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2015年11月

2015年11月30日 (月)

女偏(ヘン)の漢字を思い浮かべて

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女偏(ヘン)の漢字を思い浮かべて

- 昭和24年の男子校で -

 

山藤章二「老いては自分に従え」岩波書店
を読んでいたら、こんな話が出ていた。
(水色部は本からの引用)

山藤さんの中学校の授業の思い出。
国語の先生のこんな問いから話は始まる。

あるとき、いきなり、(女ヘン)の字を
片っ端から挙げてみなさい
と言い出した。

それを黒板に書いてゆく。

「好」「娘」「嫁」「奴」「妖」……

そこらへんで声がなくなった。

さあ、もう少し思い出してみよう。

「なんだ、女は身近に居るのに
 このくらいしか思い浮かばないのか」。
 おもむろに先生は〈女へン)の字を書いた。
 ついでに意味も。

 「姉」あね。
 「始」はじめる。
 「妬」ねたむ。
 「威」おどす。
 「姦」かしましい。
 「娼」あそびめ。
 「媚」こびる。
 「妨」さまたげる。
 「婦」かかあ。
 「妊」はらむ。
 「奸」よこしま。

「どうだ。ざっと読んで
 大方のイメージが湧くだろう。

 女というのはな、
 ねたんで、おどして、うるさくて、こびて、
 さまたげて、よこしまで、すぐはらむ生物だ。

 これからキミらはこういう生物と
 つき合うことになるのだから、
 くれぐれも注意するように。
 漢字は嘘をつかん。

 え? (男へン)は無いのかって? 
 無いのだよ。部首に男は無い。
 そういう意味もおいおいわかる」

 このときの授業はものすごく印象的だった。
まだ中学生の男子に、漢字のカを借りて、
女性なるものの真髄を教えてくれたのだから
この先生、
よほど身にこたえるものがあったのだろう。

今となっては
教育上ふさわしいかどうかはともかく、
人生勉強としては、後世とても役に立った。

昭和24年の男子校。
今なら問題になりそうな内容だけれど、
当時の男子校で、これはウケたことだろう。

ところで、ほんとうに
部首に男ヘンはないのだろうか。
すぐに思いつくところでは「男女男」と書く
「嬲」(なぶる)

私が愛用する漢和辞典「新字源」で調べてみると
なんとこの字も「女ヘン」に分類されている。

 

ところで、

「部首に男は無い。
 そういう意味もおいおいわかる」

と言った先生。
中学校を卒業してウン十年、
残念ながら私、
いまだに「男ヘンのない意味」は
わかっておりませぬ。

ご存知の方、いらっしゃいましたら
ぜひ教えて下さい。

 

 

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2015年11月23日 (月)

人はいかに共感しやすく作られているのか

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人はいかに共感しやすく作られているのか

- 皮膚発の無効信号とは -

 

前回取り上げた

森田真生著「数学する身体」新潮社

から、別なエピソードも紹介したい。

大きなテーマを根幹に持つ本書においては
まさにひとつの小さなエピソードだが、
脳内で発生している「共感」のメカニズムと
脳外、特にこの例においては皮膚からの信号との
興味深い関係を解明した、
たいへんわかりやすい事例になっている。
(以下、水色部は本からの引用)


まずは、人との「共感」の基本となる
ミラーニューロンの話から。

 私たちは本来、
生まれつき他者と共感する強い能力を持っている。
1996年にイタリアのジャコモ・リゾラッティらが
サルの実験で「ミラーニューロン」を発見して
話題を呼んだ。

