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2015年3月

2015年3月29日 (日)

神様はいつも助けようとしてくれている

(全体の目次はこちら


神様はいつも助けようとしてくれている

- 「わかる」ではなく「感じる」アンテナを -

 

ロシア語の通訳やエッセイストとして活躍した
米原万里さんのエッセイに、
「安全神話」という作品がある。
きょうはそれを紹介したい。

(以下水色部、
 米原万里著「真夜中の太陽」中公文庫から引用)

 

安全神話

 むかしむかし、大きな河の畔(ほとり)の村に、
ひどく信心深い男が暮らしていた。

 その年の冬は積雪も多く、
河面は何十年に一度という分厚い氷に覆われた。
だから、村人たちは、
少し暖かくなってくると、口々に心配した。

「そのうち河が氾濫するに違いない」

 村の古老も、警告を発し続けた
「ああ、三十年前の大洪水の時と、
 ソックリだ。村は水浸しになっちまう」

 そのおかげもあって、村人たちは着々と荷造りをし、
いざ河の氷が溶け、水のレベルが上昇しはじめたら、
いつでも一斉に村で用意した五台のトラックに分乗して
避難できるよう準備を怠らなかった。

 ところが、くだんの信心深い男は、
何の手も打たずに、そのくせ安心しきった顔をしている。

心配してくれる隣人たちに向かって、男は豪語した。

「なーに、これだけ神様を熱心に信仰するオレのことだ、
 いざとなったら必ず神様が助けてくださるに違いない

河の氾濫について、村の古老の警告を無視する男。

 

 そうこうするうちに、いよいよ河の水かさが増してきて、
ついに溢れ出した。

村人たちは、次々に用意した荷物もろとも
トラックの荷台に飛び乗っていく。

住民全員がいざ村を脱出というところで、
念のため確認すると、案の定、
あの信心深い男が乗っていない。

仕方ないので、一台のトラックだけ、
男の家に立ち寄ることになった。

隣人たちは声を嗄(か)らして呼びかける
トラックの荷台から

「早く、お前も乗るんだ。さもないと溺れ死ぬよ」

 ところが、男は相変わらず落ち着き払っている。

「いやあ、ご心配なく、オレのことは、
 神様が助けてくださるから」

 それでも村人たちは、辛抱強く男を説得し続けたのだが、
タイヤの半分まで水のレベルが上がってきたところで、
あきらめてその場を立ち去っていった。

村の隣人たちの声も無視して
神様の助けだけを信じている男。

 

 しばらくすると、男の家の床は水浸しになり、
家具がプカプカ浮いてきた。

 たまたま家の前をボートで避難する人々が通りかかり、
男に気付いてボートの上から声をかける。
「さあ、乗りなさい。遠慮しなくていいから、
 さあ、早く、早く」

 男は馬鹿の一つ覚えのように繰り返すばかりである。
「オレにはかまわんでください。ご心配なく。
 神様が助けてくださいます」

ボートで避難する人々の声も無視してしまう。

 

 そのうち、家は完全に水に浸かり、
男は屋根に登らざるをえなくなった。

上空を通り過ぎる救援隊のヘリコプターが気付いて、
ロープを下ろしてくれる。

「さあ、早くこのロープをつたって昇ってらっしやい」

 それでも男は頑強に拒み続ける。

「大丈夫。神様が助けてくださる」

 結局、男は溺れ死んでしまった。

そして、天国で神様に会ったとき、男は、開口一番、
神様を詰(なじ)ったのだった。

あれほど信じてたのに、
 なんで助けてくださらなかったんですか

救援隊のヘリコプターまでも無視して、
結果、男は、とうとう死んでしまった。

「なぜ助けてくれなかったのか」の質問に
さて、神様はなんと答えたでしょう


ちょっとお考えあれ。

 

こう続いている。

 

 神様は、あからさまに不機嫌な声で反論した。

「ふん、助けなかっただって!?

