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2016年8月

2016年8月28日 (日)

日本の調子

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日本の調子

- 音と季節と方角と -

 

長い間抱いていた
「短調は暗い」
と表現されることの違和感を
高校野球の応援曲を例に、
前回、ここに書いた。

その際、
調性について少し詳しく知りたいと
思って読んだ本がコレ。

吉松隆著
「吉松隆の調性で読み解くクラシック」
ヤマハミュージックメディア

 

この本の中に、
西洋音楽の調についてではなく、
日本の音楽の調について、
たいへん興味深い話があったので、
今日はその部分を紹介したい。
(以下、水色部は本からの引用)

 まずは、
日本における「ドレミファ」。

これは5世紀頃に大陸から
伝承された音楽を基礎として、
日本古来の音楽すなわち
雅楽」の世界において体系化されている。

  壱越(いちこつ  :レ)
  平調(ひょうじょう:ミ)
  双調(そうじょう :ソ)
  黄鐘(おうしき  :ラ)
  盤渉(ばんしき  :シ)
  神仙(しんせん  :ド)

そこから生まれる調は、
それぞれの音を基音として

 「壱越調=クラシック音楽で言うと二調」、
 「平調 =同じくホ調」、
 「盤渉調=同じく口調」

などという具合になる。

基音の違いによって
いくつかの調がある。

これはごく自然なことと言えるだろう。

おもしろいのは、
これが明暗といった「気分」ではなく、
あることと深く結びついている点。

そのあることとは?

それぞれの調は「季節」と密接に結びつき、
四季それぞれに奏されるべき調子が
決められていたという


例えば、
 春なら「双調」 、
 夏は 「黄鐘調」、
 秋は 「平調 」、
 冬は 「盤渉調」。

 実際、平安時代には、
十月になったのだから
筝を
 「平調(秋のキイ)」から
 「盤渉調(冬のキイ)」に変えましょう…
というような会話があったという。

現代に当てはめれば、
秋まではEmで歌っていた歌だけれど、
冬になったからBmで歌いましょう、
というようなものか。

季節によって、調を変える、キーを変えるとは、
なんと風流なことだろう。

しかも、それは「方角」にも結びつく。

 これは、単なる「感じ方」ではなく、
古代中国の陰陽五行説の思想から来るもので、

 木・ 火・ 土・ 金・ 水 が、
双調・黄鐘・壱越・平調・盤渉 の

五つの音に当たり、
方位ではそれぞれ、

 東・ 南・中央・ 西・ 北

にあたる。

 双調(ソ) の音は「春」と「東」
 黄鐘(ラ) の音は「夏」と「南」
 平調(ミ) の音は「秋」と「西」
 盤渉(シ) の音は「冬」と「北」

を表わすわけである。
ということは、
 ミ(平調)の音は西、
 ラ(黄鐘)の音は南から聞こえてこそ、
正しい音のあり方ということになる。

それゆえ平安京では、
御所を中心にして寺院の鐘の音は
それぞれこの方位に基づいて
チューニングされていた
、という説さえある。

「説」かもしれないが、初めて知った。
鐘の音程が、御所からの方角によって
違っていたかもしれないなんて。

 さらに、この五行説に寄って
季節の音楽を(無理やり)クラシック音楽に
あてはめると、

  「春」の音楽は「卜長調」
  「夏」の音楽は「イ長調」
  「秋」の音楽は「ホ短調」
  「冬」の音楽は「口短調」

 ということになる。

 

ここから、クラシックの名曲が
例としていくつか出てくるので、
YouTubeからのサンプルを割込ませて貼って、
その雰囲気を確認してみたい。

まずは、春。

 なるほど、そういえば

モーツァルトのセレナーデ第13番
(アイネ・クライネ・ナハ卜・ムジーク)



弦楽四重奏曲第14番〈春〉

は、
そのまま「卜長調」で「」。

 

続いて夏。

ベー卜ーヴェンの交響曲第7番

などは
「イ長調」だから「」。

(ダメだ、
 「のだめカンタービレ」の印象が強すぎて、
 冷静に季節を感じられない。私的感想。失礼)

 

さて、秋は・・・

対して、
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲


ドヴォルザークの交響曲第9番〈新世界より〉


「ホ短調」で「」。

 

冬は・・・

そして、
シューベルトの交響曲第7(8)番〈未完成〉


チャイコフスキーの交響曲第6番(悲愴)

