「見たもの」から「見えたもの」へ
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「見たもの」から「見えたもの」へ
- 想像力と再構成力 -
顕微鏡で観察するものを「薄く切る」ことが
いかにたいへんなことであるのかを、
光文社新書
を教科書に、
前回、
前々回と2回に分けて見てきた。
しかし、前回も書いた通り、
「薄く切る」ことが最終目的ではない。
薄く切ったものから、
どうやって「立体を読む」のか。
薄く切った「なまもの」は言ってみれば2次元。
そこから時間軸とz軸(三次元)をどう取り戻すのか。
今日はそのあたりのことについて
考えてみたい。
(以下水色部は本からの引用)
まずは、時間軸について。
すでに精子あるいは卵子たちは死んでしまっている。
固定され、薄く切られ、染色されてしまうからだ。
しかし、視野の内部に見えるものは、
死そのものではなく、
様々な段階でその活動を止められた
精子または卵子の生の一断面である。
いわばその瞬間を永遠にフリーズされた状態、
つまり微分的に見た細胞たちの様子がそこにある。
ある瞬間の止まった状態、
見えているのはそれだけだ。
それが分裂して精子を作りつつある状態、
出来上がったばかりの精子たち。
一つ一つの活動は止められているにもかかわらず、
顕微鏡の視野の内で視点をあちこちに移せば、
一連の流れはほんとうに動いて見えるのだ。
そして不思議なことに、
彼らはすべて止められているにもかかわらず、
私たちの目には、
時間がどの方向に流れているのかがわかるのである。
それはちょうど、
バラバラにされた映画フィルムのコマを拾い集めると
そこにドラマを紡ぐことができるのに似ている。
映画フィルムのコマ拾いは、
ほんとうにわかりやすいたとえだ。
つまり観察者には、
コマを流して動かす想像力がまずは必須だ。
そして、いよいよ三次元の読み取り。
性決定の染色体を発見した
ネッティーの執念を見てみよう。
サンプルの固定、パラフィン包埋、
ミクロトームの操作、そして染色など、
観察に必要なすべての技術に精通していた。
このとき彼女はすでに40歳を超えていた。
精子もしくは卵子を観察し、
その中の染色体の数を数える際、
最も重要なことは
今、自分がどこを覗いているのかということを
正確に把握していることである。
さあ、ここからは、福岡さんの
わかりやすいキウィのたとえで話が進む。
キウィの断面を思い出しながら読み進めてみよう。
その内部に、ある瞬間、染色体が整列する。
外からその様子を見ることはできないので、
球体を輪切りにして調べることになる。
ちょうどキウィにナイフを入れるように。
しかし、ナイフを入れる方向によって、
キウィの輪切りの中の模様は全く異なって見える。
キウィの頭(技にぶら下がっていた方)を北極、
その反対のおしりの側を南極とすれば、
極を結ぶ軸に垂直な
"赤道面"に沿って切り出された切片には
リング状に配置された種が見える。
もし、縦方向、
つまり経度の線に沿ってナイフが入れば
種は紡錘(ぼうすい)形に広がって見えるはずだ。
しかし、ナイフはかならずしも軸に沿って
水平もしくは垂直に入るとは限らない。
斜めに入ることもあり、
それはキウィの胴体を大きく横切ることがある一方、
キウィのおしりに近いところを
ほんの少しだけかすめることもあるだろう。
だから、キウィを数回、ナイフで切ったところで、
そこにどのような配置で、
何粒くらいの種が並んでいるのかを言明する
ことは決してできないことになる。
「キウィに何粒の種があるかを、
複数の断面図だけから判断する」
キウィでも難しいことは十分想像できるのに、
今、ネッティーが対象としているのは
小さなチャイロコメノゴミムシダマシの
さらにさらに小さな精子や卵子だ。
ミクロトームで切り出す場合にも
全く同じことが言える。
ミクロトームが今、切り出した切片が、
精子の、もしくは卵子の
どの部位を切断したのかによって
染色体の見え方は全く異なる。
端を少しかすめただけの視野には