 古老や村人たちの口を借りて
 何度も警告を発したというのに、
 トラックやボートやヘリコプターまで
 送ってやったというのに、
 君はことごとく拒んだじゃないの!」


エッセイはこのあと
2000年3月の日比谷線脱線事故における
営団地下鉄経営陣の姿勢の話に
繋がっていくのだが、
ここまで紹介した神様の話、
脱線事故に限らず、いろいろな場面を思い起こさせる。

「こんなふうに助けてくれるはず」
「こんなふうにはならないはず」
と自分で勝手に「助け」を想定して、限定して、
神様がいろいろな信号や助けを出してくれているのに、
全くそれに気付かない。

カマキリは雪を予想できるのか?にも書いた通り、
「すでに多くの信号が自然界にはあり、
 植物や動物はそれらをちゃんと受信している」

神様はいつも助けようとしてくれている。
自分勝手な思い込みで信号を無視してはいないだろうか。
「わかる」ではなく「感じる」アンテナを
広げていたい。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2015年3月22日 (日)

金融の世界から人間が消えた。

(全体の目次はこちら


金融の世界から人間が消えた。

- ヒトともモノとも決別したカネ -

 

興奮しておもわず6回も続けてしまった
ゴリラの社会から人間の社会を見つめる
京都大学学長の山極寿一(やまぎわ・じゅいち)さんの、
NHKカルチャーラジオでの講義の紹介の中、

「勝つ論理と負けない論理」

の最後で、私はこう書いた。

 

我々人間は、ゴリラと同じ「ヒト科」の生き物。
もともと
「強いものがすべてを独占する」
という社会を形成するような生き物ではないのだ。

「勝ち組・負け組」「富の集中」「格差」
今、社会問題として話題になっていることが
ゴリラ社会の話を聞くと、みんな繋がって見えてくる。

「ヒト科」の生き物にふさわしい社会から
どんどん離れていってしまっている現代、
「生き物」のいない「経済論」で修正できるはずはない。

 

偉そうに書いてしまったが、
私は「経済論」については、ズブの素人。

「経済」の専門家は、
今の様々な社会問題をどう見ているのであろうか。

リーマン・ショック直後に緊急出版された
アメリカのサブプライム危機の意味を解説し、
世界同時不況のゆくえについて考察している

浜矩子著
「グローバル恐慌 - 金融暴走時代の果てに」
岩波新書

にたいへん興味深い記述がある。

(以下水色部、上記岩波新書からの引用)

 

 思えば、人間的な営みである経済活動の中でも、
金融ほど人間的なものはない。
なぜなら、金融とは信用であるからだ

信用供与とか、信用創造という言い方がある。
いずれも、要はヒトがヒトに
カネを融通する行為を指している。

 ヒトは相手を信用しているから、カネを貸す。
信用出来ない相手からはカネを借りない。
ヒトがヒトを信用しているから、
そこに金融が生まれる

ゴリラの話をしていた山極さんは、
ヒトとヒトとの関係について、
「信頼関係」という言葉を何度も口にしていた。

なるほど。
経済の世界では、「信用」と言えば、
カネの貸し借りのことか。

 

そういう人間的な感覚が根底にあるからこそ、
信用供与とか信用創造という言い方をするようになった。
 そういうことであるはずだ。

だが、今回のグローバル恐慌に至る過程では、
どうもこの関係に狂いが生じたように思う。

信用と無関係なところで金融が膨らむ

この間の経緯の中で、
そのような情景を我々は繰り返し
目の当たりにして来たのではないだろうか。

「信用と無関係なところで金融が膨らむ」とは
どういうことだろう。

 

 本書の中で、モノとカネの決別問題
主要テーマとして取り上げた。

今、改めて考えれば、
カネはモノと決別したばかりではない。

ヒトとも、たもとを分かってしまった。

相手の顔がみえない。相手が誰だか解らない。
したがって、信用するも何もない。
金融が信用でなくなった

モノの世界の安泰と繁栄を担保するためにカネを回す。
そういった従来型の産業金融から最も遠いところで、
いわば、ひたすら
カネを増やすためだけにカネを回す
そういうビジネスに勤しんできたのが、
ヘッジファンドであり、投資銀行だ。
もはや、そこではカネとモノは
完全に決別してしまっている。

そうやって、モノと分かれてしまったカネは、
ついにヒトとも分かれてしまった。

 