サルがたとえば何かものを持ち上げる動作をすると、
それに伴って脳の一部分が活動をする。

ところが驚くべきことに、
その同じ脳の部位の一部分が、
他のサルが何かを持ち上げる動作を見ているだけでも
活動するのだ。

自分が運動をしているときだけでなく、
他者の運動を見ているときにも、
その運動をさも自分がしているかのように
脳が活動するのである。

このように、
他者の運動を模倣(mirror)する機構が
脳の中にあることを、彼らは明らかにした。

ここまでは、典型的なミラーニューロンの話。
研究はミラーニューロンから
さらに一歩先へと広がっていく。

 ミラーニューロンに関連して、
ラマチャンドランという脳科学者が
大変興味深い実験を遂行した。

ミラーニューロンは実は、
他者の運動だけでなく、
他者の「痛み」をも模倣する


たとえば、目の前の人の手が
金槌で思い切り叩かれるところを見たら、
こちらまで思わず手を引っ込めてしまうだろう。

目の前の人の「痛い!」という感覚を、
見ているこちら側のミラーニューロンが
コピーしてしまうからだ。

それで思わずこちらも手を引っ込める。が、
もちろん、本当に痛いわけではない

 ラマチャンドランはここに着目した。

ミラーニューロンは、他者の運動や感覚を模倣する。
他人が痛がっているときに、
自分が痛いときに活動する脳の部位の一部分が
発火している。

ならばなぜ、
こちらは本当に痛くならないのだろうか。

脳が発火しているのに痛くならない、
さぁ、どんな理由が考えられるだろうか。

 ラマチャンドランは、
手の皮膚や関節にある受容体から
「私は触られていない」という無効信号が出て、
ミラーニューロンからの信号が意識にのぼるのを
阻止しているのではないか、と推測し、
アイディアを検証するためにハンフリーという、
湾岸戦争で片腕を失った幻肢患者に協力を依頼した。

 幻肢患者は一般に、腕がないにもかかわらず、
まだそこに腕があるという幻想を抱いている。

ハンフリーの場合は戦争で腕を失っていたのに、
顔を触れられるたびに、
失った手の感覚を感じていた。

腕はないのに、腕があるように感じられる幻肢患者。

幻肢は脳が作り出す一種の錯覚だが、
一旦脳内の感覚部位が発火すれば、
少なくとも本人には本当の原因が
腕の先から来ているのか、
脳内で作られたものか、の区別はつかない。

なので逆に
「腕の先から来ている」と思ってしまうことで
「腕がある」ように感じられるというわけだ。

では、腕のない人の脳内で
腕に関するミラーニューロンを活性化させたら、
どう感じることになるのだろう。

 ラマチャンドランはそんなハンフリーに、
ジュリーという別の学生を見てもらいながら、
ジュリーの手をなでたり叩いたりしてみせた。

すると、ハンフリーは驚いた様子で、
ジュリーの手がされていることを
自分の幻肢に感じる、と叫んだ。

 ラマチャンドランの予想通りの結果だった。

ハンフリーのミラーニューロンは
正常に活性化されたが、
それを打ち消す手からの無効信号がないので、
ハンフリーのミラーニューロンの活動が、
そのまま意識体験として現れてしまったのである。

 ラマチャンドラン自身が
「獲得性過共感」と名付けたこの現象は、
幻肢患者でなくても、
健常者の腕に麻酔を打つだけでも
再現できることがわかった。

麻酔によって、皮膚からの感覚入力を遮断すると、
誰もが文字通り、
目の前の人と痛みを共有してしまうようになる

なんておもしろい研究結果なのだろう。

他人の動きを見るとミラーニューロンが活性化する。
活性化するのだから、こちらも「痛さ」を感じても
不思議ではないのに、実際には感じない。

それは、
「実際には触られていないので痛くはないよ」と
痛さの無効信号
出しているものがあるからだ。

では、いったい、だれが出しているのか。
それはまさに、本人の実際の皮膚が作り出す
「皮膚感覚」だったのだ。

麻酔は、「本人の痛さ」を封じるが
同時に皮膚からの無効信号を遮断してしまう。
つまり、麻酔をすると
「本人の痛さ」はなくなるが
「他人の痛さ」は「共有」してしまうようになる。

ここまで人は
「共感」しやすく作られているものなのだろうか。

あなたの意識と
 別のだれかの意識をへだてている唯一のものは、
 あなたの皮膚かもしれないのだ!
」 と

ラマチャンドランは印象的な言葉で
この実験の報告を締めくくっている。

 この実験は、私たちの心がいかに他者と通い合い、
共感しやすいものであるか
をまざまざと示している。

 

最後、森田さんらしい言葉でこの章をまとめている。
(「漏れ出す」という言葉がひっかかるようであれば、
 ここ(前回分) を参照下さい)