ひとつの染色体も見えないはずだ。
胴体の一番大きな赤道面を横切って切断すれば、
そこには多数の染色体が見えるだろう。
しかし、その断面にすべての染色体が
もれなく含まれているかどうかは
全く保証の限りではない。
第一、精子も卵子も、切片を切り出す時点では、
その姿を見ることは肉眼では全くできないので、
ミクロトームの一回転が、
あまたある精子の球体のどのあたりの場所を
切り出しているかはわからない。
キウィを切るのとはわけが違うのだ。
ならば、ネッティーは染色体の数を
正確に数えるために何をすればよいのだろうか。
そう、連続した薄片を順に見て「立体を組み立てる」
これしか方法はない。
そしてそれがどれほど集中力を要することであるかも。
ミクロトームをまわして、
パラフィン包埋された精子サンプルから、
切片の切り出しを行う。
切片を回収し、注意深くスライドガラスの上に置く。
そしてもう1回ミクロトームをまわす。
サンプルを載せた台座は1回切片を
切り出すごとに数マイクロメートル前進する。
だからたった今、切り出された切片は、
先に切り出された切片と隣り合わせに連続しつつ、
ほんの数マイクロメートルぶん
ずれた場所から切り出されたものである。
この切片を注意深く回収し、
先ほどの切片の隣に並べて置く。
そして次の同じ作業に入る。
その工程を繰り返していくと
連続した切片が次々と回収されることになる。
普通に身体を構成する細胞は
すこしずつ大きさに差があるものの、
おおよそその直径は数十マイクロメートル以内である。
それゆえ連続切片を10枚から20枚回収すれば、
その中には必ず
少なくともひとつの細胞の頭から尻尾まで
すべての輪切りを含んだものを回収できることになる。
キウィを10枚のスライスにして順に並べたごとく。
当時、「三次元構造の再構成」は
もちろん頭の中でしか行えない。
執念の観察を通して
ネッティーの頭の中でだけ再構成されていった
染色体の全体像は、
彼女の頭の中でどれほど輝いていたことだろう。
ある一つの精子あるいは卵子の
見えはじめから見え終わりまでが
含まれることを確認したうえで、
その中に見えはじめて
やがて消えゆくすべての染色体の数を数えあげ、
自分の頭の中で細胞内部の
三次元構造を再構成したのである。
むろん、連続切片は
いつもいつもきれいに回収できるわけではない。
ミクロトームのちょっとしたプレによって
切片はちぎれたり、しわになったり、
厚すぎたりして損なわれる。
あるいはふと風にさらわれて行方不明になる。
それでもネッティーは観察を続けた。
運よく一枚にすべての染色体が
残らず捉えられた切片が
切り出されることもあったろう。
しかし、それは前後の連続切片が
きちんと捉えられていればこそ
初めて言えることである。
ネッティーはそのような切片の像を
論文発表用に精密にスケッチした。
染色体の数に関するネッティーの信念は、
染色体の一つ一つをまさに手に取るような、
そんな実験結果に対する
文字通りのつぶだち感に支えられながら、
徐々に揺るぎのない形をとっていった。
ネッティーの論文発表は1905年。
単著で30ページ。
その中に、なんと241の図があると言う。
顕微鏡像を写真化する技術がまだなかった当時、
すべては彼女自身の手で描かれたものである。
ネッティーのコマを流す想像力、三次元の再構成力は、
膨大な数の「見たもの」から
全く新しい「見えたもの」を導き出した。
それまでも「見た」人は多くいたのに、
「見えた」人はいなかったもの。
ここですでに引用した部分だが、
もう一度書いてしまおう。
性決定の遺伝メカニズムが
「見えた」瞬間だった。
もちろん誰の目にもそれが見えたのではなく、
ネッティー・マリア・スティーブンズの目だけが
それを見たのだ。
ところが全く不思議なことに、
ネッティーがそう言明して以来、
彼女だけに見えていたものは、
誰の目にも見えるようになったのである。
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