などは
「口短調」で「」ということになる。


 なんとなくぴったりな雰囲気ではないか。

吉松さん自身も最初に言っている通り、
日本の季節の調を
クラシック音楽にあてはめて
聞いてみよう、という
ちょっと無理やりな試みだが
こうして並べて聞いてみるとおもしろい。

最後に、日本の長調と短調について
触れておこう。

5世紀から7世紀頃(仏教が伝来した頃)に
大陸から渡来した基本の旋法は、

 呂(ろ) 旋法 : 壱越調 双調 
          太食調(たいしきちょう)
 律(りつ)旋法 : 平調 黄鐘調 盤渉調

の6つ(六調子 りくちょうし)。
大まかにいうと、
 呂は長調にあたる音階 で、
 律は短調に当たる音階

この「呂」と「律」が
しっかり吹き分けられない楽師は
「呂律(ろれつ)がまわらない」
笑われたそうで
これが雅楽の時代の音階の基本。

「呂律(ろれつ)がまわらない」とは
元は、しゃべり方ではなく
演奏のほう指す言葉だったようだ。

ブラバン部員だった私としては、
呂律(ろれつ)がまわっていない練習風景は、
むしろ懐かしかったりするのだが・・・

 

 

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2016年8月21日 (日)

短調は暗いのか?

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短調は暗いのか?

- 「長調」「短調」の的確な表現は? -

 

リオオリンピックの
すばらしい競技に目を奪われている間に、
高校野球のほうも
いつのまにか決勝戦にまで来てしまった。

今日は、野球のほうではなく、
応援席でのブラバンの演奏に目を向けてみたい。

まずは、代表的な応援曲を
いくつか聞いてみよう。

 

【アフリカン・シンフォニー】

 

【サウスポー】

 

【狙い撃ち】

 

【ルパン三世】

 

【宇宙戦艦ヤマト】

 

上の例もこの先に登場する曲名も、
古いものが多いことは、
オヤジのブログゆえお許しあれ。

まぁ、それでも
「この曲、今でも演奏されているンだ」
が高校、大学と吹奏楽をやってきた私の
正直な感想だ。

 

さて、いくつか並べて聞いてみて
ある共通点にお気づきだろうか?

じつはこれらの曲は、みな「短調」なのだ。

「長調」「短調」の詳しい説明は、
ここでは端折るが、
音階の説明に触れずに
両者を簡単に表現しようとすると

 「長調」=明るい曲
 「短調」=暗い曲

のように、表現されることが圧倒的に多い。

でも、
いったい誰がこんなことを言い出したのだろう?

吉松隆著
「吉松隆の調性で読み解くクラシック」
ヤマハミュージックメディア

には、こんな記述がある。
(以下水色部本からの引用)

 考えてみると、日本ではそもそも
民謡から雅楽や尺八やお琴の音楽にしても、
昔のものはほとんど「短調」でできている

「長調」のドレミファソラシドでできた音楽が
入ってきたのは、明治になって西洋音楽が
輸入されてからだ。

 演歌や軍歌もそうだし、ジャズのブルースだって
みんな基本は「マイナー(短調)」だ。

でも、それは「自然」なことで、
特にそれを「暗くて悲しい」などと思わない


むしろ西洋音楽の「長調」のネアカな響きのほうが
「不自然」?という考え方だってできそうだ。

それなのに、西洋クラシック音楽に端を発する
今の音楽では、なぜか
「長調」のドレミファソラシドが
まるで「王様」みたいな扱いだ。
なぜこれが世界的な標準になってしまったのだろう? 
何か理由があるのだろうか。

「長調」を英語では「major(メジャー)」
「短調」を「minor(マイナー)」と言うことからも、
「長調が主」であることは強く感じられるが、
我々の身近には短調の曲はすごく多い。

しかも、応援曲を聞けばわかる通り、必ずしも
短調が、暗かったり悲しかったりするわけではない。

 

久しぶりに会った学生時代のブラバン仲間に、
野球応援の曲って、短調が多かったよね、
の話をしたら、
「長調」「短調」の話題でおおいに盛り上がった。

そんな楽器仲間からのコメントもまとめると...

