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2015年1月

2015年1月25日 (日)

「泣き・笑い まばゆい場所で」

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「泣き・笑い まばゆい場所で」

- 「黒い服」で、「色とりどりの服」で、-

 

前回、第152回の芥川賞を受賞した小野正嗣さんの
受賞会見のときの言葉を紹介したが、
芥川賞、直木賞関連では、
2005年に直木賞を受賞した角田光代さんの
短い文章も忘れがたい。
今日はそれを紹介したい。

以下、水色部は、角田光代さんが書いた、
直木賞に決まって「泣き・笑い まばゆい場所で」
という、
2005年1月18日朝日新聞夕刊の記事からの引用・抜粋。

A050118s

直木賞に決まって
    泣き・笑い まばゆい場所で
             角田光代 作家

 受賞が決まりましたら東京會舘(かいかん)へ。
という言葉は、今まで何度も聞いてきた。
芥川賞、直木賞の候補者へあらかじめ通達される言葉である。
二十四、五歳のとき芥川賞で三回、
それから二年前直木賞で一回、
今度で五度目の「受賞が決まりましたら東京會舘へ」である。

 今までずっと落選してきたのだから、
東京會舘へは一度もいったことがない。
こう何度も名前を聞かされ、
かつその建物を訪れられないでいると、
「東京會舘って本当にあるのか」という気がしてくる。

角田さん、
両賞合わせて5度も候補になっていたのだ。

 東京會館というところを一度でいいからこの目で見てみたい。
打ち合わせとか友達のパーティとかではなくて、
できれば、「受賞が決まりましたら」の東京會舘を。

 そんなわけで、受賞が決まりました、と聞いたとき、
うれしい、とか、どうしよう、とか、嘘かも、とか、ぎゃあ、とか、
そんな気持ちの合間に、
ぼんやりと「東京會舘が見られる!」というのがあった。

いよいよ東京會舘のフロアに。

編集者とともにあたふたとエレベーターに乗り込み、
「ここが東京會舘か」と思っていた。

 記者会見が行われるフロアでエレベーターの扉が開き、
開いた途端、ぱあっと大勢の人の顔が目に入った。

みんなにこにこ笑っている。
笑って、手を叩いている。
あ、と思った。気がついたら、泣いていた。

大勢の人に迎えられて、思わず涙を流す角田さん。
その時、彼女の胸に去来していたものとは・・・

 そこにいた面々は、各社の担当編集者の方々だった。
そうして、つい先日、
私のために集まってくれた人々だった。

 ちょうど一ヵ月半前、私は母を亡くし、
ばたばたと葬儀を出した。
ほとんどの身内がもう亡くなっていて、私が喪主をつとめた。
身内もおらず、自分で葬式を出すのもはじめてのことで、
何をどうしたらいいのかわからない。

母が死んでしまったことすらもまだ実感できていなかった。

そのとき、駆けつけてくれたのが数人の編集者だった。
ノートとペンを用意した彼らは、
ぐちゃぐちゃと泣いている私のかわりに、
てきぱきと事務的なことを決めてくれ、
葬儀の際のアドバイスをくれ、
いろいろな人に連絡を取ってくれ、
当日までにすべきことをリストアップしてくれた。

こういうときの事務的なヘルプは、
いや、事務的に対応してくれたヘルプだからこそ、
心からうれしかったことだろう。

 さみしい葬儀にはしたくない。
そんな私の胸の内を理解してくれるかのように、
じつに大勢の編集者の方々が集まってくれた。
会ったこともない母のために泣いてくれた。

自分の娘がこんなに大勢の人に支えられると知って、
母は安心して旅立てたに違いなかった。

 エレベーターを降りて目に入ったのが、
その同じ面々だった。

不謹慎な感想だが、
「あ、葬儀のときと同じ顔ぶれ」
とまず思った。
「今日はみんな喪服じゃない」
続けて思った。
人前で泣くのなんか大嫌いなのに、
そう思ったら、泣いてしまった。

