「中世の声と文字」
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「中世の声と文字」
- 学問から宗教へ -
遺跡や書物は、歴史を考えるときの
大事な資料や証拠となるが、
残念ながらそこに「音」は残っていない。
文字や楽譜は残っていても音はない。
吉松隆 著
調性で読み解くクラシック
ヤマハミュージックメディア
にもこんな記述があった。
「音楽」はそれぞれの形で
豊饒な文化を築いている。
ただし、残念ながら音楽は
化石や古文書のように
発掘されることはないので、
音そのものは想像するしかない。
それはもちろん
「声」についても同じこと。
その、当時の「声」を
親鸞の手紙と
琵琶法師によって語り継がれた
「平家物語」を題材に
考えてみようという
大隅和雄 著
中世の声と文字
親鸞の手紙と『平家物語』
シリーズ <本と日本史> 3
集英社新書
を読んだ。
(以下水色部本からの引用)
もともと親鸞についても
平家物語についても、
中高の教科書以上の知識がないので
知らないこと満載で、その内容は
興味深い話の連続だったのだが、
途中から
注をつけることにして、
敢(あ)えて現代語訳は省いた。
中世の人々が
琵琶法師の声で聞いた文章の律動を、
そのままのかたちで味わって頂きたい。
という著者の意図のもと、
現代語訳がなくなってしまったのは、
古文オンチの私にとっては辛かった。
「文章の律動」を味わう余裕がない。
そういう意味では、読み終えても
本の趣旨というか、
肝心な部分が味わえていない
後(うしろ)めたさが残る。
とはいえ、浅い読者は浅いなりに
発見や考えさせられることもあったので、
きょうは、その一部を紹介したい。
まずは親鸞との語り合いと手紙の話から。
念仏道場でともに
念仏を唱えていたときには、
親鸞の信心と数えは、
親鸞の立ち居振る舞いを通じても、
自然に伝わっていった。
しかし、その親鸞が東国を去った後、
残された人々は、
念仏を唱えて語り合うだけでは心もとなく、
心に浮かんでくる疑問に、
決着を付けることが
できないと思うようになった。
そこで、門弟たちは、
手紙を書いて教えを乞うようになった。
距離が手紙を生んだわけだが、
手紙には距離を埋める以外の
大きな作用があった。
その手紙を道場の人々に見せ、
声を上げて読み聞かせ、
字のかける門弟の中には、
書写して
信心の拠り所とする者も少なくなかった。
親鸞の手紙は現在43通が知られていて、
その中で11通は、真蹟とされている。
750年前の手紙が、
もとのまま11通も残っているというのは
驚くべきことであるが、
それらの手紙は、親鸞の最晩年のもので、
京都に帰った60代前半にも
文通はあったに違いないが、
手紙は残っていない。
750年も前の手紙が11通も残っている、
という事実には確かに驚くが、
ここでの印象的なシーンは、
「声を上げて読み聞かせ」と
「書写して信心の拠り所」の部分。
手紙が、
個人対個人のやり取りに留まっていない。
親鸞の手紙を大切にして、
写本を作って回読し、道場で
読み上げることもあったと思われる。
そうした中で、
手紙を集めた本が教典として
用いられることになった。
信心に関する質問に対して、
親しみ深く語りかけるような親鸞の返事は、
質問を的確に、深く理解した上で、
易しいことばで綴(つづ)られていたから、
消息集は門弟たちにとって、
かけがえのない教典となった。
門弟たちは消息集を読んで、
師の面影を偲(しの)び、
師の声を聞くかのようなことばを
反芻するようになったのである。
親鸞との手紙が、
親鸞の教えの広がりに
独特な力をもっていく。
手紙を中心にした変化、だ。
先進的な外来文化として伝来した仏教が
「漢訳仏典の学問」から、
信心を中核とする「宗教」に変じたことを、
何よりも的確に表わしていると思われる。
突飛な比較と考えられるかも知れないが、
『新約聖書』は、
27の資料からなっているが、
四部の福音書と
「使徒行伝」「ヨハネの黙示録」
の六篇の他は、
21通の手紙が収められており、
資料の数からいえば、
全体の4分の3は手紙である。
キリスト教の教義の中核もまた、
手紙で述べられているということになる。
なるほど。
教典における「手紙」は
単なる表現の一形式として
採用されたものではなく、
「実績」に基づく
採用だったのかもしれない。
人々の心に届く、実手段として
大きな影響力を持ったという「実績」に。
特に識字率が高くなかった時代には、
「声を上げて読み聞かせ」るという
共有方法がその背景にあったことも
見逃せない。
「学問」から「宗教」に。
具体的な音は聞こえないけれど
確実に存在した「声」の存在が
「教典」に命を吹き込んでいるような
そんな気さえしてくる。
この本の話、もう少し続けたい。
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