元気のいいピンクレディ関連でも
 「サウスポー」の他
 「ペッパー警部」
 「UFO」
 「サウスポー」
 「渚のシンドバッド」
 「カルメン77」
は短調だし、
運動関連では
 「ロッキーのテーマ」
 「巨人の星」
 「アタックNo.1」
 「あしたのジョー」
 「タイガーマスク」
 「柔道一直線」
も短調。

短調っぽくない歌謡曲
 「勝手にシンドバッド」
 「およげたいやきくん」
 「勝手にしやがれ」
 「春一番」
なども短調。

「♪今日は楽しいひなまつり」の歌詞の
 「ひなまつり」
「♪明るく、明るく、走るのよ~」の歌詞の
 「東京のバスガール」
も楽しかったり、明るかったりと
歌っていながらこちらも短調。

 

一方で、
 ショパン 「別れの曲」
 ビートルズ「イエスタデイ」
 夏川りみ 「涙そうそう」
 一青窈  「ハナミズキ」
などは、短調のようで実は長調。

 

こうして改めて並べてみると、

 「長調」=明るい曲
 「短調」=暗い曲

が調の表現として、
あまりにもフィットしていないことは明らかだ。

「長調」と「短調」を的確に表現する
もっといい言葉はないものだろうか?

 

<楽しいオマケ>
上のやり取りをしている間に、
ブラバン仲間がリコーダで
「長調⇔短調」変換芸を披露してくれた。
いつもとは違う調でお楽しみ下さい。

【巨人の星:フェードアウト版】

 

【背くらべ】

 

 

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2016年8月14日 (日)

日本語が漢語に影響を与える?

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日本語が漢語に影響を与える?

- 外来語を取り込む4つの方法 -

 

前回
漢語は一字一字が意味をもっていて、
ひらがなやカタカナのような
単に音だけを示す字がないため、
他語を音のまま取り込むことに
非常に不器用だ、という例を示した。

 

前回に引続いて
高島俊男さんの
「漢字と日本語」 (講談社現代新書)

をテキストに
もう少し漢語における外来語を見ていきたい。

(以下、水色部は本からの引用)

 

【特殊な形声字】
前回
駱駝などの特殊な形声字の例を示したが、
他語を漢語に取り入れる際、
すべてこのように形声字を
新造したわけではもちろんない。

【漢字を使った意訳】
一般に多いのはもちろん意訳。
ポケットを「口袋
タオルを「手巾
バスを「公共汽車
などなど。

【音訳】
最初に書いた通り、
漢語の音表記の不器用な性格ゆえ、
音を真似る、純音訳語はそう多くはない。
チョコレートを「巧克力
マラソンを「馬拉松
などなど。

ただ、音訳とはいえ、
ちゃんと考えられたもののようだ。
こんなコメントをしている。

しかし日本語の
チョコレートやマラソンとは感じがちがう。

「巧克力」は
「これを食えばおいしくて
 しかもしっかり力がつくぞ」という
印象(連想)が働かないだろうか。

「馬拉松」は
「馬が松の木をひっぱってる、
 しんどそうだなあ、先が長いぞ」という
感じがしないだろうか。

(中略)

見るほう(聞くほう)は
そういう感じを受けがちである。
訳した人も多少そこを狙っているかもしれない。

 

実は、上に挙げた、
形声字、意訳、音訳、以外に
漢語ならではの外来語の取り込みルートがある。

それは、なにか?

そう、
【日本語からの取り込み】だ。

言うまでもなく、日本語は漢語から
永年、圧倒的に大きな影響を受けてきた。
ところが、ある時期から
興味深い言葉の流れが発生するようになる。

 漢語 ⇒ 日本語

のルートで、漢語から
多くを取り入れてきた日本語が、
逆に漢語に影響を与えるようになるのだ。

音表記が不器用ゆえ
 英語 ⇒ 漢語
が難しかった漢語への、
たとえば英語の取入れが
 英語 ⇒ 日本語 ⇒ 漢語
で進み始める。

日本人が英語を、意味まで考えて、
漢字を使った語に変換していったからだ。

ヘルス(health)を訳した「健康
ナウン(noun)を訳した「名詞
ポジティブ(positive)を訳した「積極(的)
などの例を挙げている。
(ちなみに、積極的の的(てき)は、
 英語の-ticを音訳した日本語らしい)

こういった日本語からの外来語は
「何千語とあるんじゃないか」とのこと。

では、そのような大きな流れが
発生するきっかけは
いったい、何だったのだろう?