脳の中に閉じ込められた心があって、
それが環境に漏れ出すのではなくて、
むしろ身体、環境を横断する大きな心がまずあって、
それが後から仮想的に「小さな私」へと
限定されていくと考えるべきなのではないだろうか。

 

 

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2015年11月15日 (日)

「数学する身体」

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「数学する身体」

- リソースとノイズの境界はない -

 

この10月に出版されたばかりの、

森田真生著「数学する身体」新潮社

は、ほんとうにすばらしい本で、
その中の一エピソードだけを紹介するのは
失礼な気さえするのだが、
個人的にショッキングな話に遭遇してしまったので、
きょうはその部分だけを紹介したい。
(以下、水色部は本からの引用)

まずは、
「人工進化」と呼ばれる分野の紹介から。

少し遠回りのようだが、
ここで一度数学の文脈を離れて、
「人工進化」と呼ばれる分野の研究を紹介したい。

人工進化というのは、
自然界の進化の仕組みに着想を得たアルゴリズムで、
人工的に、多くの場合はコンピュータの中の
仮想的なエージェントを進化させる方法のことである。

何かしらの最適化問題を解く必要があったとしよう。

普通であれば、人間が知恵を絞って、
計算や試行錯誤を繰り返しながら解を探すところだが、
人工進化の発想はそうではない。

まずはじめに、ランダムな解の候補を
大量にコンピュータの中で生成する。

その上で、それらの中から目標に照らして、
相対的に優秀な解の候補をいくつか選び出す。

そうして、それらの比較的優秀な解の候補を元にして、
さらに「次世代」の解を生成していく。

 

この進化シミュレーションを
ハードウェア設計に適用した研究があるらしい。
つまり、ある機能を持ったチップを
人工進化の方法だけで作ろう、というわけだ。

 ここで紹介したいのは、
そんな人工進化の研究の中でも少し変わったもの、
イギリスのエイドリアン・トンプソンと
サセックス大学の研究グループによる
「進化電子工学」の研究である。

通常の人工進化が、
コンピュータの中のビット列として表現された
仮想的なエージェントを進化させるのに対して、
彼らは物理世界の中で動くハードウェアそのものを
進化させる
ことを試みた。

 課題は、異なる音程の二つのブザーを
聞き分けるチップを作ることである。

人間がチップを設計する場合、
これはさほど難しい仕事ではない。
チップ上の数百の単純な回路を使って、
実現できる。

ところが彼らは
このチップの設計プロセスそのものを、
人間の手を介さずに、
人工進化の方法だけでやろうとした
のだ。

 結果として、およそ四千世代の「進化」の後に、
無事タスクをこなすチップが得られた。

この文章だけでは、
もともとのモデルの記述が
どの程度であったのかが全くわからないので、
「チップが得られた」ことそのものへの
困難さは想像のしようがないが、
得られたチップの解析結果には、
たいへん興味深い内容が含まれていた。

決して難度の高いタスクではないので、
それ自体は
さほど驚くべきことではないかもしれない。
が、最終的に生き残ったチップを調べてみると、
奇妙な点があった。

そのチップは百ある論理ブロックのうち、
三十七個しか使っていなかったのだ。

これは人間が設計した場合に最低限必要とされる
論理ブロックの数を下回る数で、
普通に考えると機能するはずがない。

 さらに不思議なことに、たった三十七個しか
使われていない論理ブロックのうち、
五つは他の論理ブロックと
繋がっていないことがわかった


繋がっていない孤立した論理ブロックは、
機能的にはどんな役割も果たしていないはずである。

ところが驚くべきことに、
これら五つの論理ブロックの
どれ一つを取り除いても、
回路は働かなくなってしまったのである。

人間が考える最小構成を越える解。

まぁ、それはあるかもしれない。
ところがそれを構成するのは、
孤立した論理ブロックを含む解だという。

孤立しているのに取り除くと動かなくなる。
いったいどういうことなのだろう。

 トンプソンらは、
この奇妙なチップを詳細に調べた。
すると、次第に興味深い事実が浮かび上がってきた。

実は、この回路は
電磁的な漏出や磁束を巧みに利用していたのである。

普通はノイズとして、エンジニアの手によって
慎重に排除される
こうした漏出が、
回路基板を通じてチップからチップへと伝わり、
タスクをこなすための
機能的な役割を果たしていたのだ。

