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2016年7月

2016年7月31日 (日)

ピアノの『響き』を作り出しているもの

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ピアノの『響き』を作り出しているもの

- 中村紘子さんの訃報にふれて -

 

2016年7月26日、
ピアニストの中村紘子さんが亡くなった。
享年72。

中村さんは、ピアノ演奏だけでなく、
エッセイでも素敵な作品を数多く残している。
この「はまめも」でも

ピアニストには三種類しかいない
あらゆる場所が物語の力を秘めている

などで引用させていただいた。

個人的には以下の三冊がお薦めだ。

エッセイでその記述を読んだことはないのだが、
実は、中村さんというと
ある対談番組で聞いた話が、
非常に強く印象に残っている。

その時は、まさに御専門、
ピアノの音についての話だった。

今日は、その話を紹介したい。

 

予備知識として必要なのは、
「ピアノの構造」と「共振(共鳴)と倍音」

最初に、ピアノの構造を復習しておこう。
ピアノは簡単に書くと、
下記のような構造になっている。

Pianodamper

通常は、ダンパーが弦に接触していて、
弦の振動を抑えている。
(弦が鳴らないようにしている)

音が出る仕組みは、
① 右側、鍵盤をたたくと
② 鍵の左側が上がり、
  ダンパーが弦から浮き上がる。
  (弦が鳴る状態になる。開放弦)
③ ダンパーが離れた弦をハンマーが打つ。
  (この時、弦が震えてポォーンと音がでる)
④ ハンマーは弦を打ったあとすぐに元の位置に戻る。
⑤ 鍵盤から指が離れると、ダンパーが下がって
  再び弦と接触し、音を止める。

つまり、鍵盤をたたき指を離す、の動作のうちに、
 ダンパーが上がり、
 ハンマーが弦を打ち、
 ダンパーが下がる
が繰り返されている。

ポイントは、ハンマーが弦を打って音を出したあと、
ダンパーが上がっている間は、
つまり、鍵盤が下がっている間は、
弦が振動し続けているということ。

その後、鍵盤から指を離すと
ダンパーが下がって弦を強制的に抑えてしまうので、
その瞬間、音は消えてしまう。

(ピアノには、鍵盤の状態と関係なく、
 ダンパーを一斉に弦から浮かす
 サスティンペダルというペダルもあるが
 今回の話ではそこには触れない。

 あくまでも、
 鍵盤の上下とダンパーの上下が
 連動している範囲で話を進める)

 

もうひとつの予備知識は共振(共鳴)と倍音

共振(共鳴)は、
だれもが小学校の時に
音叉の実験で経験しているはず。
一つの音叉1を鳴らし、
同じ高さの音の音叉2を近づけると、
音叉2が鳴り始める、あれ。

音叉に限らず、
同じ固有振動数を持つものは
共振して鳴り始める、
というのが理科的な説明だが、
簡単に言うと、
「ド」が鳴っているときに、
「ド」の開放弦を近づけると、
その弦も振動を始める、ということ。

倍音のほうは、
正確に話そうとすると、周波数だの、
純正律だの平均律だのに触れねばならず
かなり面倒なのだが、
こちらも思い切って簡単に言ってしまうと、
「ド」の音を鳴らしたときは、
「ド」の音だけが鳴っているわけではない
ということ。

「ド」の倍音となる
「ソ」や「ミ」や「シ♭」などが
一緒に鳴っている、というか含まれている。

なので「ド」が鳴っているときに、
倍音にあたる「高いミ」の弦を近づけても
「ミ」の弦が共振(共鳴)して鳴り始める。

 

以上で、準備OK。

ここからは、
簡単な実験をしてみたい。

グランドピアノでもアップライトピアノでも、
アコースティックのピアノが身近にあれば、
1分もかからない実験なので、ぜひお試しあれ。

(a) 右手で「ド」を強く叩き、
  音の『響き』を聞く。
その後、
(b) 左手5本指で低い「ド」を含む
  いくつかの音をジャーンと鳴らす。
(c) 左手の指は鍵盤から離さずに
  そのまま押し下げたまま、
  音が消えるのを待つ。
(d) 音が消えたら、左手はそのままで、
  (a)と同じ「ド」をもう一度強く叩き、
  (a)の響きと聞き比べる。

