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2016年11月13日 (日)

学ぶことの美しさと強さ

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学ぶことの美しさと強さ

- 「蒼穹の昴」の名シーン -

 

前々回、「宇宙」のことを少し紹介した。

『淮南子(えなんじ)』には
「往古来今これを宙といい、
 四方上下これを宇という」
とある。

つまり、
「宇」は空間を、
「宙」は時間を 意味しており、

宇宙ということばには、
空間と時間という
ふたつの概念が含まれている

という話だった。

「宇宙」の文字を見て、
ある小説の一シーンを思い出した。

浅田次郎 (著)
蒼穹の昴

講談社文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 文庫版の第一巻へのリンク)

「語ったものが物語になるのではない,
 ものを語るから物語なのだ」

と言っていたのは、
確か作家の池澤夏樹さんだったと思うが、
この小説、フィクションながら
まさにすでにあったものを語っているような
「これぞ物語!」と呼びたくなる傑作だ。

清末期の中国を舞台に
目の離せない物語が展開していく。

単行本で二段組上下巻、
その後文庫になっても4巻組という長編だが、
読み始めたら長さは全く感じない。

ほんとうにすばらしい小説だ。

もちろん、大きなテーマもおもしろいのだが、
小さなエピソードも光っている。

その中に、「宇宙」が登場する
印象深いエピソードがある。
今日はその部分を紹介したい。
(以下水色部、作品からの引用)

 

謀反を企てた超エリート「王逸」は
失敗して囚われの身となっていた。

財産も地位もすべてを失い、
独房でただ処刑だけを待つ日々。

そんな絶望的な虜囚(りょしゅう)の
食事や身の回りの世話をしてくれたのは、
「小梅」という
耳の不自由な12,3歳の村娘だった。

何日かに一度、小梅は
鍵束を持った
老頭児の憲兵とともにやって来て、
房内の掃除をしてくれた。
日なたの匂いのする
清潔な衣服に着替えさせ、
糞瓶も洗ってくれるのだった。

与える物の
何もないことが申しわけなくて

王逸は小さな掌を握った。

すると小梅は、
まったくもったいないというふうに
体を硬くするのだった。

与える物があることに気付いたのは、
いつのことだったろう。

すべてを奪われた王逸には、
たったひとつだけ、
誰にも奪うことのできぬ
財産があったのだ

科挙合格を目指して、
まさに死にもの狂いで勉強をしてきた日々。
自分には学問がある。

そう気づいた彼は、小梅にこっそり
文字や詩を教え始めるのだった。

食事をおえると、
二人は檻を挟んで
箸を一本ずつ分かち合う


「さあ、書いてごらん」

ゆっくりと噛んで含めるように言うと、
小梅はカいっぱい肯いて箸を動かした。

湿った土に
「可」「知」「礼」「也」と、
たどたどしい文字を書く。

・・・(略)

