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2018年7月29日 (日)

オーストリア旅行記 (49) カール5世

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オーストリア旅行記 (49) カール5世

- 70の肩書の意味 -

 

というわけで(?)、今日は
マクシミリアン1世の孫
カール5世
(生没:1500年-1558年)

について書きたいと思う。

日本では室町時代後半、
と言うかちょうど戦国時代。
 1534年 織田信長 誕生
 1536年 豊臣秀吉 誕生
 1542年 徳川家康 誕生
 1553-64年 川中島の戦い
といったころ。

参考図書は
これまで通り以下の2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

今日も美術史博物館で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7169398s

 

さぁ、始めよう。

カール5世こそ、
ハプスブルク家絶頂期の皇帝だ。

その支配領域を
上記の本[1]にあった図で見てみよう。

Karl5

フィリピン、オーストリア、
ネーデルラント、スペイン、
メキシコ、キューバ、ペルーと
まさに「日の沈まない帝国」は
誇張ではない。

まず最初、ややこしい名前について。

 日本人にとって
他国の王侯貴族の称号や名前は、
発音も絡み、非常にわかりにくい。

カール5世の場合、特にそうだ。
カールとカルロスが同源だろうとは
想像できても、
カール5世とカルロス1世が
同一人物
と聞いただけで、
世界史が嫌になった人も
多いのではないだろうか。

どうして
こういうことになるかと言えば、
ひとえに領土が広大
(欧州の3分の2と中南米を支配)
だからだ。

再度、最初に貼った地図を見ると
「領土が広大」の意味がよくわかる。

 

 彼は父フイリップ美公を継いだので
ブルゴーニュ公であり、

母方の祖父を継いで
スペイン王でもあり、

父方の祖父マクシミリアン1世を継いで
ドイツ王でもあり、

ローマ王でもあり、
ハンガリー王でもあり・・・と、
ヨーロッパ史上最多の
70もの肩書きを持った


そこで、
神聖ローマ帝国皇帝としては
カール5世、
スペイン王としては
カルロス1世

(後に玄孫がカルロス2世を名のる)
という次第。

P7169399s

 

70もの肩書。それは
単なる仰々(ぎょうぎょう)しさや
権威の誇張のためではなく、
多民族国家の統治に関する
大事な点を示していることを
[1]はわかりやすく説明してくれている。

 このような称号・肩書の羅列に
どのような意味があるのかは、
にわかには判じがたい。

しかし、こうした
冗長で仰々しい名乗り
- 中には実際には
  支配していない地域、
  また肩書だけで
  実体のないものもある -
が持つ意味を、
当時の人々は十分に認識していた

P7169400s

 

【同君連合国家】

それは、カールの息子
フェリーペ(2世)の時代に著された
『アラゴン王国要覧』(1588年)の
次の一節がよく物語っている。

「今日では
 すべての諸王国が結びつき、
 すべての諸王国が不敗を誇る
 我らのフェリーペ王
 お一人の意思によって
 治められているとはいえ、
 各王国は数世紀前に得た
 それぞれの古き法を維持しており、

 その法は
 他の諸王国の法とは
 何ら共通するものではないのである


 私たちの考えでは、
 何世紀も前から我らの君主による
 王令に示された
 おびただしい数の称号の起源は
 このようなことである


 これは、一見すると
 ひけらかしや虚栄心の故のように
 見えるかもしれないが、
 すべての諸王国を同じものとして
 考えてはならないということを
 はっきり理解させるための
 ものであった
」(内村俊太訳)。

つまりカール5世の下に誕生した
ハプスブルク君主国とは、
独自の法・制度・伝統を持つ
何十もの諸国・諸邦が、
同じ君主を戴くことによって成立する、
同君連合国家であったのだ

「独自の法・制度・伝統を持つ
 何十もの国が、
 同じ君主を戴く同君連合国家

P7169401s

独自の国制の尊重は、
決して形だけのものでは
なかったようだ。

この国家の統治において、
諸国・諸邦の諸身分と交わした
統治契約を守り、
その国制を尊重することは
絶対のルールであり、

それらの大小強弱にかかわらず、
決して侵害したり
粗雑に扱ってはならなかった


この禁を破ることは、
支配の正当性を失うことを
意味したのである。

いかに強大とはいえ、
カールもまた事情は同じであった。

彼がそれをよくわきまえていたことは、
退位の際に後継者フェリーペに対し、

自国の法を神聖不可侵と考え、
 臣民の権利や特権を
 侵害しないようにしなさい


と諭したことがよく物語っている。

今日の近世史家は、
このような近世ヨーロッパの諸国家を
複合(君主政)国家」と呼ぶらしい。

P7169406s

 

複合的な「日の沈まない帝国」を
支えていたのは、
まさに「各国家尊重の精神」で
強制的な「統一」ではなかった

 

 

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