 人間の営みである経済活動の中でも、
金融は最も人間的な信用の絆で形づくられている。

そうであるはずだった金融の世界から、人間が消えた

ここに、問題の本質があるのかもしれない。
本書執筆の最終場面に来て、そう思うに至った。

 金融の世界から人間は消えた。
だが、人間の世界から金融が消えたわけではない
ここが実に厄介なところだ。

金融の世界から人間が消えた。しかし、
人間の世界から金融が消えたわけではない。

このアンバランスさ、不自然さはナンなのだ。

 

むしろ、人間は
かつてなく金融に依存するようになっている。

だからこそ、金融が破綻すると、その影響が
即時的に経済活動のあらゆる側面に波及するのである。

消費も投資も生産も、
全てが金融化の波に乗せられて膨張して来た。

信用の巨大なネットワークの存在を前提にしてこそ、
人間の営みとしての経済活動は
ここまで地球的な広がりを持つようになってきた
といっても過言ではない。

 そのような実態があるにも関わらず、金融が
人間とそのモノづくりという営みを置き去りにして
一人歩きを始めてしまった


これでは、問題が起きない方がおかしい。

「地球的な広がり」が持てるようになったのは、
ある意味、ヒトやモノと決別したからだ、とも言える。

借り手のニーズや体力を
正確に把握しておかなければならない産業金融時代には
遠い相手とは取引ができなかったからだ。

 

ヒトとモノはカネによって作られた梯子のおかげで、
想像を絶する高みに登った。

そして、その頂点で梯子をはずされて、
ヒトとモノが
大不況の奈落の底に急落下していこうとしている。

それが現状だ。
このままではいけない
金融もまた人間による人間のための営みであることを、
地球経済が思い出すべき時が来ている。

「信用」がナンなのかを全く知らない、
知ろうともしない、
でも、ITと数理には長けている、
そういう人々によって、
金融は工学化への道を歩みだしてしまった。

でも、そこにはヒトもモノもない。
ヒトにもモノにもつながらないカネに
いったい価値はあるのだろうか?

ゴリラ社会を通して見えてくる
「ヒト科」の生き物にふさわしい社会のためにも、
「人間による人間のための営み」のためにも、
まずは、議論の中に
ヒトを呼び戻さないといけないのではないだろうか。

言うまでもなく、いくらカネがあろうが、
そこに価値があると信じられるのは
まさにヒトだけなのだから。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2015年3月15日 (日)

効率化も機械化もできないもの

(全体の目次はこちら


効率化も機械化もできないもの

- サルの社会に戻るのか -

 

ゴリラの社会から人間の社会を見つめる
京都大学学長の山極寿一(やまぎわ・じゅいち)さんの、
NHKカルチャーラジオでの講義。これまで

(1) 「円くなって穏やかに同じものを食べる」
(2) 言葉は新しい道具
(3) 「勝つ論理と負けない論理」
(4) みんなで守り育てるもの
(5) 「家族の論理と共同体の論理」

と話を進めてきた。

今日はいよいよ最終回、
効率化も機械化もできないもの、について。
(以下水色部、2014年12月7日の放送から)

 

前回部分で、山極さんはこんなことを言っていた。

科学技術は個人の自由、
あるいは個人の利益を最大化するように作られてきました。

それが結果として家族や共同体を
だんだん弱体化させているんだろうと思います。

共同体での共感力を高めてきた人間。
いま「個人の利益」の前で、
その共感力はどうなってしまっているのだろう。

 

そして、もうひとつ言えば個人の評価が拡大をして、
個人の利益というものが生きるための目標になりました

私たち人間の集団というのは、
動物の集団と違うのは、
集団のために何かをするということです。

動物はそういうことはしません。
チンパンジーもゴリラもそういうことはしません。
彼らは自分のために、
あるいは血縁者のためになにか行動を起こすわけですね。

私たちはまだ見たこともない人が
含まれている集団のために何かをしようと思う。

そしてそういったことをする自分を
美しいと思うわけですね。
そういうヘンな感情を抱くのは人間だけです。

なぜそういうものが生まれてきたかと言うと、
先ほど言いましたような
人間の共同体というものに
たぶん原因があるンだろうと思います。

子育てを始め、
共同体での共存の仕組みを育んできた人間が、
「個人の利益」だけを目標にするようになると
どうなってしまうのだろう。

 