一緒に泣いてくれた人々の笑顔。

 かなしいときに黒い服で駆けつけてくれた人々が、
うれしいときに色とりどりの服で駆けつけてくれている。

こないだいっしょに泣いてくれた人々が、
今日はいっしょに笑ってくれている。

なんかすごい。すごいことである。
ありがたいという気持ちをはるかに超えてうれしかった。

 私がもし神さまだったら、
葬儀と発表の順番を逆にするのに、
と思わずにいられないのだが、しかしもし逆だったら、
私は駆けつけてくれた人々に、
うっかり感謝し損ねたかもしれない。

かなしみのあとだからこそ、思い知らされることもある。

「かなしいときに黒い服で駆けつけてくれた人々が、
 うれしいときに色とりどりの服で駆けつけてくれている。

 こないだいっしょに泣いてくれた人々が、
 今日はいっしょに笑ってくれている」


「黒い服」で、「色とりどりの服」で、か。
簡単な言葉だけれど、うまい言葉を選ぶなぁ。
そういう人たちの思いに、心から感謝できるときの幸福感。

エレベーターが開いたとき目に入ったものが、
私にとっての東京會舘である。

それはまさしく想像通りだった。
ともに仕事をし、ともにかなしんでくれる人々の、
光のような笑顔がはじける、
まばゆくきらびやかな場所だった。

 

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2015年1月18日 (日)

あらゆる場所が物語の力を秘めている

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あらゆる場所が物語の力を秘めている

- 故国の白樺のざわめきも -

 

1月15日、第152回の芥川賞、直木賞が決まった。

芥川賞は正式には「芥川龍之介賞」。
では直木賞は?

 

ご存知だろうか。
正解は「直木三十五賞」
「なおきさんじゅうごしょう」と読む。

芥川龍之介の作品も、
芥川賞の作品も、直木賞の作品も
何冊も読んだことがあるのに、
直木三十五の作品はひとつも読んだことがない。
どんな作品なのだろう。

 

さて、今回、芥川賞を受賞した小野正嗣さんの
受賞会見では、ふたつ、印象的な言葉があった。
忘れないうちにちょっと書き留めておきたい。
(以下、水色部、小野さんの言葉)

 

ひとつめ。

「批評でも活躍しているが、
 自分をどういう作家だと分析しているか」
の質問に対して。

研究と批評活動も確かにやっています。
たいした研究者でも批評家でもありませんけど、
おそらく作品を書くことと読むことは
連動しているんじゃないですか。

素晴らしい作品を読むと、自分でも書きたくなる。
人間には模倣の欲望があるから、
いいものを見ると絶対にまねしたくなる。

けれども、素晴らしい作品というのは近づくと
ここはすでにもうおまえの場所じゃない
そうじゃないものを創らなければいけない」と
蹴っ飛ばす。

本を批評的に読むというのはそういう風に
ケツを蹴っ飛ばされる経験だったわけです。

いろんなものに蹴られながら、
自分の場所に向かっていく

読むことは書くことに必ずつながっている。

「蹴られながら、自分の場所に向かっていく」か。
蹴られていることに気付く能力こそが、
才能の一部ではあるのだろうけれど。

 

ふたつめ。

大分県南部の蒲江町(現佐伯市)で生まれ育った小野さん。
大分合同新聞の記者がこんな質問をした。
「今までずっと書いてきた蒲江や
 県南が舞台の作品で受賞した感想を」

まじめな答えを言いますと、
小説とは土地に根ざしたものですよね。

土地があり、そこに生きている人を描くのが
小説の基本形だと思います。
あらゆる場所が物語の力を秘めている

それをすくい取って書くことが、普遍的な力を持つ。

世界の優れた文学の多くは、土地と人間を描いている。
蒲江という土地も、非常に面白い場所です。
そういう個別の世界を描きながら、
掘り下げていくとある種普遍的なものにつながる


自分が実現できるとはまったく思いませんが、
僕が大好きな文学はそういうものですので、
個別の世界を描きながらも普遍的なもの、
人間的な何かを描くことは可能であるし、
自分もできればそういう作品を書きたいという風に
常々思っています。