「よろしい。じゃあ、
 今までのおさらいを、しよう。
 いいかね、初めから、書いてごらん」

聞き終らぬうちに小梅は、
食事のたびにひとつずつ覚えた
二十五字の簡単な文字を、
箸の先で書き始めた。

筆順を違(たが)えているものは多いが、
王逸はとがめたりはしない。

わずかな日々のうちに、
音を知らぬ少女は
正確な二十五の文字を覚えた

鉄格子を挟んでの、
土間をノートにした小さな小さな授業。

土間に書きつらねた
最後の一行を箸の先で示して、
王逸はゆっくりと唇を動かした。

「意味は、わかるかね。

 よ じん な      べ なり
『佳く仁を 作せ、礼を知る可き也 』」

小梅は何度も肯いた。
両手を胸にあてて
おそらく「仁」を表現し、
片膝を立てて
「礼」を尽くすそぶりをした。

どうしてわかるのだろう。

音もなく、文字も知らずに育った小梅は
「仁」を知っている。

掌で土間の文字をあわただしく消すと、
小梅は小さな獣のようにうめきながら、
王逸の手にした箸を指さした。

続きをせがんでいる

学ぶことの楽しさとすばらしさに目覚めた小梅。
この二人の、
勉強のシーンの美しいこと、美しいこと。

学びたくてしょうがないという小梅の衝動が痛い。

あぁ、勉強するって、学ぶことって、
本来はこんなにすばらしいことなんだ、
と思わず声に出してしまいたくなるほど。

「可知礼也」を覚えた小梅が次に覚えるもの。
それが・・・

初めて筆を執った子供は、
まず「上大人」に始まり、
「可知礼也」を以て終る二十五字の
単純な文字を習得する。

科挙のきわみに通じる
文字の洪水の中に、
そうして舟を漕ぎ出して行く。

次に与えられる手本は、
四字二百五十句からなる
「千字文」である。

子供らは長い時間をかけて、
ひとつの重複もない
その壮大な韻文を覚える。

「天」と冒頭の一字を書いて、
王逸は少しためらった。

小梅に千字文を教えるだけの命は、
自分に残されてはいまい


王逸と小梅は鉄格子を挟んで、
まるで手習いをする教師と生徒のように
膝を並べた。

 天地玄黄
  天は玄(くろ)く  地は黄いろ

 宇宙洪荒
  宇宙は洪(ひろ)く 荒(はて)しない


小梅は目を輝かせて、
急に難しくなった文字を懸命に真似た。

王逸は、小梅の黒髪などを指しながら、
身振り、手振りで、
天地玄(黒)黄を必死で説明していく。

ところが・・・

しかし- 
「宇宙」を説明することは
どうしてもできなかった

それは「空」でも「天」でもなかった。

自分たちを今、包摂する巨大な空間。
無限の概念。

身ぶり手ぶりで
王逸がどう説明しようと、
小梅か考えつくものは、
広漠たる河北の大地でしかなかった。

どうすればこの貧しい少女に
宇宙のありようを、曠野の地平の先に
豊饒な海や草原や都市のあることを、
悟らせることができるのだろう。

小梅は世界が、泥濘(でいねい)と
黄砂と氷とででき上がった、
不毛の大地でしかないと思いこんでいる。

虚しい努力を繰り返しながら、
結局この娘は神の与え給うた
美しい自然のありようすら
知らぬのだと思いついたとき、
王逸の胸はやり場のない悲しみで
いっぱいになった。

宇宙の説明はできなかったが、
王逸は最大限のメッセージを小梅に送った。

「対不起・・・すまない、小梅。
 この字はとても難しいんだ。
 君に、伝えることは、できない」

小梅は悲しい瞳で、
意味不明の「宇宙」を
見つめ続けていた。

・・・(略)

「わからなくてもいい。
 帰って、おさらいをしなさい。

 宇宙は洪(ひろ)く、荒(はて)しない。

 君は希望に満ちた宇宙の中に
 生きているんだ


 いいかね、小梅 - 」

王逸は立ち上がって、両手を広げ、
大気を胸いっぱいに
呼吸するそぶりをした


うちひしがれた小梅の肩を抱く。

夢。希望。永遠。
 君の不幸は、
 洪荒たる大宇宙の中の、
 ほんのささいな、
 とるに足らぬ悲しみにすぎない

 わかってくれ、小梅」

小海は目に涙すらうかべて
顎を横に振り、
声もなくうなだれて去って行った。

 天地玄黄 宇宙洪荒

王逸はその夜、
祈るように千字文の冒頭の句を、
土間になぞり続けた。

充分な説明ができなったにもかかわらず、
翌日、小梅は思いもかけない
こんな言葉を口にする。

牢の外に屈(かが)みこみ、
王逸を手招いて土に字を書く。

「宇宙」と、
おそらく読み方も知らぬ字を、
小梅は正確に書いてにこりと笑った。

「先生・・・我・知・道・了。
 あたし、これ、わかったよ

荷物を鉄格子の中に押しこむと、
小梅は立ち上がって、
きのう王逸がそうしたように
両手を天に向かって上げ、
大気を胸いっぱいに
呼吸するそぶりをした。

「全部のことね。
 ずうっと、ずうっと」


王逸は肯いて、
まさしく宇宙の一点に立ち上がった
少女の体を見上げた。

小梅はまる一晩、「宇宙」の文字を
書き続けたに違いなかった。
表情は希望に溢れていた。

「そうだよ、小梅
 ・・・宇宙は広く果てしない。
 君は、無限の宇宙の中にいる」

「宇宙がわかった」と言った小梅。
このあと、小梅は
とんでもない行動に出る。


・・・ここにいたら君は殺される」

(略)・・・をしたことが知れれば、
家族まで皆殺しになる。

いきり立つ兵士たちにとって、
農民の命など虫けらと同じだ。

賢い小梅がこの先、
自分と自分の家族にふりかかる
確実な運命を知らぬはずはなかった。

戸惑い、驚きながらも、
その行動を止めきれぬ王逸。

自分の命を、一族の命を賭して、
小梅は叫ぶ。

「宇・宙! あたしのもの! 
 ずうっと、ずうっと!」

いま生れ落ちた赤児のように、
小梅ははろばろと瞳をめぐらせた。

小梅の行動により、王逸の
「独房でただ処刑だけを待つ日々」が
大きく動き出す。

浅田さんは、節の最後を
こんな疑問文で締めている。

少女が命とひきかえたもの、
それは何だろう -。

ところが、
そこまでを読んでいる読者のほうには、
「それは何か」が痛いほど伝わってくる。

命を賭けて、一族の命を賭けて
なぜ彼女がそんなことをしたのか、
美しい勉強のシーンと共に、
ぜひ原文で味わっていただきたい。

 

 

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