(a)でも(d)でも、音を出したのは
右手による「ド」の一音だけだが、
これ、だれが聞いてもすぐにわかるくらい
「ド」の響きが全然違う。

理由は簡単。
左手側の弦が共振(共鳴)するからだ。

(d)直前、
左手は鍵盤を押し下げたままのため、
ダンパーは上がったまま。
ピアノの内部には「5本の開放弦」が
存在していることになる。

その状態で、右手による「ド」が鳴ると、
開放弦の何本かが共振(共鳴)して、
鳴りだしてしまう。

つまり、(d)においては、
開放弦がなかったときの(a)の時とは、
振動している弦の数が全然違うのだ。

それが響きの違いを生み出している。

(d)の音を聞いている途中で、
左手を鍵盤から離して(ダンパーを下ろし)、
左手の弦の共振(共鳴)を止めると、
びっくりするくらい音が変わる。
(a)の響きに戻る、とも言えるけれど。

つまり、
音を出した
右手の「ド」の『響き』を決めていたのは、
音を出さずに
ただ鍵盤を押さえていただけの左手、
ということになる


これは確認のための簡単な実験だが、
実際の演奏では、これが10本の指の間で
絶え間なく起こることになる。
ある音が鳴ったその瞬間、
どの弦が共振する状況にあるのか。

 

中村さんは、
上記のことを素人にもわかるように
要領よく説明したあと、

「『音を出すタイミング』は、
 鍵盤をいつ叩くか、で決まる。

 しかし、叩いた指をいつ鍵盤から上げるか、
 つまり、いつまで開放弦を作って
 ほかの音に共鳴させるか、で
 『響き』のほうは全然違ってくる。

 音を出していない指が『響き』を作り、
 音楽を作っている


 指を上げるタイミングの違いが
 演奏にどんな変化を与えることになるのか、
 それがわかるようになってくると、
 練習時間は何分あっても足りなくなる」

そんなコメントをしていた。

もちろん素人の私には、
そんな細かな聞き分けはできないけれど、
プロがどんな思いで演奏に向き合っているのかを
シンプルかつreasonableな実験と共に知った
忘れられない体験だった。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

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2016年7月24日 (日)

ディープラーニングの衝撃

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ディープラーニングの衝撃

- もう研究者としてやっていけない -

 

前回、機械翻訳を例に、
人工知能研究の難しさを、

松尾豊著
「人工知能は人間を超えるか
 ディープラーニングの先にあるもの」
角川EPUB選書

から紹介し、最後にこう書いた。

ネコの写真を見たとき、
写っているのはネコだ、と理解するためには
「ネコというのはこういうものだ」を
知識として持っている必要がある。

だから、
「知識をどう与えるか」に
「知識をどう記述するか」に、
多くの人が悩み、取り組んでいた。

この場合の知識とは、
「ネコの特徴をどう捉えているか」
ということになる。

「耳が三角で、ヒゲがあって、・・・」
などなど、「人間の」知識として存在する
ネコの特徴というのは確かにある。

この特徴量を、人間が与えるのではなく、
機械学習の中で
自動的に取得しよう、というのが、
今の人口知能を語る上での
ホットなキーワード
「ディープラーニング」だ。

それがどんなものなのか、
の詳しい説明は本に譲るが、
この本では、
「ディープラーニング」が
人工知能の世界に
実績を伴って登場したときの衝撃が、
印象深く語られている。

どんな登場の仕方だったのか。
今日は、その部分を紹介したい。
(以降、水色部は本からの引用)

 

【人工知能研究における衝撃】

2012年、
人工知能研究の世界に衝撃が走った


世界的な画像認識のコンペティション
「ILSVRC(ImageNet Large Scale
 Visual Recognition Competition)」で、
東京大学、オックスフォード大学、
独イエーナ大学、ゼロックスなど
名だたる研究機関が開発した人工知能を抑えて、
初参加のカナダのトロント大学が開発した
SuperVisionが圧倒的な勝利
を飾ったのだ。

ILSVRCというコンペでは、
いったいどういうことを競うのだろう?

