匂いを表す単位は?
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匂いを表す単位は?
- ノーベル賞=解決ではない -
匂いの正体は「形状」なのか「振動」なのか、
の研究の経緯を簡単にまとめた
前回から引き続き
チャンドラー バール著
「匂いの帝王」早川書房
を読みながら、
もう少し匂いの謎を追ってみたい。
リチャード・アクセルと
リンダ・バックによって発見された受容体。
よく知られていて種類が多い
Gタンパク質受容体という種類に属していた。
既知のGタンパク質受容体は
すべて形に基づいて機能していた。
したがって、
匂いも同じだと考えるのがあたりまえだった。
ところが「匂いの現実」は
形状説ではうまく説明できない場合がある。
ポイントは3点。
その1:
同じ匂いがするのに
形状が全く違うものが存在している。
たとえば、同じ白檀の匂いがするのに
「ベータ・サンタロール」と「オシロル」という
2つの物質には形状の類似性を見いだせない。
さらに、少なくとも他に6種類、
白檀の匂いが見つかっているが、
いずれも形状派の理論には合致しない。
他にも
シアン化水素(青酸)は、
アーモンドの匂いがするが、
他のアーモンドの匂いがする分子の形状とは
まったく一致しない。
その2:
形状がほとんど同一にもかかわらず、
全く違う匂いがする分子がある。
「フェロセン」と「ニッケロセン」は、
分子の形状がほとんど同一にもかかわらず、
全く違う匂いがする。
「フェロセン」は樟脳の匂い、
「ニッケロセン」は不快なケミカル・オイルの匂い。
その3:
受容体の数と
嗅ぎ分けられる匂いの数が合わない。
人間は、形状説によって可能とされる数よりも、
実際10倍も多い種類の匂いを嗅げるのだ。
リンダ・バックは人間の鼻におよそ1000種類の
受容体しか発見していない。
しかし、わたしたちは一万種類もの分子を嗅ぎ分けられる
(おそらくそれ以上。限界はいまだに見極められていない)。
もしもひとつの受容体がひとつの形に反応するのなら、
そしてひとつの形がひとつの匂いに対応するのなら、
勘定があわなくなってしまう。
香水が好きで、
多くの匂いを実際に嗅いできたトゥリンは、
この謎の解明に取り組んでいく。
リンダ・バックが発見した受容体は、
だれもが形状受容体だと主張していた。
トゥリンは、
分光器として機能する振動受容体だと主張。
体内における分光器成立の仕組みを追っていく。
電子トンネル分光器と同じことが、
生物学的な仕組みでも可能なはずだ、と。
その詳細な解説は本に詳しい。
彼の新説は論文にまとめられた。
「一次嗅覚受容の分光的機能」を
<ネイチャー>誌の論文担当者、
ニック・ショートに郵送した。
その後、
* ネイチャー誌審査員との
掲載をめぐる激しいやりとり
* トゥリンの新説を取り上げた
BBCのドキュメンタリー番組
「鼻のなかの暗号」の制作と
その放送の影響
* 追加・検証実験の数々
などが語られていく。
例えば、受容体と数と
識別できる匂いの数の違いについて、
のちにトゥリンは、こんな講演をしている。
(中略)
「いまも色覚の仕組みが
解明されていなかったとします。
人間が一万種類の色を
識別できることはわかっています。
だとしたら、ひとつひとつの色に対応した
一万種類の色受容体があると
考えるのではないでしょうか。
しかし、もちろん、
それはまったくの誤りです。
色受容体は三種類しかないからです。
それで一万色を見分けているのです。
わたしがいいたいのはそこです。
一連の -たとえば10種類の-
匂い受容体が振動スペクトルの
異なる部分を担当していれば、
色覚と同様にして匂いを嗅げるはずです。
いうなれば、赤外色覚のようなものです」
振動説を推進するトゥリン。
しかし、結論だけを言えば、
投稿された彼の論文が
ネイチャー誌に掲載されることはなかった。
そして、そこまでの事情がまとめられて、
2003年にこの本(日本語版)が出版される。
その翌年、2004年、ここに書いた通り、
「解明されればノーベル賞ものだ」の予想通り
ノーベル生理学・医学賞は、
偶然にも、嗅覚に関する研究者に授与された。
受賞したのは、受容体を発見し、
形状受容体だと主張していた
リチャード・アクセルとリンダ・バック。
形状派の業績が認められたわけだ。
とは言え、それで匂いの機構が、
すべて解明されたわけでもないし、
振動説が全否定されたわけでもない。
相変わらずわからないことだらけだ。
たとえば、
いまだに匂いを表す単位は確立されていない。
明るさも音の大きさも数字で表すことができるのに、
匂いは数字で表すことができない。
悪臭による公害の被害などの争いは、
いったいどうやって行われているのだろう。
論文の掲載すらしてもらえなかったトゥリン。
物質の匂いも、香水の匂いも、
ほとんど知識というか体験がないため
そのあたりの実感が伴わないのが
読んでいてもどかしい部分ではあるが、
強烈な個性の科学者の半生記からは、
全く知らなかった世界の
まさに「匂い」が十分伝わってくる。
これからますます解明が進むであろう匂いの世界。
自分なりのいくつかのキーワードを持っていると
ニュースへの関心と理解はずいぶん違ってくる。
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