しかしいま、ずいぶんその形が変わってきました。
個人の評価が拡大し、自己実現が目標になり、
自己責任がそれに伴わなければならないと
考えられるようになりました。

そして、一番信頼のおけるface-to-faceの
コニュニケーションで作られた家族というものが
だんだん崩壊し、家族同士の繋がりも消失してきました。

これは少子化に伴う減退かもしれません。

でも、そうすると、食事を一緒にして、
信頼感を高めるような行為も減ってきたわけですね。

コンビニが増え、電子レンジができ、
食事を作る時間が省略されて
個人の自由な時間ができた。

だけど、実は信頼というのは、
時間を節約して作られるものではないんです

「そうだ、その通り!」
「効率よく信頼構築」なんてありえないのだ。

 

実は時間をたくさん使うことが
信頼関係の構築に繋がります


私はあなたのために
こんだけ大切な時間を使ったということが
信頼関係の第一歩なんですね。

それを近代の社会の方向性というのは、
効率化、経済化によって、
むしろ後ろのほうに
追いやってしまったんだろうと思います。

なんにでも効率化を求め、
それが常に善であるかのような価値観は
いったいいつからこんなに広まってしまったのだろうか。

 

私はですね、やはり、子育てというのは
経済化も機械化もできないもの
だと思います。

子どもの成長期間というのは
決して縮めることはできません。

そのために、時間を私たちは
費やさなくちゃいけないわけですね。

そして、子どもが少なくなり、
家族が崩壊してしまうと
集団原理だけの社会になります。

これは突き詰めれば、サルの社会に
だんだん戻っていくということになります


なにかトラブルが起これば優劣を決めて、
勝敗を予めお互いが認知して、
トラブルを避け合うということが、
一番簡単で効率的なやり方ですから、
まぁ、言うならば格差社会ですね、
始めから勝負を決めちゃいましょうというふうに
傾斜していくのが当然だろうと思います。

「子育ては経済化も機械化もできない」
「子どもの成長期間は縮められない」
こんなあたりまえのことがなぜか新鮮に響くくらい、
いまや、子育てにも
「効率化」の波は押し寄せてしまっている気がする。

ここで紹介した通り、
異なる二つの論理を持つ家族と共同体を
ちゃんと維持できなくなれば、
それはまさしくサルの社会だ。

 

そうすると、我々が何百万年もかけて築き上げてきた
共感能力を発揮する場所がないわけですね。

そうすると、信頼関係は消失し、
なおかつ、自分の利益が得られない共同体に
属している必要性がなくなって、
共同体にアイデンティティを持つことができなくなります

そして、自分に利益をもたらしてくれる仲間だけを
求める集団へと変わっていきます
ので、
その集団は閉鎖的になって行くと思います。

それが、今の日本社会の辿り始めている
道なのではないかというのが
私の持っている大きな懸念です。

それはゴリラの社会と人間の社会を比較する中から
だんだんと明らかになってきたことです。

最後は駆け足になってしまっているが、
メッセージはクリアだ。

これまでの数多くの事例で示されたものは、
 * 人間が生物として持っている能力
 * 人間が生物として育んできた能力
 * 人間が共存するために工夫してきた様々な能力
本来はそういったものを発揮できる社会であるべきなのに、
一方的で盲目的な
「効率化」や「個人の利益の最大化」は、
むしろそれらを活かせない、
生物としての人間にふさわしくない社会を
作る方向の力になってしまっている、
という警告。

「共同体にアイデンティティを持つことができなくなります」
の一文が持つ意味は、繰り返し聞く(読む)と、
次第に胸に迫ってくるようになる。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2015年3月 8日 (日)

「家族の論理と共同体の論理」

(全体の目次はこちら


「家族の論理と共同体の論理」

- ふたつの論理、そして個人の利益 -

 

