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2015年3月 8日 (日)

「家族の論理と共同体の論理」

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「家族の論理と共同体の論理」

- ふたつの論理、そして個人の利益 -

 

ゴリラの社会から人間の社会を見つめる
京都大学学長の山極寿一(やまぎわ・じゅいち)さんの、
NHKカルチャーラジオでの講義。これまで

(1) 「円くなって穏やかに同じものを食べる」
(2) 言葉は新しい道具
(3) 「勝つ論理と負けない論理」
(4) みんなで守り育てるもの

について紹介した。もう少し続けたい。

今日は「家族の論理と共同体の論理」
そして、そのふたつの論理の中での個人の利益について。
(以下水色部、2014年12月7日の放送から)

 

前回の復習から。

人間も夫婦だけで子どもを育てていません。

家族というのが複数集まって
上位の共同体を作るということをやっているわけです。

じつはコレが難しいんです。

家族と共同体の共存、
どんな点が難しいと言うのだろう。

 

家族の論理と共同体の論理って実は違うんですね。

家族というのは実はえこひいきをする集団なんです。
自分の子どもがかわいい、
子どもにとっては自分の親が大切だ、という感情を
常に持っています。

でも共同体というのは平等ですよね。
みんなが等分に負担をする、というのが
共同体の論理です。

何か助けてあげればお返しがくる、
何か助けてもらえばお返しをしたいと思う、
そう言う気持ちによって繋がっているものです。

それは家族とは違います。

こう説明されると、
家族と共同体の違いはイメージしやすい。

 

家族はね、収奪があたりまえなんです。
子どもは親からお金をもらってもお返しをしません。
それがあたりまえだからですね。

でも、共同体はそうじゃないでしょ。

そういう論理の違いを
同時に実現することができないから、
人間以外の霊長類の社会というのはどっちかなんです


ゴリラは家族的な集団しか作りません。
その上位の集団はありません。

チンパンジーは家族がなくて、集団だけです。
そういう集団しか作れなかったんです。

家族のロジックか、共同体のロジックか。
違う論理の使い分けは難しい、というわけだ。

 

一つの論理、一つの集団なんです。

人間は集団に二つの論理を重ね合わせた
これは非常に高度なものであり、
これは共感力を高めなければ
できなかっただろうと思います。

人間の持つ普遍的な社会性というのはですね、
向社会性、互酬性、帰属性というですね
この3つだろうと私は思います。

共同体の内部に複数の家族がある。

家族というのはもともと
見返りのない報酬を原則とするものです。
そして共同体は家族間で、
お互い対等な立場でやりとりをするものですよね。

そういう共同体、あるいは家族に
私たち人間は一生帰属性を持つ、
アイデンティティを持つ


で、それを持つことによって、実は逆に
いろんな集団を渡り歩くことができる。

「帰属性を持つことが、
 逆に集団を渡り歩くことを可能にしている」
とは、どういうことだろう。

 

私たちは由来の不明な人を
すごく不気味に思うわけですね。
どこから来たかわからない。

でも、私は長崎のこういう町の出身です、
私はあなたの知っている人の近くにいた家族の出身です、
と言えば、
それは信頼を作る大きな一歩になるわけですね。

相手の素性を知る、
そのために由来、帰属意識を表現するということは、
人間がいろんな人たちと付き合うために必要です。

「帰属性」には確かにそういう面がある。
長崎出身と聞いたところで、何が変わるわけでもないのに、
そういった帰属性情報には、
なぜか明らかに不信感を和らげる力がある。

 

今、現代は家族が崩壊し始めていると言われています。

これは私は大きな危機だと思うんですね。
なにも家族が現代の社会のシステムに
合わなくなったからではないと思います。

 

さあ、ここから、これまでの話を全部包含するような、
大きな視点での問題点の指摘が始まる。

 

実は現代の、あるいは近代と言ってもいいのですが、
科学技術は個人の自由、
あるいは個人の利益を最大化するように作られてきました


それが結果として家族や共同体を
だんだん弱体化させているんだろうと思います。

その最大の原因は
急激なコミュニケーションの変化にあると
私は思っています。

「科学技術は個人の利益を最大化するように作られてきた」
この点はどうだろう。
そんな簡単に言い切るなよ、と思いつつも
いい反例がすぐには思い浮かばない。

 

先ほど申し上げましたように、
言葉というのはまだ人間は使い慣れていません

ですから、いろんなトラブルが生じる。

で、私たちが未だに信頼に足る集団というのは
せいぜい150人から160人の範囲
に留まっています。

それをインターネットはあっという間に
数万、数百万という規模に広げました。
私たちは顔の見えないface-to-faceの
コミュニケーションの取れない相手と
日常的に付き合わざるを得なくなっているわけですね。

で、それによって私たちは
信頼関係を作れなくなっています。

普段、信頼関係にある人間にも
不安を抱き始めているわけです。

つまり相手がどういう人間と付き合っているか、
背後にどういう仲間がいるかわからないからです。

言葉は新しい道具で書いた通り、
今の私たちの脳が、言葉に頼らずに
集団を形成できるのはせいぜい160人程度。

その後、言葉を使うことで、
人間はなんとか付き合う範囲を広げてきた。
それでも、五感を伴わない
言葉のみに依存する信頼関係はそもそも弱い。

そこにネットが登場。

さあ、どうする?


信頼関係の構築を根底から支えていたものを
もう一度見つめなおしながら、
本講義の紹介、もう一回だけ続けたい。

 

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