オーストリア旅行記 (47) マクシミリアン1世(2)
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オーストリア旅行記 (47) マクシミリアン1世(2)
- 政略結婚の闇 -
記事を書こうと日付をみると7月15日。
ちょうど一年前はウィーンに居た。
オーストリア旅行記も気が付くと47回目。
つらつらと旅行時のメモをたよりに
あれやこれや調べながら書いていたら
もう一年も経ってしまったことになる。
まぁ、マイペースで
のんびり更新しておりますので
興味のありそうなところだけでも
ときどき遊びに来ていただければ、と
思っています。
さて、
ハプスブルク帝国の歴史を
人物から振り返る2人目。
マクシミリアン1世。
(生没:1459年-1519年)
の続きから始めたい。
思い出すために、
ウィーンの美術史博物館で撮った
アルブレヒト・デューラー作の
油彩肖像画を再度貼っておこう。
なお、参考図書は、
引き続きこの2冊。
[1] 岩崎周一 (著)
ハプスブルク帝国
講談社現代新書
[2] 中野京子 (著)
名画で読み解く
ハプスブルク家12の物語
光文社新書
今日の挿絵代わりの写真は、
美術史博物館で撮ったもの。
【スペインとの二重結婚】
結婚による
果実の大きさに気を良くし、
父のやり方に倣って、
子どもたちにも
早い段階から手を打っておいた。
息子フィリップ美公を
スペイン王女フアナと、
娘マルガレーテを
スペイン王子ファンと
結びつけたのだ。
ハプスブルク家とスペイン王家の
この二重結婚には
とうぜん条件があり、
どちらかの家系が断絶した場合は
残された方が領地を相続する、
と決められた。
名前も関係も
一読しただけではわかりにくいので、
ハプスブルク家側を青色、
スペイン側を[SP]の省略符と黄色の箱で
図にしてみよう。
という二重結婚となる。
その結果、どうなったかといえば・・・
【(a)息子側にのみ、子授かる】
二男四女が授かったのに、
ファンとマルガレーテには
子どもは生まれなかった。
というよりこのスペイン王子は、
結婚式の半年後に突然死してしまう。
もう一度書くが、
ハプスブルク家側が青色だ。
【ハプスブルク家男系への継承】
都合よすぎる展開といえるだろう。
なぜなら契約によれば、
これでスペインは
いずれフィリップとフアナの子ども、
つまりハプスブルクの男系へ
渡ることが決定的となったからだ。
すると今度は
(スペイン王子ファンの死から
九年後だが)、
息子フイリップが突然死する。
結果的に夫はふたりとも突然死!
証拠なしとはいえ、
相次ぐ王子たちの死が
自然死とはとうてい信じがたく、
政略結婚の闇の探さを
垣間見る思いがする。
マクシミリアン1世は
息子を亡くして痛手を負ったが、
ふたりの男子を孫として得られ
世継ぎは確保された。
16歳でスペイン王の座につくのを
しっかりその目で見届けたし、
自分の死後、
神聖ローマ皇帝位を
継がせることも確認できた。
スペインは
すでに中南米を支配していたから、
ハプスブルク家の領土拡大ぶりは
まさに爆発的。
諸侯たちは、
老いたマクシミリアン1世に
まんまと出し抜かれた。
【さらに続く婚姻作戦】
これで終わりではない。
マクシミリアン1世は死の間際に、
孫たちの結婚まで決めておいた。
カールはポルトガルの王女とで、
こちらは新たな領土取得とは
結びつかなかったが、
カールの弟は
ボヘミア・ハンガリー国の王女と、
カールの妹は
同じボヘミア・ハンガリー国の王子と
二重結婚、
それもスペインと同じ契約結婚をさせた。
同じくハプスブルク家側を青色、
ボヘミア・ハンガリー側を
[BH]の省略符と黄色の箱で書くと、
の二重結婚。
そしてその結果は・・・
【(c)孫側にのみ、子授かる】
スペインとの場合と
全く同じことが起こった。
男系である息子の方には
三男十女も生まれたのに、
娘と結婚した
ボヘミア・ハンガリー王子は、
世継ぎのないまま早々
と戦死したのだ!
なんということだろう。
上に貼ったスペインとの図を
もう一度ここに貼って並べてみると、
まさにスペインのときと同じ!
自分たちの強運を寿(ことほ)いだが、
ほんとうに「運」だけ
だったのだろうか?
それはともかく、
こうしてハプスブルク家は
ボヘミア・ハンガリーまで手に入れた。
そののちも続く、
「戦争は他の者にまかせておくがいい、
幸いなるかなオーストリアよ、
汝(なんじ)は結婚すべし!」
の外交。
突然死に限らず、不運や不幸が
すべて相手国の
計略によるものだったのかどうかは
もちろんわからないが、政略結婚とは、
男にとっても、女にとっても、
まさに命がけの「外交」だったのだ。
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