ゴリラの社会から人間の社会を見つめる
京都大学学長の山極寿一(やまぎわ・じゅいち)さんの、
NHKカルチャーラジオでの講義。これまで

(1) 「円くなって穏やかに同じものを食べる」
(2) 言葉は新しい道具
(3) 「勝つ論理と負けない論理」
(4) みんなで守り育てるもの

について紹介した。もう少し続けたい。

今日は「家族の論理と共同体の論理」
そして、そのふたつの論理の中での個人の利益について。
(以下水色部、2014年12月7日の放送から)

 

前回の復習から。

人間も夫婦だけで子どもを育てていません。

家族というのが複数集まって
上位の共同体を作るということをやっているわけです。

じつはコレが難しいんです。

家族と共同体の共存、
どんな点が難しいと言うのだろう。

 

家族の論理と共同体の論理って実は違うんですね。

家族というのは実はえこひいきをする集団なんです。
自分の子どもがかわいい、
子どもにとっては自分の親が大切だ、という感情を
常に持っています。

でも共同体というのは平等ですよね。
みんなが等分に負担をする、というのが
共同体の論理です。

何か助けてあげればお返しがくる、
何か助けてもらえばお返しをしたいと思う、
そう言う気持ちによって繋がっているものです。

それは家族とは違います。

こう説明されると、
家族と共同体の違いはイメージしやすい。

 

家族はね、収奪があたりまえなんです。
子どもは親からお金をもらってもお返しをしません。
それがあたりまえだからですね。

でも、共同体はそうじゃないでしょ。

そういう論理の違いを
同時に実現することができないから、
人間以外の霊長類の社会というのはどっちかなんです


ゴリラは家族的な集団しか作りません。
その上位の集団はありません。

チンパンジーは家族がなくて、集団だけです。
そういう集団しか作れなかったんです。

家族のロジックか、共同体のロジックか。
違う論理の使い分けは難しい、というわけだ。

 

一つの論理、一つの集団なんです。

人間は集団に二つの論理を重ね合わせた
これは非常に高度なものであり、
これは共感力を高めなければ
できなかっただろうと思います。

人間の持つ普遍的な社会性というのはですね、
向社会性、互酬性、帰属性というですね
この3つだろうと私は思います。

共同体の内部に複数の家族がある。

家族というのはもともと
見返りのない報酬を原則とするものです。
そして共同体は家族間で、
お互い対等な立場でやりとりをするものですよね。

そういう共同体、あるいは家族に
私たち人間は一生帰属性を持つ、
アイデンティティを持つ


で、それを持つことによって、実は逆に
いろんな集団を渡り歩くことができる。

「帰属性を持つことが、
 逆に集団を渡り歩くことを可能にしている」
とは、どういうことだろう。

 

私たちは由来の不明な人を
すごく不気味に思うわけですね。
どこから来たかわからない。

でも、私は長崎のこういう町の出身です、
私はあなたの知っている人の近くにいた家族の出身です、
と言えば、
それは信頼を作る大きな一歩になるわけですね。

相手の素性を知る、
そのために由来、帰属意識を表現するということは、
人間がいろんな人たちと付き合うために必要です。

「帰属性」には確かにそういう面がある。
長崎出身と聞いたところで、何が変わるわけでもないのに、
そういった帰属性情報には、
なぜか明らかに不信感を和らげる力がある。

 

今、現代は家族が崩壊し始めていると言われています。

これは私は大きな危機だと思うんですね。
なにも家族が現代の社会のシステムに
合わなくなったからではないと思います。

 

さあ、ここから、これまでの話を全部包含するような、
大きな視点での問題点の指摘が始まる。

 

実は現代の、あるいは近代と言ってもいいのですが、
科学技術は個人の自由、
あるいは個人の利益を最大化するように作られてきました


それが結果として家族や共同体を
だんだん弱体化させているんだろうと思います。

その最大の原因は
急激なコミュニケーションの変化にあると
私は思っています。

「科学技術は個人の利益を最大化するように作られてきた」
この点はどうだろう。
そんな簡単に言い切るなよ、と思いつつも
いい反例がすぐには思い浮かばない。

 