あらゆる場所が物語の力を秘めている。

そう言えば、音楽の世界においても
ピアニストの中村紘子さんは、
ロシア出身の作曲家ラフマニノフについて、
こんな話を書いていた。
(以下、緑色部、
 中村紘子著「アルゼンチンまでもぐりたい」文春文庫
 からの引用)

 セルゲイ・ラフマニノフの場合は、
今から四分の三世紀前の十二月、
レーニンの十月革命から逃れるために祖国を離れた。
永遠の別れであった。

愛する家族を伴っての亡命ではあったが、
しかし彼はその後五年以上にもわたって
作曲することができなかった


その理由を問われたとき、彼はこう答えたといわれる。

「どうやって作曲するのですか? 
 メロディがない、何もないというのに。それに」と
彼は弱々しく微笑んでしばらく沈黙した。

「私はもう何年ものあいだ、
 (懐かしい故国ロシアの)ライ麦畑のささやきも
 白樺のざわめきも聞いていないのですから……」


 八十四曲に及ぶラフマニノフの歌曲は、
ごく数曲を除いてみな、
彼がロシアにいたときに作曲されたものである。

土地が持っている力は、
土地に根ざしたものの力は、
もちろん小説や音楽の世界でだけの話ではない。

 

 

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2015年1月11日 (日)

大づかみ式合理主義

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大づかみ式合理主義

- 曖昧とは限らない -

 

未年が始まった先週、加藤徹さんが書いた
「貝と羊の中国人」(新潮新書)をテキストに
羊を含む漢字の背景を少し紹介したら、
思いのほか多くの反応をいただいた。
「無形のよいこと」がそれぞれの方に響いたようだ。

 

なので、というわけではないが、同じ本から、
今日は、中国の「大づかみ式合理主義」について
紹介したいと思う。(以下水色部は本からの引用)

 

【杜甫の「春望」】

 日本の詩を中国語に訳すと、その味わいは死ぬ。
逆もまた真なりで、
中国語の詩の妙味を日本語に訳すことも、難しい。

 杜甫の有名な漢詩「春望」の、第三句と第四句もそうである。
漢詩は、漢文すなわち古典中国語で書いた詩である。


 国破山河在、城春草木深。
 感時花濺涙、恨別鳥驚心。 (下略)


 伝統的な訓読では、右を

「国破れて山河(さんが)在り、
 城春(しろはる)にして草木(そうもく)深し。
 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ、
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」

と読み下す。

 

【泣いたり驚いたりしているのは誰?】

 戦乱の時代、
家族との別離を余儀なくされたこの中国の詩人は、
美しい春の花を見ても涙を流し、
小鳥のさえずる声にもハッと胸を痛めた。

つまり、泣いたり驚いたりする主語は、
主人公である「私」である


日本人はそう解釈し、「花にも」「鳥にも」と読み下した。

 ところが中国語(この場合は漢文だが)の原文は、
あくまで「花濺涙」「鳥驚心」である。
これを
「花、涙を濺ぎ(花が涙を流す)」
「鳥、心を驚かす(烏が胸を痛める)」と訓読して、
花や鳥を擬人化したものと解釈することもできる

こうなると、
「泣いたり驚いたりしているのは、ほんとうは誰?」
という疑問が浮かぶ。
ところが、この疑問を加藤さんは、バッサリと切り捨てている。

 

【愚問!?】

 結局、涙を濺いだり心を驚かすのは、
人間である作者なのか、それとも擬人化された花や鳥か。
 そんな詮索は、実は愚問である


中国人である杜甫は、
この両方のイメージの錯綜を計算のうえで
「感時花濺涙、恨別鳥驚心」と詠んだのだ。

 