チップは
回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、
いわばアナログの情報伝達経路を、
進化的に獲得していたのである。

 物理世界の中を進化してきたシステムにとって、
リソースとノイズのはっきりした境界はないのだ


"Whatever Works" というウッディ・アレンの映画
(邦題は『人生万歳!』)があるが、
物理世界の中を
必死で生き残ろうとするシステムにとっては、
まさに"Whatever Works"
うまくいくなら何でもありなのである。

 

「リソースとノイズの境界はない」

なんという指摘だろうか。
まさにノイズ排除に明け暮れていた
私のエンジニアとしての
あの苦労の日々はなんだったンだ!

 人間が人工物を設計するときには、
あらかじめどこまでがリソースで
どこからがノイズかをはっきりと決めるものである


この回路の例で言えば、一つ一つの論理ブロックは
問題解決のためのリソースだが、
電磁的な漏れや磁束はノイズとして、
極力除くようにするだろう。

だが、それはあくまで設計者の視点である。

設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、
使えるものは、見境なくなんでも使われる。

結果として、リソースは身体や環境に散らばり、
ノイズとの区別が曖昧になる。

どこまでが問題解決をしている主体で、
どこからがその環境なのかということが、
判然としないまま雑じりあう

工学はリソースとノイズを切り離し、
「ノイズを排除してリソースの機能を最大化する」
という方向で進歩してきた面があることは確かだ。

しかし、自然界では言うまでもなく
すべてが混在の中で機能している。

 物理世界の中を進化してきた
生命現象としてのヒトもまた、
もちろんその例外ではない。

ともするとヒトの思考のリソースは
頭蓋骨の中の脳みそであって、
身体の外側はノイズであり、環境である、
と思われがちだが、
簡単な電子チップですら、
その問題解決のリソースは、
いともたやすく環境に漏れ出してしまうのである。

だとすれば、四十億年の進化プロセスを
生き残ってきた
私たちの「問題解決のためのリソース」は、
もっとはるかに身体や環境のあちこちに
沁み出しているはずである。

突然使われた
「漏れ出す」「沁み出す」という表現については、
次に解説がある。

 認知のためのリソースが
環境に「漏れ出し」たり
「沁み出し」たりするというのは、
哲学者のアンディ・クラークが
好んで用いる表現である。

もともと私がここで紹介した実験のことを
初めて知ったのも、
2011年に東大駒場キャンパスで
開催された彼の講演であった。

 クラークは認知科学における
世界を代表する哲学者の一人で、
近年めまぐるしく展開しているこの分野の発展を
力強く牽引している。

そんな彼は、たとえば著書の一つ
"Supersizing the Mind"の中で、
「認知は身体と世界に漏れ出す
(Cognition leaks out into body and world)」
という印象的な表現で、
彼の思想を端的に表現している。

「認知は脳の中のこと」と
閉じ込めて考えてきてはいなかっただろうか。

実際、長らく「心(mind)」が
「脳(brain)」の中に閉じ込められていると
信じられてきた哲学・科学の歴史があるからこそ、
クラークは認知をその制約から
解放する必要があったのだ。

 しかし、心を脳の中に閉じ込めてきたのは、
あくまで私たちの「常識」であって

当の認知過程そのものは、
端から脳の外に広がっているのだとすれば、
「漏れ出し」「沁み出す」という表現を
強調し過ぎてしまうと、かえって語弊もあるだろう。

 ともかく、ここで強調したいことは、
様々な認知的タスクの遂行において、
脳そのものが果たしている役割が、
思いのほか
限定的である可能性があるということである。

脳が決定的に重要であることはもちろんだとしても、
仕事の大部分を
身体や環境が担っている場合も少なくないのだ。

 

人間は、頭だけで考えているわけでも、
頭だけで認知しているわけでもない。

「身体や環境が担っている」部分のことを
ノイズだと言って、
むしろ排除しようとしてしまっていたのではないか、
そんな反省を強烈に突きつけてくる
刺激的な研究成果だ。

 

 

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2015年11月 8日 (日)

「青のない国」

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「青のない国」

- 小さな出版社の大人の絵本 -

 