 

【競うのは正解率】

 このコンペでは、
ある画像に写っているのがヨットなのか、
花なのか、動物なのか、ネコなのかを
コンピュータが自動で当てるタスクが課され、
その正解率の高さ(実際はエラー率の低さ)を
競い合う


1000万枚の画像データから機械学習で学習し、
15万枚の画像を使ってテストをして、
正解率を測定する。

画像を見て写っているものを当てる。
見るのは15万枚の画像!
テストの概要は簡単なものだ。

 

【コンマ%にしのぎを削る】

それまで、
画像認識というタスクで
機械学習を用いることは常識であったが、
機械学習の際に用いる特徴量の設計は、
人間の仕事であった


各大学・研究機関はコンマ何%の精度で
エラー率を下げるためにしのぎを削り

そのために、画像の中のこういう特徴に
注目するとエラー率が下がるのではないかと
試行錯誤を重ねてきた。

「ヨット」の特徴とは何か?
何を見て「ヨット」と判断しているのか?
特徴量の設計とは、まさにこの点を記述し
システムに教えることだ。

 

【26%台での攻防になるか?】

 機械学習といっても、特徴量の設計は
長年の知識と経験がものをいう職人技である。

職人技により、機械学習のアルゴリズムと
特徴量の設計が少しずつ進み、
1年かけて
ようやく1%エラー率が下がる
という世界だ。

その年もエラー率26%台の攻防のはずだった。

そして、いよいよコンペ。
2012年の結果は以下の通り。
本には数値による一覧表しかなかったので、
その数字を元にグラフ化してみた。

予想された26%台の攻防とは、
青枠の部分。
 26.172%
 26.602%
 26.646%
 26.952%
まさに1%以下の戦いになっている。

そこに登場した赤枠!
トロント大学のSuperVision!

Deepl1

【桁違いの勝利】

その世界で少しずつ性能を上げていくには、
気の遠くなるような努力が要求される。

 ところが、
2012年に初参加してきたトロント大学は、
ほかの人工知能を10ポイント以上引き離して、
いきなりエラー率15%台をたたき出した。

文字通り「桁違い」の勝利だ。
これには長年、
画像認識の研究を進めてきたほかの研究者も
度肝を抜かれた

26秒台で競っていた競技に、
いきなり15秒台の選手が登場したようなものだ。
そりゃぁ「度肝を抜かれた」ことだろう。

 

【ディープラーニング勝因と桁違いの勝利】

 何がトロント大学に勝利をもたらしたのか。
その勝因は
同大学教授ジェフリー・ヒントン氏が
中心になって開発した
新しい機械学習の方法
「ディープラーニング(深層学習)」だった。

ディープラーニングの研究自体は
2006年ごろから始まっているが、
それまで画像認識の各研究者が培ってきた
ノウハウとはまったく別のところから参入して、
いきなりトップに躍り出たのだから、
その衝撃たるや、大変なものだった。

画像認識の研究者の中には、
「もう研究者として
 やっていけないのではないか」
と危機感を覚えた人も少なくないと聞いている

26秒台で苦労していた選手が、
15秒台の選手と会ってしまえば、
「もうやっていけないのではないか」と
思う衝撃は理解できる。

「人間の」知識を与えるのではなく、
コンピュータが学習を通して
「自ら」知識を獲得する。

その手法の一つとして登場した
「ディープラーニング」

画期的ではあるが、
これが完璧な解というわけでは
もちろんない。

松尾さんは、こんな言葉で
その価値を表現している。

 

【大きな壁に穴を穿った】

 とはいえ、ディープラーニングによって
人工知能が実現するというのは短絡的すぎるし、
いまのディープラーニングは
足りないところだらけだ


しかし、ディープラーニングが
「単なる一手法」だと考えるのは、
これまた技術の可能性を見誤っている。

ディープラーニングは、
人工知能の分野でこれまで解けなかった
「特徴表現をコンピュータ自らが獲得する」
という問題にひとつの解を提示した。

つまり、大きな壁に
ひとつの穴を穿った
ということである。

これがアリの一穴となり、
ここから連鎖的にブレークスルーが
起こっていくかどうかが、
今後注目すべき点である。

 

 

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2016年7月17日 (日)

機械翻訳の困難さ

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機械翻訳の困難さ

- 一般常識がなければうまく訳せない -

 

囲碁といい、将棋といい、
車の自動運転といい、
ここのところ「人工知能」に関する
ニュースは賑やかだ。

「人間を超えたら」といった問いが、
笑い話にならなくなりつつある分野もあり、
純粋な技術以外での話題も多い。

大きな書店では、
人工知能関連書籍のコーナを
目にすることも多くなってきた。
ところが、一種の「流行」の宿命か、
内容のほうは
キーワードを並べただけの
薄いものも多い。

そんな中、人工知能研究の
ど真ん中にいる専門家が
その歴史と課題を
わかりやすく説いた
この本はお薦めだ。

松尾豊著
「人工知能は人間を超えるか
 ディープラーニングの先にあるもの」
角川EPUB選書


本からいくつかエピソードを
紹介したいと思っているのだが、
まず最初に
人工知能の前提というか出発点を
はっきりさせておきたい。
(以下水色部、本からの引用)

