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2018年7月 1日 (日)

オーストリア旅行記 (45) ルドルフ1世

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オーストリア旅行記 (45) ルドルフ1世

- 650年の歴史の始まり -

 

650年にもおよぶ
ハプスブルク帝国の歴史。

全部を丁寧に見ていくことは
とてもできないので、
何人かの主要人物を選び
その人を中心に
歴史を振り返ってみたい。

参考図書は、
前回選んだこの2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、[1]からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、[2]からの引用)

 

なお、
文章だけの記事にならないよう
前回同様、旧王宮の中にある
「宝物館」
で撮った写真を挟みながら
話を進めて行きたい。

P7158996s


まずは、ハプスブルク家が
歴史に登場するころ、
欧州はどんな様子だったのか?
そのあたりの時代背景から見てみよう。

【神聖ローマ帝国とは】

それにしてもまず
「神聖ローマ帝国」とは何か、
説明する必要があるだろう。

「帝国」とは
複数の民族と国家を統合した
君主国のことで、

「神聖」とは
要するにローマ教皇から
加冠してもらい、
カトリックの盟主たるお墨付きを得た

ということだ。

962年にオットー1世が
戴冠して始まったこの帝国は、
ドイツ国(北部イタリアを含む)の王が
自動的にローマ教皇から皇帝位を受け、
いつの日か全イタリアを領有して
古代ローマ帝国を再現しよう、との
見果てぬ夢の名称
言い換えていいかもしれない。

 

そんな神聖ローマ帝国の実態が、
13世紀、
どんな様子だったかと言うと・・・

【13世紀の欧州】

 13世紀へ話をもどすと、
ドイツは依然として建前上は
神聖ローマ帝国の支配下にあることに
なっていた。

ところが実態は
戦国時代の日本と同じ群雄割拠状態、
諸侯が足の引っ張りあいを
し続けているため、
なかなか中央集権国家が築けない

それどころか、
力で国をまとめる
英雄的皇帝が出現しないものだから、
ドイツ王、即ち神聖ローマ皇帝の座は、
世襲ではなく
有力諸侯七人(選帝侯)による選挙

で決められることになった。

 後世のヴォルテールが、
「神聖でもなくローマ的でもなく、
 そもそも帝国ですらない」
 
と皮肉ったように、
神聖ローマ帝国は
とっくに名目上の呼び名でしかなく、
皇帝になったからといって
領土が増えるわけでも
集中的な権力を
得られるわけでもなかった。

 

なので、20年もの間、
帝位が空白となる
「大空位時代」を迎えてしまう。

その後、ようやく皇帝が
選ばれることになるのだが、
選ばれたのはなんと「無能」を理由に
選ばれた男だった。

P7158999s

【「無能」で選ばれた
 ハプスブルク伯ルドルフ】

選帝侯たちは
誰かひとりが傑出するのを望まず、
なんのかのと理由をつけ、
ドイツ王の選定を先送りし続けた。

ローマ教皇が
たびたび催促したにもかかわらず、
呆れたことに20年間も
帝位を空白のまま放置
(「大空位時代」)


ついに痺れをきらした教皇が、
それなら自分が指名しよう、
と乗り出すに及んで、
仕方なく人選を始め、
できる限り無能で、
こちらの言いなりになる男、
という基準で選んだのが・・・
ハプスブルク伯ルドルフ、
という次第

 

なぜ、彼が選ばれたのか?

【他の諸侯の脅威にならない男!?】

選帝侯たちにとってルドルフは、
うってつけの人間に思えた。

アルプスの痩せた領土しかない
成り上がり者で、
おまけに55歳と高齢、
大した財産もないから
戦争能力に乏しく


皇帝の名を投げ与えてやれば、
無給の名誉職でも
きゃんきゃん尻尾を振って
忠義を尽くし、どう間違っても
他の諸侯の脅威にはならないだろう。

知らないということは恐ろしい。
この時点では誰ひとり
ルドルフの野心と底力に気づいた者は
いなかった

P7159000s

 

そしてついに、歴史上初めて
ハプスブルク家における
最初の神聖ローマ帝国君主が誕生する。

【棚ボタ式僥倖】

当時、急速に勢力を伸ばしてきていた
ボヘミア王オットカル二世が
- この有能なオットカルこそ、
  選帝侯たちが
  絶対に皇帝にさせたくない
  相手だった -
ルドルフの戴冠に異議を唱え、
ローマ教皇に直訴して曰く、
ハプスブルク家など、
どこの馬の骨ともしれぬ一族は、
帝位にふさわしくありません!