週末になってくずれてしまったが、
先週の関東地方は天気がよかった。
晴れると透き通った秋の青空が美しい。
一面の「青」を見ていたら、ある本を思い出した。

 

風木一人/作、長友啓典・松昭教/絵
 「青のない国」 小さい書房

(以下 水色部は本からの引用)

「小さい書房」は、安永則子さんという方が、
たったひとりでやっている正真正銘の
小さな出版社だ。

 

山のふもとの小さな町に、ひとりの男が暮らしていた。

と静かに物語は始まる。

男は植物が大好きで、
休みになるとよく山にでかけた。

草花の観察を楽しんでは、
気に入ったものがあると掘って持って帰り、
自分の家の庭に植えた。

庭には、季節ごとに色とりどりの花が咲き、
おいしい果物もたくさんなった。

 

ある日、男は山道で
見なれない枯れかけた植物を発見した。

それを傷めないよう、根から丁寧に掘りあげた男は、
大事に持ち帰り、庭に植えて宝のようにかわいがった。

植物はまもなく元気を取り戻し、
すくすくと大きく育っていった。

それでも、植物名のほうは、
図鑑で調べてもまったく手がかりがない。

「これは新種なんだろうか」

やがてつぼみが7つ付き、ついに花が咲いた。

男は思わず息をのんだ。
見たこともない美しい色だった。

どんな花にも似ていなかったし、
何色と呼んでいいかさえわからなかった。

 

やがて、夏が終わり、種が取れ、冬になった。

春になると、男は取れた種をまいた。

そしてまた、丹精に世話をすると
こんどはたくさんの花をつけた。

このすばらしい花をだれかに見せたい。

男は、子どものころから仲のいい
画家の友人に見せた。すると彼は、

ひと目で花に夢中になった。

そして意外なことを口にした。

花を見つめていた友人がふいに言った。
「これ・・・青じゃないか?」

男は一瞬ぽかんとしてから笑った。
「そんなバカな」

青い花などあるわけがない。
青い色そのものが、
この国にはないのだから

 

男の国には「青の神話」と呼ばれる伝説があった。
遠い昔にあった「青」という色が、あるとき、
世界から完全に消えてしまった、という話だ。

そして青いものがなくなった世界では、
もはや青がどんな色なのかも忘れられてしまう

 

画家の友人は、絵の教室をひらいていた。
花の美しさに感動した彼は、
生徒たちに花の絵を描かせることにした。

「先生、こんな色の絵の具ありません

「そりゃあないだろう。
 ぼくだって持ってない。

 でも色にこだわらなくていいんだよ。
 美しいものを見れば心が動く。
 心が動けば筆が動く。
 それが絵だ


 気持ちのままに描いてごらん。
 考えない方がいい。
 さあ、楽しんで」

同じ色の絵の具はなかったが、
生徒たちは、思い思いの方法で絵を描いて楽しんだ。

 

生徒たちは、うちで、職場で、学校で、
青い花のことを話した。

小さな町のこと、ウワサはすぐに広まった。
男のしずかな週末は一転した。
たくさんの人が
「青い花」を見せてくれとやってきたのだ。

「これがまぼろしの花か」
「なんてすばらしい色だろう」
「神話の世界からよみがえったんだ」

人々は口をそろえてほめたたえた。
花を見て心動かされない人はいないようだった。
感動のあまり涙を流す者さえいた。

「青い花」であることをうたがう者はいなかった。
「青」がどんな色かだれも知らないはずなのに。

それほど美しさは圧倒的だったのだ。

人々は花を見て、満足し、幸せな顔つきになった。

すると男もしだいに、
それが「青い花」であるような気がしてくるのだった。

男はだれが来ても同じように歓迎し、
丁寧に庭を案内した。

「入場料をとったら」とアドバイスする人もいたが、
「花をみてみなさんが喜んでくれれば」と
欲はなかった。

 

ある日、「社長」の名刺を持った紳士が現れ
「青い花のテーマパークを作りたい」
と提案してきた。

社長は、
「たくさんの人が幸せになることに反対ですか」
「ひとりではこの貴重な花を守れないでしょう。
 会社が花を守りますから」
と言葉巧みに気の進まない男を言いくるめ、
高い給料の約束とともに、
テーマパークへの協力を男からとりつけてしまった。