人工知能をつくるときに、
よくたとえられるのが、
飛行機の例である。

人間は昔から空を飛びたいと思っていた。
鳥のまねをするような「はばたく」飛行機を
何度もつくろうとしたが失敗した。

そして初めて成功したライト兄弟の飛行機は、
エンジンを積んだ「はばたかない」飛行機であった。

つまり、生物をまねしたいと思っても、
必ずしも生物と同じようにやる必要はないのだ。

 飛行機の場合は、
鳥が飛ぶための「揚力」という概念を見つけ、
揚力を得るための方法
(エンジンで推進力を得て、
 翼でそれを揚力に変える)を
工学的に模索すればよかった。

人工知能においても、知能の原理を見つけ、
それをコンピュータで実現すればよい。

それが人工知能という領域の
そもそもの出発点である。

ポイントは、
生物が持っている知能の仕組みそのものを
真似しようとしているわけではないという点だ。
ちょっと頭のすみに置いておこう。

 

では、具体的な例として
人工知能研究の一分野、
「機械翻訳」をとりあげて
その実現の困難さを少し覗いてみたい。

たとえば、こんな例文を考えてみよう。

He saw a woman in the garden with a telescope.

(逐語訳をすると
 「彼 見た 女性 庭の中で 望遠鏡で」となる)

 たいていの人は、これを
「彼は望遠鏡で、庭にいる女性を見た」
と訳す。
読者の方も
おそらくそう読んだのではないかと思う。

 

これをグーグル翻訳で訳してみると...

 ところが、実は、この解釈は
文法的には一意に定まらない
のである。

庭にいるのは彼なのか、それとも女性なのか。

望遠鏡を持っているのは彼なのか、女性なのか。

実際、グーグル翻訳では、
「彼は望遠鏡で庭で女性を見た」と訳される。
庭にいたのは女性ではなく彼だと解釈している。

ところが、人間にとっては、
これはちょっと不自然である。

何となく
「彼は望遠鏡で景色を見ていたところ、
 たまたま庭にいる女性を見つけて
 心惹(ひ)かれている」
というシチュエーションが思い浮かぶ。

だから、「女性は庭に」いなくてはいけないし、
「彼は望遠鏡で」
覗き見していないといけないのである。

 

訳が自然な感じ、はどこから来るのだろう?

 なぜ人間にわかるのかといえば、
それまでの経験から
「何となくそのほうがありそうだ」
と判断しているだけで、説明するのは難しい。

これをコンピュータに教えようとすると、
「望遠鏡で覗いているのは男性のほうが多い」、
あるいは
「庭にいるのは女性のほうが多い」
というような知識を入れるしかない。

 この場合だけに
対処すればいいのであれば簡単だが、
同じことがあらゆる場面で発生する。

庭ではなく、山にいるのは
男性が多いのか女性が多いのか。
川にいるのは男性が多いのか女性が多いのか。
あるいは、外国人が庭にいるのは
不自然なのかそうでないのか。

相撲取りが庭にいるのは
不自然なのかそうでないのか…。

そうしたあらゆる事態を想定して、
必要となる知識を入れる作業がいかに膨大で、
いかにばかげたことか、容易に想像できるだろう。

 単純な1つの文を訳すだけでも、
一般常識がなければうまく訳せない

ここに機械翻訳の難しさがある。

一般常識をコンピュータが扱うためには、
人間が持っている
書ききれないくらい膨大な知識を扱う必要があり、
きわめて困難である。

同じような例で
こんな日本語の例文を見た覚えがある。

「黒い瞳の大きな女の子」

これも
黒いのは  瞳なのか、女なのか、
大きいのは 瞳なのか、女なのか、
子は、女の「子」なのか、「女子」なのか?