歴史的な背景を含めて見てみよう。

 

【日本語が中国に入っていく】

 日本では中国から入った言葉は外来語としないが、
中国では日本から入った言葉は外来語である。

日本に中国語が入ったのは
非常に古くからであるに対して、
中国に日本語が入ったのは比較的新しく、
おおむね19世紀末以後だから
だろう。

日本に入った中国語は大部分根っからの中国語だが、
中国に入った日本語は多くが西洋からの語である。

なぜ、19世紀末以後に、日本語が中国に
流れ込んでいくことになるのだろう。

 

【日本語が持ち込まれたきっかけ】

 中国は日清戦争に負けて
世界の大勢におくれを取ったことに気づき、
西洋の知識・科学技術を学ばせるため
多くの若者を海外に派遣し始めた。

ごく上層の家の子弟は欧米へ行ったが、
大多数は日本へ来た。

中国から見て日本はいろいろ
いいことがある。

(中略)

西洋の知識や技術を
要領よく取り入れている。
しかもそれを「健康」「名詞」のごとく
漢字にしてくれているからとっつきやすい。


そこで富裕ではないが
選り抜きの賢い中国青年が多数東京へ来て、
日本語で西洋を学び、持ち帰った


東京で先生の話を聞いたり、
話したり読んだりしていた日本語も
一緒に帰った。
外来語である。

日本に学びに来た中国人の若者が、
帰国と一緒に中国に持って帰った。

日本語が漢語に影響を与えるきっかけは、
こんなところにあったのだ。

 

 

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2016年8月 7日 (日)

音だけを示す字がないと

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音だけを示す字がないと

- 漢語における外来語 -

 

講談社のPR誌「本」の連載をまとめた
高島俊男さんの
「漢字と日本語」 (講談社現代新書)

を読んでいたら、外来語について
ちょっと興味深い話があったので、
今日はその部分を紹介したい。

(以下、水色部は本からの引用)

 

【一語、一音節、一文字】

漢字は漢語(チャイニーズ)を表わす文字である。
漢語は一語が一音節、漢字はそれを一字で表わす。
つまりどの字も一語であって、
固有の意味を持っている


それを自由に組合わせて無数の表現が可能である。

まずは漢語のもっとも大きな特質を。
一語、一音節、一文字、
どの字にも意味がある、がポイント。

 

【音だけを示す字がない】

 しかしそれだけに、
他語の表記にはヨワい
俄然不器用になる。

それは、
字が一つ一つみな漢語の意味を持っていて、
単に音を示す字がないからである。

他語は、字が意味を持つという特性を捨て、
音だけの字として用い、取り入れるほかない。

日本語のひらがなやカタカナのように
音だけを示す文字がないため、
外からやってきた言葉に対して、
「音だけを写す」ことができないわけだ。

 

【字が意味を捨てた例:駱駝】

 たとえば駱駝。ラクダである。
音ラクタ(推定中古音。以下同じ)。

駱の字は昔からあって意味があったようだが、
ラクダが中国に伝えられてからは
「駱駝」二字ひとかたまりで
ラクダ専用になった


各一字が固有の意味を持たない。
二字で一語、ラクダである。
他の語のラクの音、タの音の表記に
使い回されることもない。
非能率な字である。

他にも、

 蟷螂 カマキリ 音タンラン
 蜻蛉 トンボ  音センテン
 蟋蟀 コオロギ 音シッシッ
 蜘蛛 クモ   音チチュ

などが「二字で一語をなす」、
一字では独立して意味も持ち得ない例として
紹介されている。

それにしても「その語専用の字」
他に使えない字、というのは
あまりにも効率が悪い。

こういうのと、漢語固有の小動物名、
蚊、蛇、蝉などとは明らかに語形が異る。

(中略)

これらの字はすべて形声字である。
二部分より成り、
一部分が意味領域を示す(馬、虫、草など)。
一部分が昔(多分原語音に近い音)を示す。

外来語が来るたびに、専用の文字を
作り続けるわけにもいかないだろう。

逆に、
英語のように「音の写し」しかできないと、
sushi(寿司) も judo(柔道) も
teriyaki(照り焼き) も miso(味噌) も
音のまま取ってくるしかないわけで、
実際、いまではそのままの発音が
英語としても十分通用する。

そもそも、
外来語を取り入れるのに、
「音の写し」以外に
どんな方法があるだろうか。

「pen」を「ペン」と表記することだけが、
他語を自分の言語に
取り入れる方法だろうか。

「どの字も一語であって、
 固有の意味を持っている。
 音だけを表す文字がない」
そんな漢語に外来語を取り入れる方法。

 

この話、もう少し続けたい。

 

 

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