金融の世界から人間が消えた。
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金融の世界から人間が消えた。
- ヒトともモノとも決別したカネ -
興奮しておもわず6回も続けてしまった
ゴリラの社会から人間の社会を見つめる
京都大学学長の山極寿一(やまぎわ・じゅいち)さんの、
NHKカルチャーラジオでの講義の紹介の中、
「勝つ論理と負けない論理」
の最後で、私はこう書いた。
もともと
「強いものがすべてを独占する」
という社会を形成するような生き物ではないのだ。
「勝ち組・負け組」「富の集中」「格差」
今、社会問題として話題になっていることが
ゴリラ社会の話を聞くと、みんな繋がって見えてくる。
「ヒト科」の生き物にふさわしい社会から
どんどん離れていってしまっている現代、
「生き物」のいない「経済論」で修正できるはずはない。
偉そうに書いてしまったが、
私は「経済論」については、ズブの素人。
「経済」の専門家は、
今の様々な社会問題をどう見ているのであろうか。
リーマン・ショック直後に緊急出版された
アメリカのサブプライム危機の意味を解説し、
世界同時不況のゆくえについて考察している
「グローバル恐慌 - 金融暴走時代の果てに」
岩波新書
にたいへん興味深い記述がある。
(以下水色部、上記岩波新書からの引用)
金融ほど人間的なものはない。
なぜなら、金融とは信用であるからだ。
信用供与とか、信用創造という言い方がある。
いずれも、要はヒトがヒトに
カネを融通する行為を指している。
ヒトは相手を信用しているから、カネを貸す。
信用出来ない相手からはカネを借りない。
ヒトがヒトを信用しているから、
そこに金融が生まれる。
ゴリラの話をしていた山極さんは、
ヒトとヒトとの関係について、
「信頼関係」という言葉を何度も口にしていた。
なるほど。
経済の世界では、「信用」と言えば、
カネの貸し借りのことか。
信用供与とか信用創造という言い方をするようになった。
そういうことであるはずだ。
だが、今回のグローバル恐慌に至る過程では、
どうもこの関係に狂いが生じたように思う。
信用と無関係なところで金融が膨らむ。
この間の経緯の中で、
そのような情景を我々は繰り返し
目の当たりにして来たのではないだろうか。
「信用と無関係なところで金融が膨らむ」とは
どういうことだろう。
主要テーマとして取り上げた。
今、改めて考えれば、
カネはモノと決別したばかりではない。
ヒトとも、たもとを分かってしまった。
相手の顔がみえない。相手が誰だか解らない。
したがって、信用するも何もない。
金融が信用でなくなった。
モノの世界の安泰と繁栄を担保するためにカネを回す。
そういった従来型の産業金融から最も遠いところで、
いわば、ひたすら
カネを増やすためだけにカネを回す
そういうビジネスに勤しんできたのが、
ヘッジファンドであり、投資銀行だ。
もはや、そこではカネとモノは
完全に決別してしまっている。
そうやって、モノと分かれてしまったカネは、
ついにヒトとも分かれてしまった。
金融は最も人間的な信用の絆で形づくられている。
そうであるはずだった金融の世界から、人間が消えた。
ここに、問題の本質があるのかもしれない。
本書執筆の最終場面に来て、そう思うに至った。
金融の世界から人間は消えた。
だが、人間の世界から金融が消えたわけではない。
ここが実に厄介なところだ。
金融の世界から人間が消えた。しかし、
人間の世界から金融が消えたわけではない。
このアンバランスさ、不自然さはナンなのだ。
かつてなく金融に依存するようになっている。
だからこそ、金融が破綻すると、その影響が
即時的に経済活動のあらゆる側面に波及するのである。
消費も投資も生産も、
全てが金融化の波に乗せられて膨張して来た。
信用の巨大なネットワークの存在を前提にしてこそ、
人間の営みとしての経済活動は
ここまで地球的な広がりを持つようになってきた
といっても過言ではない。
そのような実態があるにも関わらず、金融が
人間とそのモノづくりという営みを置き去りにして
一人歩きを始めてしまった。
これでは、問題が起きない方がおかしい。
「地球的な広がり」が持てるようになったのは、
ある意味、ヒトやモノと決別したからだ、とも言える。
借り手のニーズや体力を
正確に把握しておかなければならない産業金融時代には
遠い相手とは取引ができなかったからだ。
想像を絶する高みに登った。
そして、その頂点で梯子をはずされて、
ヒトとモノが
大不況の奈落の底に急落下していこうとしている。
それが現状だ。
このままではいけない。
金融もまた人間による人間のための営みであることを、
地球経済が思い出すべき時が来ている。
「信用」がナンなのかを全く知らない、
知ろうともしない、
でも、ITと数理には長けている、
そういう人々によって、
金融は工学化への道を歩みだしてしまった。
でも、そこにはヒトもモノもない。
ヒトにもモノにもつながらないカネに
いったい価値はあるのだろうか?
ゴリラ社会を通して見えてくる
「ヒト科」の生き物にふさわしい社会のためにも、
「人間による人間のための営み」のためにも、
まずは、議論の中に
ヒトを呼び戻さないといけないのではないだろうか。
言うまでもなく、いくらカネがあろうが、
そこに価値があると信じられるのは
まさにヒトだけなのだから。
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