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2018年7月 8日 (日)

オーストリア旅行記 (46) マクシミリアン1世(1)

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オーストリア旅行記 (46) マクシミリアン1世(1)

- 汝(なんじ)は結婚すべし、か? -

 

ハプスブルク帝国の歴史を
人物から振り返る2人目。

今日取り上げたいのは、
マクシミリアン1世
(生没:1459年-1519年)

彼に関しては、
アルブレヒト・デューラー作の
油彩肖像画が、
ウィーンの美術史博物館にある。
74cmx62cmの大きさのものだが、
美術史博物館で撮った写真を添えたい。

(自然史博物館の方は撮影禁止だったが、
 美術史博物館の方は写真OKだった)

P7169411s

日本では室町時代。
応仁の乱があり、
銀閣寺ができて
東山文化が花開いたころの
人物だ。

参考図書は、
ここで選んだこの2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、[1]からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、[2]からの引用)

 

今日も「宝物館」での写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7159021s

 

【中世最後の騎士】

・・・15世紀末、ドイツ王兼
神聖ローマ皇帝の座についた
マクシミリアン1世こそ、
久々にハプスブルク家が輩出した
英雄であった。

「中世最後の騎士」
- マクシミリアン1世が
こう讃えられたのは、
治世26年のうち25回も遠征をおこない
しかもその戦の際にはご先祖のように
奇襲作戦を取るのではなく、
常に自ら最前線へ立ち、正々堂々と
騎士らしく戦ったためである。

(中略)

領土をブルゴーニュ、スペイン、
ハンガリーへと拡げ

国号も
「(ドイツ国民の)神聖ローマ帝国」
と改称して、
古代ローマ帝国再建より
ドイツ語圏における
ハプスブルク王朝強化を
鮮明にするとともに、実際、
ヨーロッパ有数の名家に押し上げた

治世26年のうち25回も遠征した
勇猛な騎士だっただけでなく
文化人でもあったようだ。

【ウィーン少年合唱団へ】

さらにこの勇猛果敢な騎士は
「ドイツ最初のルネサンス人」でもあり、
人文主義者や芸術家たちを庇護し、
自分でも詩作した
ことで知られる。

現在の
ウィーン少年合唱団の基礎となる、
宮廷礼拝堂少年聖歌隊を
創設した
のも彼だった。

P7159019s


晩年の皇帝は、
「昔日の面影なし」と言われても
仕方ないほど生彩を欠いていたが、
実際には、戦(いくさ)ではなく、
「婚姻外交」で
大きな成果を生んでいた。

この「婚姻外交」こそ、
ハプスブルク家を語るうえで
欠くことのできないキーワードだ。

【汝(なんじ)は結婚すべし!】

 もともとは
優柔不断なフリードリヒ3世が、
戦争厭(いや)さに
ぬらりくらり難事をかわすうち
引き当てたラッキーカードだった。

息子のマクシミリアン1世を
ブルグント公国 
(現フランスのブルゴーニュ、
 ベルギー、ルクセンブルク、
 オランダにまたがる、当時
 ヨーロッパ一繁栄を誇っていた国)
のマリアと結婚させることで、
労せずしてハプスブルク家に
莫大な富と領土をもたらした
のだ。

 ここから有名な 

「戦争は他の者にまかせておくがいい、
 幸いなるかなオーストリアよ、
 汝(なんじ)は結婚すべし!」 

 (誰の言葉かは不明) 

という家訓が生まれたと言われる。

「戦争は他の者にまかせておくがいい、
 幸いなるかなオーストリアよ、
 汝(なんじ)は結婚すべし!」

は、まさにどの本にも必ず登場する
ハプスブルク家のモットーだが、
書いてある通り
「誰の言葉かは不明」なうえ、
参考図書[1]では
「誤解も多い」、
「誤りである」とまで書いてある。

P7159005s

 