【魅力的な曖昧さ】

春の鮮やかな花が涙で曇って見えるのは、
自分が泣いているのであり、花も泣いているのだ。

小鳥のさえずりにハッと胸を突かれるのは、
自分が感傷的であるだけでなく、小鳥も胸を痛めているのだ。

 日本語訳や訓読では、
そのような魅力的な曖昧さは、切り捨てざるを得ない。
「花にも涙を濺ぎ」か「花、涙を濺ぎ」か。
いずれを採るにせよ、原詩の味わいとは、隔たってしまう。

「錯綜を計算のうえ」というよりも、
杜甫にとっては、
そもそも「錯綜していない」ということなのだろう。

それを日本語的に解釈しようとするなら
それは「愚問」と。

 

【日本語は分析的?】

 右はほんの一例だが、
「てにをは」などの助詞を多用する日本語は、
世界的に見ても、かなり分析的な言葉である。
これは、日本語の長所である。
ただ、中国語の真骨頂である大づかみ式表現の醍醐味は、
日本語に訳すと失われてしまう。

 

【簡素な合理主義】

「花濺涙」「鳥驚心」のような曖昧さ(日本人から見て)は、
現代中国語にも、そのまま受け継がれている。

 中国語で「私は餃子を食べる」は「我喫餃子」、
     「私は食堂で食べる」は「我喫食堂」
と言う。
逐語訳すると、それぞれ
「私、食べる、餃子」「私、食べる、食堂」である。
餃子「を」食べるのも、食堂「で」食べるのも、
語形は同じなのだ。

常識的に考えて、食堂「を」食べる人はいない。
だから、この簡素な言いかたでもよい。

 これが、中国人の大づかみ式合理主義である。

この「日本人から見ての曖昧さ」が
「中国人から見ての曖昧さ」とは限らない、という点が
外国を学ぶ際の難しさであり、面白さだ。

 

【分析的合理主義】

 中国人と対照的に、西洋人は、分析的合理主義を好む。

 西洋の言語で「私は食堂で食べる」と言うのは、大変である。
まず「食堂」は、定冠詞か不定冠詞か、
男性名詞か女性名詞か中性名詞か、
単数か複数か、主格か目的格かそれとも他の「格」か。
動詞「食べる」は、現在形か過去形か未来形か進行形か…。

中国人の感覚では、こうした煩瑣(はんさ)な分析的合理主義は、
冗長で、かえって物事の焦点をぼやけさせる
「私、食べる、食堂」で充分なのだ。

 ちなみに、中国語の動詞に「活用」はない。
「喫(食べる)」は、原形も現在形も過去形も、みな「喫」である。

過去か現在か未来かは、前後の文脈で判断できるのだから、
いちいち動詞を複雑に活用させて示す必要はない。
それが中国式合理主義である。

「煩瑣な分析的合理主義が、
 かえって物事の焦点をぼやけさせる」
細かく分析的なものが、
いつでも焦点が合っていて正確というわけではない。

本質を捉える、
このためには「大づかみ」が有効なこともある。
「大づかみ」とは必ずしも曖昧ということではない。

 

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2015年1月 4日 (日)

羊だけでは嘉納してくれない

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羊だけでは嘉納してくれない

- 羊が含まれる漢字の背景 -

 

未年、2015年が始まった。
今日(2015年1月4日)の朝日新聞天声人語には、
こんな記述があった。

今年の干支(えと)を表現した様々な作品を、
館内のあちこちで探す「羊めぐり」の趣向もあり、飽きさせない
▼博物館の解説によれば、
羊は古代中国で「よきもの」という意味を持つようになった。
栄養源として神への捧げ物として、
親しまれ大切にされたからだろう。
確かに羊にまつわる「美」や「善」「養」「祥」といった漢字は
どれも良い意味だ

天声人語の文章だけでは、
「羊」が栄養源や捧げ物だから「よきもの」
のように読めてしまうし、
わかりやすいので簡単に「なるほど」と思ってしまうが、
羊を含む漢字には、もう少し深い背景があるようだ。

加藤徹さんが書いた
「貝と羊の中国人」(新潮新書)
興味深い記述があるので、今日はそれを紹介したい。
           (以下緑色部は本からの引用)

 