先ほど申し上げましたように、
言葉というのはまだ人間は使い慣れていません

ですから、いろんなトラブルが生じる。

で、私たちが未だに信頼に足る集団というのは
せいぜい150人から160人の範囲
に留まっています。

それをインターネットはあっという間に
数万、数百万という規模に広げました。
私たちは顔の見えないface-to-faceの
コミュニケーションの取れない相手と
日常的に付き合わざるを得なくなっているわけですね。

で、それによって私たちは
信頼関係を作れなくなっています。

普段、信頼関係にある人間にも
不安を抱き始めているわけです。

つまり相手がどういう人間と付き合っているか、
背後にどういう仲間がいるかわからないからです。

言葉は新しい道具で書いた通り、
今の私たちの脳が、言葉に頼らずに
集団を形成できるのはせいぜい160人程度。

その後、言葉を使うことで、
人間はなんとか付き合う範囲を広げてきた。
それでも、五感を伴わない
言葉のみに依存する信頼関係はそもそも弱い。

そこにネットが登場。

さあ、どうする?


信頼関係の構築を根底から支えていたものを
もう一度見つめなおしながら、
本講義の紹介、もう一回だけ続けたい。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2015年3月 1日 (日)

みんなで守り育てるもの

(全体の目次はこちら


みんなで守り育てるもの

- 人間の赤ちゃんはよく泣き、よく笑う -

 

ゴリラの社会から人間の社会を見つめる
京都大学学長の山極寿一(やまぎわ・じゅいち)さんの、
NHKカルチャーラジオでの講義。これまで

(1) 「円くなって穏やかに同じものを食べる」
(2) 言葉は新しい道具
(3) 「勝つ論理と負けない論理」

について紹介した。

今日は、「人間の子育て」について。
(以下水色部、2014年12月7日の放送から)

 

【共感力と人間の子育て】

人間はですね、
ゴリラよりよっぽど高い共感能力を持っています。

それはなぜ、ということになるんですが、
実はですね、
結論を先取りして言えば、

それは人間が熱帯雨林を離れて、サバンナに進出してから、
子どもの育て方を変えて、
みんなで一緒に子どもを育てるという方法をあみだし
そこで共食を高めながら、
つまり食物の分配を、さらに共食に高めながら、
共同意識を持った集団を
作り上げてきた結果なんだろうと思います。

「みんなで一緒に子どもを育てる」ということは
どういうことか。
なぜ、そんな方法をあみだす必要があったのか。
その理由について考えてみよう。

 

ゴリラの子育てと人間の子育てを比べてみると、
とっても面白いことがわかります。
人間てなんてこんな不思議な子育てをしてるんだろう、
ってことなんです。

ゴリラというのはですね、
小さく生んで大きく育つ、ということをやります。

ゴリラのオスの体重は200キロを越えます。
メスも100キロを越えることがあるんですね。
人間なかなか越えませんよね。

でもゴリラは生まれるときの体重は1.8Kgくらいです。
非常に小さい。だから小さく生んで大きく育つんです。

で、3年くらいお乳を吸います。
4年くらいお乳を吸うこともあります。

人間の子どもって、
すぐお乳を吸うのをやめちゃいますよね。

お母さんは1年間赤ん坊を腕の中から離しません。片時も。
赤ちゃんは泣きません。泣く必要がないからです。

 

* 赤ちゃんが大きいこと
* 赤ちゃんの離乳が早いこと
* お母さんが赤ちゃんを抱き続けないこと
人間のこれらの特徴が、
共同保育とどういう関係があるのだろうか。

 

最初に「離乳が早いこと」から。

引用した、ゴリラの子育てとの比較にもある通り
ヒト科の生物の中では、人間の離乳は早い。

オラウータンは7年、
チンパンジーは5年、
ゴリラは3年から4年もお乳を吸っている。

大きく生まれて、そのうえ離乳も早いのに、
人間の赤ちゃんは長い間「ひ弱」だ

ひとりでお母さんにつかまることすらできない。
なのでお母さんも、ゴリラのように、
片時も離さずに抱き続けることはできない。

しかも、
離乳しても大人と同じものが食べられない。

現代社会ならともかく、
自然界の中で「離乳食」に相当するものを調達するのは、
たいへんだったはずだ。

 