教皇がその点を
選帝侯たちに問いただすと、
彼らはルドルフの
カトリック信仰の探さを持ち出して
弁護した。

一方ルドルフはといえば、
ちょうどこの時
バーゼル大司教と交戦の
まっ只中だったが
千載一遇のチャンスを
逃してはならじと即座に講和して、
戴冠のためかけ戻った
(本能寺の変を知って、
 ただちに兵を引きあげた
 秀吉と同じだ)。

こうして一介の田舎伯爵が
神聖ローマ皇帝ルドルフ一世へと変身

ここにハプスブルク王朝の第一歩が、
棚ボタ式僥倖(ぎょうこう)によって
(よろよろとだが)
踏み出されたのである。

「僥倖」つまり「思いがけない幸運」
があったとはいえ、
皇帝ルドルフ1世が誕生した。
(生没:1218年-1291年)
在位:1273年-1291年。

日本は鎌倉時代。
元寇がやってきていたころのことだ。
ちなみに
ハプスブルク君主国の消滅は1918年。
日本では明治の次、大正になっている。

 

P7159024s

 

そして、ルドルフはある戦争を決意する。

【貧弱な軍隊と大軍隊の衝突】

ただしオットカル二世との確執は
年々深まってゆく。

このボヘミア王は数年前、
オーストリア領主に
世継ぎのないのに乗じて
ウィーンを陥落させており、
ルドルフ一世が返還要求しても
意に介さなかった。

神聖ローマ皇帝に
堂々と反旗を翻(ひるがえ)したのだ、

もはや叩き潰すしかない 

- ルドルフの決意に
選帝侯たちも賛成してくれたが、
口で応援するだけで
手を貸そうとはせず、
高みの見物を決め込まれてしまう


彼らにとっては、
ルドルフのお手並み拝見、
むしろ共倒れして領地分割できれば、
もっとも都合がよかったであろう。

 かくして戴冠5年後の1278年、
ウィーン北東のマルヒフェルトで、
名ばかりの皇帝に率いられた
貧弱な軍隊と、
名門で財政豊かな王に率いられた
大軍隊は激突する


大方の予想は、
ルドルフに勝ち目なし

というものだった。

 

ところが結果としては
オットカルは戦死、
敵は総崩れになってしまう。

勝ったルドルフは本拠地を
スイスからオーストリアに移動


オーストリアでの歴史が始まる。

P7159023s


【本拠地をオーストリアへ】

無能な田舎の老人と
侮っていた選帝侯たちは、
さぞや焦ったことだろう。

ルドルフ一世はこの戦いで
ボヘミアを手中にし、
まもなくオーストリア一帯も
自領にすると、
スイスの山奥から
オーストリアへ本拠地を移した


その後彼は
イタリアには全く固執せず、
ただただハプスブルク王朝の
拡大維持を第一目標とし、
神聖ローマ皇帝の座を
ハプスブルクの世襲とすべく、
残り十年の余命を使って
奮戦する
のである。

と、[2]の本からの引用で
ハプスブルク君主国の
始まりを見てきたが、
[1]の本では、
「できる限り無能で、
 こちらの言いなりになる男」
なる単純な理由で
選ばれたわけではない、と
「これまでの」通説に対して
「今日の」説を提示している。

「これまで・・・とされてきた」
「今日では・・・と考えられている」
の部分を引用したい。

これまでルードルフが
国王に選出されたのは、
諸侯が勢力拡大を図る都合から
強力な王の登場を望まず、
弱小な「貧乏伯」を
良しとしたためとされてきた


(中略)

このような彼の経歴と手腕を、
国王選出を主導したライン地域の諸侯が
軽視したとは考えにくい。

そのため今日では
適当な候補が見当たらない中、
早晩衝突が予想されるフランス王や
チェコ王に
抗しうる人材と見込まれたこと


またシュタウフェン派であったため、
諸侯の中でいまだ根強い
親シュタウフェン勢力からの支持が
期待できること


などが評価されての選出であったと
考えられている

実際、彼は選出後
積極的にアクションをとっていく。

P7159022s


国王に選出されてからの
ルードルフの行動は機敏だった。

戴冠式の際、彼は
選帝侯2人に娘2人を
それぞれ嫁がせ
、絆を深めた。

さらにルードルフはこの後、
世俗選帝侯たちに加え、
バイエルンの君侯家らとも
姻戚関係を結んだ。

加えて上に書いた通り
ボヘミア王との戦いにも勝利。

などなど、55歳で王になった彼は
「無能」どころか
「有能」としか思えない
決断力と行動力で
勢力を拡大していった。

P7159027s


ちょっと意外な形で始まった
ハプスブルク王朝のスタート。
このあと
650年も続くことになることを
当時、誰が予想できただろう。

ルドルフ一世という
破格の人間がいなければ、
ハプスブルク家はアルプス地方の
一領主にとどまったまま、
歴史の表舞台に
飛び出ることはなかっただろう。

どんな王朝でも
始祖は強烈なものだが、
ルドルフの年齢や立場を考えた時、
ハプスブルク王朝成立の経過は
とりわけ奇蹟的に感じられる


これがあればこそ
650年もの王朝維持
- 徳川幕府265年、
  ロシアのロマノフ王朝300年と
  比較しただけで
  その凄さがわかる - 
という、まことの奇蹟が
生じたのではないかと思われる
のだ。

 

 

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