 

人が人を呼んで、
見物人はますます増え、
門の前には行列ができた
・・・
それでも、人々はうれしそうだった。
花はなんといってもすばらしいからだ。

ところがある日、状況が一変する。

理由の分からない男は社長に電話して尋ねた。
社長はこう言った。

「あんたか。
 テーマパークはやめた。
 理由?
 ほんとに知りたいかね?
 あんたの花は青くないからだよ。
 あんたはウソをついた。だから約束はなしだ」

「ウソ? 青くないって、
 それはどういうことですか?」

「バカらしくて説明する気にもならん。
 まあ、明日の新聞を読むんだね」


朝刊に出たのはこんな記事だった。
「伝説の青、発見!」
古代の遺跡から特殊な石が掘り出された。
それはほぼ完全な球形で、なめらかな表面を持ち、
だれも見たことがない色をしている。

著名な学者のコメントがのっていた。
遺跡はきわめて旧い、
これまで存在すらうたがわれていた
古代王の墓と見られ、
古文書の記録と照らしあわせると、
この石こそ王が神からさずかった
「青い石」と推定される-。

それからまもなく、
「大きな町」の国立博物館で、
世紀の大発見とされる「青い石」が公開された。

男は石を見に行く。
似てはいるが、
彼の花とは違う色をしていた。

男の家を尋ねる者は次第に少なくなり、
そしていなくなった。

「おれの花は青くないのか?
 では何色なんだ?
 この花はなんだ?」

もう男には花が美しいのかもわからなかった。
「美しいってなんだ?」

 

ある日の夕方、ひさしぶりに、
花を見たいという客が来た。
自分ではなく、
病気の娘に花を見せたいのだと言う。

「花の価値」を見失ってとまどっていた男は、
病気の少女との交流を通じて、
「ある価値」に気づいていく。
(その過程は、ご興味があれば
 どうぞ本のほうをご覧下さい)

 

 * 美しい花。
 *「まぼろしの青」の可能性。
 * 行列。
 * テーマパーク。
 *「別な青」の登場。
 * 学者のコメント。
 * 消える行列。

男が咲かせ、
人々が美しいと言って見に来た「花の価値」は、
ほんとうの価値は、どこにあるのか。
どこにあったのか。

「美しいってなんだ?」

いろいろ考えさせられる、大人の絵本だ。

 

 

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2015年11月 1日 (日)

「日本数寄」のフィルター

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「日本数寄」のフィルター

- 「かさねの作法」の理解に向けて -

 

雑誌としては半年ほど前の号になってしまうが、
雑誌「pen」の2015年4月15日号 No.380

「世界に誇るべきニッポンの100人」という
特集をしていた。

そこに、

「日本数寄」のフィルターこそが、いま必要だ。
という題で編集工学研究所所長の
松岡正剛さんが文章を寄せていた。
   (以下水色部、そこからの引用)

松岡さんらしいキーワードが詰まった、
示唆に富む内容だったので少し紹介したい。

どのキーワードも
ひと言で説明できるような簡単なものではないが、
忘れたくない言葉が多いので、
自分自身への備忘録代わりに。

【キーワード 「土発的」

 誰もがどこかで「世界に誇りたい日本人」を
待ち望んでいる。それは、そうだろう。

それはよくよくわかるのだが、この気持ちを
誰をも納得させる人選で満足させることは、
いまや相当、難しくなっているとも言わざるをえない。

(中略)

 なぜ、こんなふうになったのか。
世界と日本の関係を
グローバルスタンダードの基準ばかりで見たり、
外からの評判ばかりを
気にしているせいではないかと思う。


ノーベル賞や売上げや金メダリストや
国際コンペの入賞者を自慢するのはかまわない。

しかし、日本人が日本人を誇るにはそれとは別の、
普段からの価値観が
土発(どはつ)的に充実している必要
もある。

土発(どはつ)的とはどういうことだろう?
ここには、こんな説明があった。

土発的アプローチ

  「土発」とは、土着のように
その土地に根を張ることを目的とするのではなく、
いまいる場所を軸足とし母胎としながらも、
ヨコにもソトにも事業を展開し飛躍する
こと。