「赤ちゃんが大きいこと」についてはどうだろう。

人間の赤ちゃんが「大きい」のは、と言うか「重い」のは
体脂肪が多いせいだ。
この体脂肪、実は脳の成長のために使われている。

成人の場合、脳の重さは体重のたった2%なのに、
驚くべきことに摂取エネルギーの20%以上は
脳の維持に使われている


成長期の赤ちゃんにおいては、
この数字がさらに大きい。

摂取エネルギーの40%から85%を
脳の成長に回している。

赤ちゃんのころはもちろん、
12歳から16歳ころまで、この脳優先が続く。
その結果、体の成長はいつも
脳をあとから追いかける、ということになる。

脳と体の成長がアンバランスなこのころが
まさに「思春期」と呼ばれる時期だ。

 

大人と同じ物が食べられない離乳期、
脳と体がアンバランスな思春期、
親だけでケアすることが難しい時期が
人間にはある。

 

そのために実は人間の社会は、
ある工夫をめぐらしたのです。

人間の子どもは「早い離乳」と「遅い成長」に
特徴付けられます。
この離乳期と思春期というふたつの大事な時期を
みんなで守り育てるために共同保育が必要になりました。

 

ところで、人間の赤ちゃんが
「ひ弱」なまま離乳してしまうのは
どうしてなのだろう。

離乳が早い理由は、子どもをたくさん生むため、
と考えられている。
二足歩行で熱帯雨林を飛び出した人間は、
肉食動物の脅威にさらされていた。

イノシシのように、
一度に多くの子どもを産めない以上、
子どもの数を増やすためには、
妊娠のサイクルを短くするしかない。

お母さんは、授乳していると
排卵が抑制されて次の妊娠をしない。
より短いサイクルで妊娠できるようにするためには、
より早く離乳させる必要があったわけだ。

 

人間の二足歩行は
脳が大きくなるよりも前に完成してしまった。
それゆえ、骨盤がお皿状になり、
産道を大きくすることはむつかしくなった。

なのに、脂肪をたっぷりもった大きな赤ちゃんを
産む必要が生じてきた。
脳の成長のために脂肪が必要だからだ。

その結果、自分では子どもが産めなくなってきた。
産婆さんが必要。

難産になり、出産に時間がかかる。
その間、肉食獣に狙われやすい。

 

このように、
出産時期から、乳児期、離乳期、思春期と
人間の出産、発育課程には、
共同保育が必要な理由がたくさん存在していた。

 

そこに人間の赤ちゃんがよく泣き笑うという
特徴が出てくるわけです。

実は人間の赤ちゃんは
こういった共同保育が
ずっと昔に起ったという証拠を
示してくれているわけですね。

 

誰にでも自己主張する「泣き」、
誰にでもケアしてもらうための「笑顔」、
一年間、片時もお母さんから離れない
ゴリラの赤ちゃんには必要のないアクションを、
皆に育ててもらうために
人間の赤ちゃんは身につけていった。

しかも、人間は肉食獣と違って、
毎日毎日食事をしなければならない。
子育てと食事のケア、
まさに広い意味での助けが親にとっては必要となる。

そこに、家族を越えた共同体が登場することになる。

人間はサルや類人猿の仲間なんです。
だからさっきも言ったように
毎日毎日食事をしなくちゃいけない。

そのケアをしなくちゃいけない。
そういうケアをしながら
夫婦で子どもを育てるということは
ありえないことなんです。

だから、人間も夫婦だけで子どもを育てていません

家族というのが複数集まって
上位の共同体を作るということをやっているわけです。

じつはコレが難しいんです。

 

共同保育のための家族と共同体。
「じつはコレが難しいんです」って、
どういう点が難しいのだろう。
この説明は次回に。

 

ともあれ、
人間の赤ちゃんは、
もともとみんなで守り育てるものなのだ。
だから、あんなに泣いて、あんなに笑う。


そもそもの姿のまま、
共同体全体で育てようではないか。

それが生物としての人間の
自然な姿なのだから。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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