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2016年5月29日 (日)

国境線の持つ意味

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国境線の持つ意味

- 国の境になるべきものは -

 

前回に引続き、
4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見
「アフリカは今 カオスと希望と」

のテキストを中心にアフリカの歴史と今を
もう少し見てみたい。

講師はジャーナリスト松本仁一さん。

NHKカルチャーラジオ 歴史再発見
アフリカは今 カオスと希望と

NHK出版

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)


前回書いた通り、
かつてアフリカで繁栄していた
ガーナ、マリ、モノモタパ、
などの王国は、どこも
治安の維持された安定した国家だった。

それが、どうして、
現在の混乱したアフリカの国々に
繋がっていくことになるのだろう?

【アフリカにあの男が到着】

1497年、ポルトガルの航海者
パスコ・ダ・ガマ
インド航路開発のため
二隻の艦隊でリスボンを出発し、
喜望峰を回ってインド洋に出た。

アフリカ東海岸で最初に寄った港は、
今のモザンビークのソファラだと
見られている。

ガマが寄港したソファラ。
そこで彼が見たものは。
そこで彼が受けた扱いは。

 

【みすぼらしいポルトガルの船】

当時のソファラ港は
モノモタパ王国の支配下にあり、
アラブ人商人と交易して栄えていた


ガマはポルトガル国王に
こう報告している。

「われわれが入港すると、
 回りには倍以上もある
 大型のアラブ船が何隻も停泊していた。
 われわれの船は
 みすぼらしいほど小さかった


 黒い人々は、
 故国ポルトガルより
 はるかに洗練された街に住み、
 豊かな生活をしている

ポルトガルの船が
みすぼらしく見えるほどの活気ある港。
ポルトガルより洗練された豊かな生活。
欧州に比べて、遅れているどころか
ずっと進んだ国だったのだ。その時は。

 

【野蛮な異国人扱いのポルトガル】

ガマは港の役人に、
水と食料の購入の許可を求める。
しかし港の役人はちっとも来ない。
さんざん待たされて
やっと役人が乗船してきた。

「役人は青い絹の服、
 絹の帽子を身につけ、
 堂々とした態度だった。
 われわれが贈り物を差し出すと、
 中を改めもせず
 後ろの召使にやってしまった。

 われわれは野蛮な異国人として
 無視された

 

【平和に続いていたアラブとの交易】

アラブとの交易は、
長年にわたって平和的に続いていた


その交易で
大きな富を蓄えていたアフリカの王は、
西欧のみすぼらしい船など
相手にもしなかったのだ。

アラブとの平和な交易で栄えていた港。
「みすぼらしい」船から、
それを初めて見たガマは、
その後いったいどうしたか?

なんということか・・・

 

【ポルトガルの二度目の訪問】

しかしポルトガルは、
次回は20隻に上る大艦隊を送る。
艦隊には100門もの大砲が
積み込まれていた

モザンビークは
その武力攻撃の前に
なすすべもなく屈服し、
占領支配される。

以後5世紀にわたって
植民地支配を受けるのである。

モザンビーク以外の他の王国も
同じ運命をたどる。
そしてポルトガルのあと、
ドイツやフランス、イギリスが続いた

ついに始まる西欧の植民地支配。

ただ、ここで注目すべきは、
植民地における
入植者の支配そのものではなく
「国境線」。

【勝手に引かれる国境線】

植民地支配の時代、
西欧列強は地勢や気候、
そこに住む人々の生活などと関係なく

自分たちの力関係で
アフリカに国境線を引いた。

ひとつの例として、
東アフリカのケニアとタンザニアの国境を
見てみよう。

インド洋から北西に
まっすぐ伸びた国境線(下図紫色の線)が
キリマンジャロ山の手前で
急に北にカーブして
クランク状となっている。

Kenya1

【ケニアとタンザニアの国境】

この奇妙な国境線は、
1884年11月に開かれた
ベルリン会議で決まった。

ベルリン会議というのは、
欧州列強によるアフリカ分割の会議で、
翌85年2月まで3か月以上も続いた
長い会議である。

その長い会議期間中に、
ドイツ皇帝のウィルヘルム二世が
誕生日を迎えた。

英国のビクトリア女王が
誕生祝いに何が欲しいか尋ねる。
すると皇帝は
「万年雪のある山を
 一つ分けてもらえないか」
と答えた。

当時、英領ケニアには
万年雪をかぶった山が三つあった。

キリマンジャロ山 (5895メートル)、
ケニア山 (5199メートル)、
エルゴン山 (4321メートル) である。

ケニアの南隣りのタンザニアに
万年雪のある山はなかった。

ビクトリア女王は
「そんなものでいいの?」と
気軽に承諾し、
一番南にあるキリマンジャロ山を
独領タンザニアに
プレゼントすることにした


それで国境が
不自然に曲がってしまったのである。

それから130年余がたった。
ケニア、タンザニアの両国は
独立したが、
国境はまだ曲がったままだ。

そこに住む部族を全く考慮しない国境線。
それは何を生むことになるのか。

【原住民の部族を無視した国境】

両国の国境は
住民の生活の都合などと関係なく、
英独の力関係だけで決まった。

国境線はあるところでは
一つの部族の
居住地区の真ん中を突っ切り

二つの国に分断した。

勝手な国境線はまた、
利害の相反する複数の部族を
一つの国の中に
取り込むことになった

一部族の強制的な分断と、
複数部族の強制的な一国化。
これでは国として「ひとつ」に
まとまるはずがない。

部族と国境線の話、
もう少し続けたい。

 

 

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コメント

こんにちは hamaさん
ご無沙汰してました。
アフリカの国境線、随分と人工的な直線が多いのは、植民地支配の名残りだとは思っていましたが、今回のエピソードは、びっくりしました。
このタンザニアとケニアの国境線は、キリマンジャロを迂回したものとは、思っていましたが、そんな話があったとは驚きです。もう20年ほど前になりますが、ちょうど地図に載っているアルーシャからナイロビまで車にのって国境を越えたことがあります。マサイの人々が放牧を行っている地域で、マサイの人たちは国境はあまり意識していないという話を聞きました。
マサイの人々を写真で撮るとトラブルになるので安易にカメラを向けないようにと言われたのをふと思い出しました。誇り高き人々という印象があります。

Khaawさん、
コメントをありがとうございます。

さすがKhaawさん、
すごいところに行ったことがあるのですね。

>マサイの人たちは国境は
>あまり意識していないという話を聞きました。
そうですか。これ、生の声として
ちょっと救われるような思いがあります。
西欧が勝手に引いた国境が原因での争いが、
少しでも避けられることを祈らずにはいられません。

>誇り高き人々という印象があります。
ぜひ、会ってみたいなぁ。
トルコの田舎町で子どもたちの顔を見たとき
強く思いましたが、今の日本人の顔って、
子どもも大人もほんとうに生気がありませんよね。
まして誇りなんて。

「いい顔」はいい!
「誇り高く生きている!」って顔にあこがれます。

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