オーストリア旅行記 (27) ウィーン国立歌劇場(2)
(全体の目次はこちら)
オーストリア旅行記 (27) ウィーン国立歌劇場(2)
- オリジナル棒年表の登場! -
ウィーン国立歌劇場の
ガイドツアーの2回目。
舞台の幕、緞帳(どんちょう)は
グルックのオペラ
「オルフェオとエウリディーチェ」
をモチーフにしている。
このグルックという作曲家
ご存知だろうか?
クラシック音楽初心者向きのこの本、
三枝成彰著
驚天動地のクラシック
キノブックス
に、こんな記述があったので紹介したい。
(以下水色部、本からの引用)
彼がいなければ、
後の作曲家たちの傑作も
生まれなかったかもしれません。
この頃、オペラの世界は様変わりし、
カストラートたち
(少年時代に去勢して
″天使の歌声″を保った歌手)が
聴衆の人気を得て、
歌を披露する場になっていました。
グルックは、台本(物語)を重視し、
歌手たちが勝手に曲を改変したり、
他の作曲家の曲を
挿入したりすることを禁じました。
また他にも
レチタティーヴォ(語り)を
オーケストラの伴奏付きで
歌わせたりと、
彼の功績はいくつもあります。
彼によってオペラは、
音楽と演劇が融合した
新しい時代の総合芸術に
生まれ変わったのです。
オペラを「新しい時代の総合芸術」に
変革した改革者。
彼がいなかったら、その後
モーツァルトのオペラも
生まれなかったかもしれない。
また、彼は、
あの女性の音楽教師でもあった。
八プスブルク家お召し抱えの
宮廷楽長であり、
幼い王女マリア・アントーニア
(マリー・アントワネット)の
音楽教師も務めていた。
後に彼女が
フランスのルイ16世に嫁ぐ時、
付き従って
フランスに渡っている。
ウィーンの歴史を見ていくと、
ハプスブルク家だけでなく、
音楽家であったり、芸術家であったり、
実に多くの人たちが登場する。
本を読んでいて気になるのは、
たとえば上記に登場した
マリー・アントワネットと
音楽教師のグルックは
年齢的にどんな関係だったのか?
というような点。
もちろん個別に生没年を
調べることはできるが、
数字だけを見てもどうもピンとこない。
そこで、エクセルのVBAを使って
生没年月日を入れると、
年表用のバーを書いてくれる
簡単なプログラムを作ってみた。
「登場人物」の年齢関係を
想像しやすくするための補助グラフだ。
ただ、よく見る一本の棒にしてしまうと
活躍年代のイメージがつかみにくい。
そこで、
20年ごとに色を分けてみることにした。
ほかにも生年と享年も書き加えて
独自の棒年表としてみた。
つまりこんな感じ。
* 棒左端の数字は生年
* 棒の色
0 -20歳 緑
20-40歳 青
40-60歳 黄
60歳以上 紫
* 棒右端の数字は享年
(死んだときの満年齢)
* 棒右欄外は氏名
実際に書いてみよう。
上記に登場した人物を中心に、
*グルック
*マリア・テレジア
(マリー・アントワネットの母親)
*ルイ16世
*マリア・アントーニア
(マリー・アントワネット)
*モーツァルト
の5人で棒年表を作ってみた。
繰り返しになるが、色は20歳区切り。
読者の皆様は、この年表の
どの部分に目がいくことだろう?
グルックとマリア・テレジアはほぼ同年齢。
マリア・テレジアが
マリー・アントワネットを生んだのは
もう40歳近いころだということも、
マリア・テレジアの
青が終わるころ(40歳)ということで、
すぐにわかる。
(15番目の子ども、
第15子だったということは
ここからではわからないが)
ルイ16世、マリー・アントワネットと
モーツァルトの三人はそれぞれ1歳違い、
ほぼ同年齢。
亡くなったのも
ルイ16世とマリー・アントワネットは
もちろんのこと、モーツァルトも偶然にも
ほぼ同じころ。
オペラの改革者グルックの
約40年後にモーツァルトが生まれている。
マリア・アントーニアが
フランスに嫁いだのは、
14歳の時なので、
まさに親世代のグルックが
一緒にフランスに渡ったのは、
音楽教師以上の意味も
あったのかもしれない。
マリア・テレジアは、
娘の悲劇の死を
知らなかったこともわかる。
このオリジナル棒年表。
今後もいろいろな組合せで使って、
いろいろ想像を膨らませてみたい。
(全体の目次はこちら)
最近のコメント