なので、訪れた「懐妊か?」の兆候には
大喜びしたようだが、
実際には残念なことに想像妊娠だった。
しかも、腹部の膨張は腫瘍
これがのちの命取りにまで
なってしまう。

 フェリペは
一見変わらぬ態度を示したが、
四十近いメアリーに
子を成すのはもう不可能と
見切り
をつけたらしい。

父の退位宣言を口実に、
滞在一年半足らずで
イングランドを去る。

メアリーは心のこもった手紙を
送り続け、帰国を待ち続けたが、
スペイン王フェリペ2世として
改めて彼がその姿を現したのは、
1年3カ月も後のことだった。

世継ぎを生むことが叶わなかった
2人目の妻メアリーの待つイングランドに
1年3ヶ月ぶりに帰ってきたフェリペ2世。

このころから
彼のヒール(悪役)的特徴が
鮮明になってゆく。

 

少し長くなってきたので、
激動という言葉がふさわしい
彼の人生の後半の話は、
次回にしたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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