ちょっと立ち止まって考えてみよう。

 ここで、有名だが誤解も多い
ハプスブルク家の結婚政策について
触れておこう。

これに関しては、
「戦争は他国にさせておけ、
 なんじ幸いなるオーストリアよ、
 結婚せよ」
というモットーの下、
ハブスブルク家は政略結婚による
領土拡大を図ったという説

広まっている。

しかし、
これは端的に言って誤りである

先述の言葉も
詠み人知らずの揶揄に過ぎず、
モットーや家訓などではない。

ブルゴーニュ、スペイン、
チェコ、ハンガリーで
ハブスブルク家に
継承の可能性が生じたのは、
相手方の系統断絶という
偶然によるものだった。

ずいぶんバッサリだ。
ただ、「通説」を冷静な目で
見直してみることも時には必要だろう。

P7159009s

 

 そもそも政略結婚は、
日本にもあまた例があるように、
洋の東西を問わず、
家門勢力を存続・発展させるための
常套手段であった。

ハブスブルク家の結婚政策も、
結果としてきわめて大きな意味
持つことになったとはいえ、
他家のそれと特に変わらなかった

常套手段を
他家と同じように使っていただけなのに
特に強い印象を残しているのは、
やはり
「結果としてきわめて大きな意味」
を持つことが多かったという
「結果」から来ているのだろう。


P7159012s

もうひとつ、[1]は
政略結婚における大事な点も
指摘している。
その部分も引用しておきたい。

 最後に、君主間の約定がどうあれ、
また姻戚関係がどれほど密接であっても、
臣民の代表たる
諸身分の支持がなければ、
君主となることも、
その座を維持することも
不可能だった
ことを忘れてはならない。

* ハプスブルク家は
 アルブレヒト1世と同2世の時代に
 ボヘミアの王位を手にしたが、
 いずれの場合も長く保持することは
 できなかった
こと、

* 16世紀には
 繰り返しポーランドの王位を狙い、
 歴代の国王との
 密接な姻戚関係を生かして
 積極的に運動したが、
 実現することはできなかったこと、

など、同地の諸身分と
良い関係を築けなかったことによる、
失敗例を挙げている。

 こうした出来事が示すように、
支配の成立と安定には、
被治者の同意が不可欠だった


そしてそれは、
その地の政治的伝統の尊重を約し、
諸身分の参政権を認めることで、
はじめて認められるものだった。

このため中近世のヨーロッパでは、
王族の婚姻の際に諸身分が立会人となり

継承問題に関しても
あらかじめ同意をとりつけておくことが
しばしばであった。

なるほど、
安定した支配のための
「被治者の同意」か。

P7159010s

 

いずれにせよ、
家訓かどうか、
モットーかどうかとはともかく
婚姻による外交が
富と領土に大きく影響していたことは
間違いない。

ちょっと長くなってしまったので
マクシミリアン1世が具体的に
どんな婚姻を考え
どんな成果をあげたのか、は
次回に書きたいと思う。

 

 

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コメント

hamaさん、こんばんは。

マクシミリアン1世のことは余り知らなかったのですが、ハプスブルグの繁栄に多大な影響を与えたのですね。
ハプスブルグ家の有名な家訓「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」もマクシミリアン1世が創り上げたのでしょうか?

それにしてもウィーン少年合唱団の基礎を作ったのも彼だったのですね。 勉強になりました

omoromachiさん、

コメントをありがとうございます。

記事にあげた2冊ともが触れているように、
「汝は結婚すべし」
の出典はよくわからないようですね。

ただ、ハプスブルク家の歴史の本では
必ず目にする言葉ですので、
この言葉をキーに
いろいろ考えてみてもいいかな、と思い
記事で採り上げてみました。

単に「縁を組めば終わり」といった
簡単なものでないことは、
今日、旅行記47回の記事にも書きました。

両者、両国にとって、
大きな緊張を伴うものだったのでしょう。

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