文法的に解釈できる解を考えると
意味は一意には限定できない。

では、次の場合ならどうだろう。
文法的には全く同一の構文だ。

「黒い排気量の大きなトヨタの車」

並べてみよう。

 (1)「黒い 瞳 の大きな 女 の子」
 (2)「黒い排気量の大きなトヨタの車」

(1)が上で述べたように、
意味が一意に定まらないことに対し、
(2)の解釈には全く迷わない。
それはなぜか。
まさにそれを支える
一般常識と呼ばれる知識があるからだ。

この「知識」の部分をどう扱うかが、
人工知能研究の最も大きな課題のひとつであり、
またおもしろいところでもある。

「知識」を詳述すればキリがなくなり、
荒く記述してもOKということにしてしまうと
それ故に精度が上がらなくなってしまう。

松尾さんも書いている通り、
そもそもそんなことを
入力することができるのだろうか?
という疑問もある。

 

「知識」の扱いは、
もちろん自動翻訳に限らない。

ネコの写真を見たとき、
写っているのはネコだ、と理解するためには
「ネコというのはこういうものだ」を
知識として持っている必要がある。

だから、
「知識をどう与えるか」に
「知識をどう記述するか」に、
多くの人が悩み、取り組んでいた。

そこに、ある画期的な技術が登場することになる。

長くなって来たので、続きは次回に。

 

 

 

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2016年7月10日 (日)

さっと手の挙がる英語社会

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さっと手の挙がる英語社会

- 内容よりも優先順位の高いこと -

 

英語とわたし (岩波新書)
岩波新書編集部 (編集)

から、筑紫哲也さんが書いた エピソード
紹介したことをきっかけに、
いくつか英語に関するネタを
思い出すままに書かせていただいた。

ここで、
同じ本に収められている
鴻上尚史さんの
「海外で生き残るための英語」
一部を紹介して、英語ネタの一区切りとしたい。
(以後水色部は本からの引用)

鴻上さんは、
日本で教育を受けた人が、
英語圏の人と接するようになったとき、
だれもが戸惑うあるポイントを、
実に要領よく、かつわかりやすく
書いてくれている。

そして、そのことを、
「海外で生き残るためのヒント」
とまで言っている。

 

 最後にもうひとつ、
海外で生き残るためのヒントを
書いておきます。

 僕が日本でワークショップや講演会をした後、
「なにか質問はありますか?」と聞くと、
たいてい、参加者の人は下を向いて黙り込みます。

海外で講演会をした時、
「質問はありますか?」と聞くと、
何本もの手がさっと上がります。

一般的には、
「だから、日本人はだめなんだ」
と言われたりしますが、
これには理由があると思っています。

「質問は?」に
下を向く日本人、
さっと手が挙がる欧米人。

まさに多くの場面が思い浮かぶ。
さて、「理由」とはナンだろう。

 

 

僕達は、
「質問がありますか?」と聞かれると、
内心、
ちゃんとした質問をしないといけない
と思っています。

質問は質問でも、
「ちゃんとした」質問をしないといけないんだ、
と刷り込まれているのです。

欧米では、何かを見たり経験したりしたら、
「あなたは他の誰でもないあなたなんだから、
 あなたなりの感想があるはずだ」
という刷り込みがあります。

だから
「質問はありますか?」と聞いても、
感想を語る人が後を絶ちません


日本で言えば、
「それは質問じゃなくて、感想じゃん」
という一番、突っ込まれることを、
みんな平気でします。

自分が自分であるためには、
 思った事を言うこと

が求められているからです。

「ちゃんとした質問をしないといけない」
というプレッシャー、
一方で、
(内容がなんであれ)
「発言すること」に意味がある、という価値観。

私自身の体験に照らし合わせても
おもわず「そうそう」と声に出したくなるような
首肯できる話だ。

 

 

質問があっても、鋭い質問はマレです。
きわめて平均的な質問です。

ただ、平均的な質問をして、他の人達が
「あ、私も同じ質問をしようと
 思っていたのよ」
とうなずくのです。

で、なにが言いたいのかというと、だから、
「欧米で、英語が下手な結果、
 トンチンカンな事を言っても、
 大した問題じゃない」ということです。

大変なのは、日本に来ている外国人なのです。
日本語を勉強しようとして来ている外国人が、
日本語で変な質問をしたら、日本社会は、
「質問するなら、ちゃんとした質問しろよ。
 そんなことは、みんな分かってるんだよ」
と突っ込まれる可能性が大きいのです。

が、欧米社会では、質問にならず、
感想をえんえん語っても
(それが凡庸な感想でも)
全然、オーケーなのです


だって、その本人がそう感じたことは、
必ず、尊重されるからです。
内容ではありません。
語るということが尊重されるのです

「内容ではありません。
 語るということが尊重されるのです」
と言い切っているが、ここがポイントだろう。

 

 