定住的でありつつ越境的なのである。
いまいる場所は本来、他の土地にはない
固有性または特異性をもっている。

土発的アプローチは、
遠くに憧れる前に、近場を冒険し、
そこにひそむ特異性を
新鮮に発見するところから始まる。

 

【ジャズもビザも土発的】

 日本は日本人が誇る価値観や職人の面目を、
もっともち出していいはずである。
その価値と面目に世界を巻きこんでいい。

仮に無名でもかまわない。
それが世界に知られていない藍染や截金(きりかね)や
尺八でもかまわない。
日本語だけの文楽や落語や演歌歌手でもかまわない。

アメリカのジャズやイタリアのピザや
スコットランドのカーリングは、
土発的なものでありながら、
それでも世界を席巻したのだ。

 

【キーワード 「産土(うぶすな)」

 ところが、日本人はいつしか
ソトヅラを気にするようになった。
私は経済大国を
標榜(ひょうぼう)するようになってから、
特にそうなってしまったと見ている。

これで産土(うぶすな)のカを見失った。

産土とは、生まれた土地の守護神。
Wikipediaには、こんな説明がある。

産土神は、神道において、
その者が生まれた土地の守護神を指す。

その者を生まれる前から
死んだ後まで守護する神とされており、
他所に移住しても
一生を通じ守護してくれると信じられている。

 

「カワイイ」だけではない】

また、何であれ
「カワイイ」としか褒めなくなってから、
こんなふうになってしまったとも見ている。

かつての庶民には
「粋」も「通」も「お侠(きゃん)」も
「いさみ」も「婀娜(あだ)」もあった
のだ。
なんでもがカワイイだけではなかったのだ。

 

では、われわれの自信を取り戻すには、
どうしたらいいのだろうか。

【キーワード カサネ、アワセ、キソイ
       見立て、本歌取り
       もてなし、ふるまい、しつらい

・・・
「日本という方法」を
時代をまたいで徹底的に列挙して、
その中から輝きのあるものや
考え方を見極める作業に
取り組むべきだろう。

そこにはカサネやアワセやキソイの技法、
見立てや本歌取りの方法、
「もてなし」と「ふるまい」と「しつらい」を
合致させてきた秘密がいっぱい待っている


この見方を取り戻すべきだ。

「かさねの作法」については、松岡さん自身が、
ここに詳しく書いている。

 

【クリエイティビティと
 オリジナリティの魔法? 呪縛?】

これらが見えにくくなったのは、
われわれがうっかり
クリエイティビティとオリジナリティの魔法に
かかりすぎたから
だろう。

 しかしグレン・グールドが言ったように、
クリエイティビティとは「熟考された逸脱」にしかなく
ジャン・コクトーが言ったように、
オリジナリティとは業界評価にすぎないことも
少なくなかったのである。

 

【キーワード 「うつし」

 日本にはもともと「うつし」という方法が貫いていた。

これはたんなる模倣なのではない。
それは「写し」でも「映し」でも「移し」でもあって、
一見するとクリエイティビティや
オリジナリティに背いたもののように見えるけれど、
そうなのではない。

伊勢の式年遷宮がそうであるように、
利休茶碗に多くの「うつし」があり、
和菓子や日本料理に多くの「見立て」があるように、
そこには独特の技能や芸能の継承があった
のである。

 

【そして最後のキーワード 「数寄」

 これはまとめれば「数寄」のセンスというものだ。

数奇とは何かを透いて漉いて、鋤いて梳いて、
好きの極みに達していくことをいう。


何を数奇するのかといえば、日本の本来と将来を貫いて
「日本数奇」にする。

いま、われわれが誇りたいのは、
この日本数奇のすぐれ者たちなのである。

日本が世界に誇りたい日本人は、
日本人が互いに誇りうる日本人を選ぶ
「数寄のマルチフィルター」
によってこそ、見えてくる。

    (はま注:数寄と数奇の混在は原文のまま)
     

 

もう一度、書いてしまおう。

土発(どはつ)的、産土(うぶすな)、
カサネ、アワセ、キソイ、
見立て、本歌取り、
もてなし、ふるまい、しつらい、
そして、数寄。

ときどき見直したいキーワードばかりだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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