知っているものしか見えない、の一方で
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知っているものしか見えない、の一方で
- 初めてのものが見える瞬間 -
光文社新書
にこんな記述がある。
(以下水色部、本からの引用)
というところで教えているが、
実験実習の最初の時間に、
顕微鏡を使って細胞を観察させることにしている。
ネズミの臓器、例えば膵臓や肝臓を
薄くスライスした切片を
スライドグラスに載せて接眼レンズを覗く。
倍率は100倍から200倍程度。
これくらいあれば動物細胞を観察するには十分である。
そこでおもむろに学生に言う。では、
ノートに今見えているものをスケッチしてみて、と。
学生たちは思い思いに鉛筆を動かしはじめるのだが、
彼らが描いているものは、
ちょうどクレヨンを握ることを憶えた幼児の絵と
見まがうばかりに頼りなくとりとめのないものとなる。
それは風にたゆたう糸くずのようにおぼつかない、
不定形の細い線である。
彼らの視野の下には、膵臓の細胞が、
これ以上ないほどに一粒一粒くっきりと
見えているというのに。
くっきりと見えているのに、書けない。
どうしてなのだろう。
自戒の意味をもって思い出す。
私が膵臓の細胞を見ることができるのは、
それがどのように見えるかを
すでに知っているからなのだ。
どの輪郭が細胞一つ分の区画であるのか、
その外周線を頭の中に持っているからだ。
その細胞の向きがどちらを向いているのかを、
あるいは細胞の内部に見える丸い粒子が
DNAを保持している核であることを知っているからである。
かつて私もまた、初めて顕微鏡を覗いたときは、
美しい光景ではあるものの、
そこに広がっている何ものかを、
形として見ることも、名づけることもできなかった。
私は、途切れ途切れの弱い線をしか描くことが
できなかったはずなのだ。
つまり、
私たちは知っているものしか見ることができない。
本では、このあと、
性決定の遺伝メカニズムを
世界で初めて解明した女性研究者(女子大学の補助教員)
ネッティー・マリア・スティーブンズの
話が丁寧に語られている。
そして、1905年に発表された彼女の論文を、
福岡さんは苦労して探しだす。
その論文は、次のように締めくくられている。
この小さな染色体を含む精子と受精した卵子は
オスを生み出す。
10個の
大きな染色体だけからなる精子と受精した卵子は
メスを生み出す。
「小さな染色体を含むか含まないか」
結論だけを言ってしまえばたったそれだけのことだが、
性を決定する「小さな染色体」が発見された
歴史的な瞬間だ。
でもそれは、同時代に顕微鏡を覗いていた
他の研究者の網膜に
映っていなかったものか、と言えば、
そんなことはない。
映っているのに見えなかったのだ。
-私たちが神の視座から
"青い色の精子"と呼んでいたもの-
の内部に含まれる小さな染色体。
今日、Y染色体と我々が呼んでいる染色体。
性決定の遺伝メカニズムが
「見えた」瞬間だった。
もちろん誰の目にもそれが見えたのではなく、
ネッティー・マリア・スティーブンズの目だけが
それを見たのだ。
ところが全く不思議なことに、
ネッティーがそう言明して以来、
彼女だけに見えていたものは、
誰の目にも見えるようになったのである。
2年ほど前になるが、私はこんなことを書いた。
<ここからの引用開始>
アカデミー賞主要五部門を独占した映画「羊たちの沈黙」の
原作者トマス・ハリス(Thomas Harris)の小説に
「レッド・ドラゴン」という作品があります。
その本の扉に次のような言葉がありました。
「人は観るものしか見えないし、
観るのはすでに心の中にあるものばかりである」
トマス・ハリス著「レッド・ドラゴン」
訳 小倉多加志
One can only see what one observes,
and one observes things
which are already in the mind.
人は観ているようで、
見えているものはすでに心の中にあるものばかり、
なのかもしれません。
つまり、心の中にないものは
目には映っていても見えてはいない...
鋭いというよりもちょっと怖いような言葉で、
一度読んで以来忘れられません。
<引用ここまで>
もう一度書いてしまおう。
ネッティーがそう言明して以来、
彼女だけに見えていたものは、
誰の目にも見えるようになったのである。
「小さな染色体を含むか含まないか」
結論は単純でシンプルなことだけれど、
ここに到達するまでに彼女がやったことは、
この「小さな染色体」を見るために
彼女が日々繰り返しやってきたことは、
信念と執念に支えられた
それはそれは粘り強い実験と観察だった。
「知っているものしか見えない」
の一方で、
「新しいものを見よう」と
必死になっている人がいる。
信念と試行錯誤、
新しいものが見えてくる過程は
いつ読んでもワクワクする。
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