 なので、英語をしゃべる時には、
日本社会にいる感覚とは違う感覚を持つことです。

それは、
「あなたがしゃべることが尊重される」社会
ということです。

もちろん、その結果、
アメリカやイギリスの大学の授業では、
他の生徒がうんざりしているのに、
自分の質問だけをえんえん語る生徒、
なんてのが頻出します。
しかし、それもアリなのです。

 恥ずかしがることはありません。
あなたが英語でしゃべることは尊重されるのです。
勇気をもって、英語をしゃべって下さい。

「黙っている」よりも「語る」ことが
尊重される社会。

「外国語ができる」とは、
単に「翻訳」ができる、できないの能力だけを
指しているのではない。

特に「会話」においては、
そういった相手の「価値観」に気づくことこそが
「言葉」以上に重要な気がする。

「会話」が成立してはじめて
「コミュニケーション」
できたことになるのだから。

 

でも、これ
ちょっと冷静に考えると、
外国語に限った話ではない。

「日本人同士だから通じているはず」が
通用しないときも、多くの場合、
「日本語」ではなく
「価値観」がわかっていないことが
原因だったりするので。

 

 

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2016年7月 3日 (日)

「ひでえ書物を読了いたしました」?

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「ひでえ書物を読了いたしました」?

- 俗語が使えることが「できる」こと? -

 

英語ネタが続いてしまったが、
もうひとつ、
「忘れないようにしよう」
と思っている文章がある。

留学先での自身の奮闘を
藤原正彦さんが書いた
「若き数学者のアメリカ」新潮文庫

の一節。(以下水色部、本からの引用)

英語の習得に
積極的に取り組んでいた藤原さんは、
留学先のアメリカで、
「文章ごと覚えないと
 どうにもならない決まり文句」を
現地の発音のまま、徹底的に勉強し
体得しようとしていた。

私はそんなものに出会うと、
アパートに戻ってから忘れないうちに、
ノートに書き留めることにしていた。

また、覚えたら、
なるべく実地で使うよう心がけた。

そして発音する時には、
徹底的にアメリカ人の真似をした


例えば右の

"You've got to be kidding." は

ユーガタビーキディンという具合に。

この"貪欲に覚え、臆せず真似をする"
という作戦は功を奏し、
他の人より速く会話に上達したようである。

「貪欲に覚え、
 臆せずアメリカ人の真似をして
 実地で使う」
その結果、人より速く会話も上達する。
すばらしい学習方法であり成果だ。

ただ、この上達を、
藤原さんは冷静に分析している。

しかし、今、その頃のことを考えると、
気恥ずかしさを禁じ得ないのも事実だ

当時の私の話し方は、きっと、

「私は昨夜、ひでえ書物を読了いたしました」

といったものだったに違いないからだ。

単語や句、文の選択が、
その言葉の意味だけでは決まらず、
会話の内容、雰囲気から
相手の教養、育ち、宗教などにまで
深く関わっている、という当然のことを
軽視していた。

だから、日本式に発音された
正統的イギリス英語の中に、
いきなり現代アメリカ俗語が
キザな発音で現われ出たりした。

そこには、
自分は外国人であるから許されるだろう、
という甘えもあった。

そして同時に、自分が外国人であることを
忘れていたとも言える。

外国人は、「ひでえ」「ズラカル」
「おちゃのこさいさい」などの言葉は、
知っていた方が便利としても、
自ら使う必要は全くないし、
むしろ使用しない方が
はるかに賢明なのである


日本人は
アメリカ人と同じ英語を話す必要はない。

正確な英語さえ話せれば、
意思の疎通は、その深い意味においてでも、
完全に可能である


しかしこの事実を理解したのは、
かなりの月日が経ってからだった。

俗語が使えるとツウっぽい感じがするけれど
それが「英語ができる」ということじゃない。

正確な英語をキッチリ話せれば、
意思の疎通はその範囲で完全に可能。
もちろん私自身は、とてもそのレベルではないが、
外国語を学ぶものにとっての名言だと思う。

そもそも正確でキッチリした英語は美しいし。

 

この本、個人的には
著者の大ベストセラー「国家の品格」なんかよりも
ずっとおもしろい傑作だと思っている。

アメリカという未知の世界に飛び込んだ著者の
劣等感、好奇心、疎外感、プライド、対抗心、挑戦心。
「異文化」との交流のおける自身の変化が
ほんとうに生き生きと描けている。

35年も前の本だが、いつ読み直しても楽しい。
「若いときならでは」の気持ちが蘇ってくる。
お薦めだ。

 

 

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