中国人(漢民族)の祖型は、いまから三千年前、
「殷(いん)」と「周(しゅう)」という
二つの民族集団がぶつかりあってできた。

なのでまずは「殷人」の話から。

 

【財貨を重んじる殷人】

 殷人の本拠地は、豊かな東方の地だった。

彼らは、目に見える財貨を重んじた。
まだ金属貨幣が存在しなかった当時、
貨幣として使われていたのは、
遠い海から運ばれてきた「子安貝」だった。

有形の物財にかかわる漢字、寶(宝の旧字体)、
財、費、貢、貨、貪、販、貧、貴、貸、貰、貯、貿、
買、資、賃、賜、質、賞、賠、賦、賭、贅、贖…
などに「貝」が含まれるのは、殷人の気質の名残である。

 

【殷の宗教は多神教。物質的な供え物を好む】

 殷の宗教は多神教で、神々は人間的だった。
日本の俗諺(ぞくげん)で
「御神酒(おみき)あがらぬ神は無し」と言う。
殷の「八百万(やおよろず)の神々」も、
酒やごちそうなど、物質的な供(そな)え物を好んだ

 

【殷人は亡国の民となり、商人となる】

 殷人は、自分たちの王朝を「商」と呼んだ
三千年前、殷王朝が周によって滅ぼされると、
殷人は土地を奪われて亡国の民となり、
いわば古代中国版ユダヤ人となった。

「商人(しょうひと)」と自称していた殷人は、
各地に散ったあとも連絡を取り合い、
物財をやりとりすることを、あらたな生業(なりわい)とした。
これが「商人(しょうにん)」「商業」の語源である。

欧州のユダヤ人が学芸でも成功したように、
殷人の子孫も学者を輩出した。
紀元前六世紀の孔子も、前四世紀の荘子(そうし)も、
殷人の子孫
であった。

農耕民族的で、多神教で、有形の物財を重んじる
「貝の文化」の殷人。

では、いっぽうの周人にはどんな特徴があるのだろう。

 

【周人は遊牧民的。羊こそが宝】

 いっぽう周人の先祖は、中国西北部の遊牧民族と縁が深く、
血も気質も、遊牧民族的なところがあった

殷人が貝と縁が深かったように、周人は羊と縁が深かった

周の武王をたすけ、殷周革命の立役者となった
周の太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)の姓は、
「姜(きょう)」である。
字形も字音も「羊」と通ずる。
周人にとって、羊こそが宝であった。

 

【農耕民族は地域密着型の多神教になりやすい】

一般に、農耕民族は、地面から雑草や樹木や虫など
生命がどんどん湧いてくる自然環境に住んでいるため、
地域密着型の多神教になりやすい

 

【遊牧民族は普遍的な一神教をもちやすい】

いっぽう、広漠たる大草原や沙漠地帯を
移動しながら暮らす遊牧民族は、
空から大きな力が降ってくる、
という普遍的な一神教をもちやすい。

 

【「天」は無形の善行を好む】

 遊牧民族の血をひく周人は、
唯一至高の神である「天」を信じた。
天は、イデオロギー的な神であり、
物質的な捧げものより、
善や義や儀など無形の善行を好む


殷人は、神々を好んで図像に描いたが、
周人は、ユダヤ教徒やイスラム教徒が
唯一神を図像に描かぬのと同様、
「天」の姿を絵や彫像にすることはなかった。

 

【羊だけでは嘉納してくれない】

『旧約聖書』によれば、
唯一神は、アベルが供えた羊は嘉納(かのう)したが、
その兄カインが供えた農作物は嘉納しなかった
(「創世記」第四章)。

周人も、「天」を祀る(まつ)儀礼においては、
羊を犠牲にして供えた

殷の神々は、酒や肉のごちそうで機嫌をとり、
「買収」することができた。

しかし周人の「天」は、羊を捧げるだけでは不十分だった。
善行や儀礼など、無形の「よいこと」をともなわねば、
「天」は嘉納してくれなかった。


義、美、善、祥、養、儀、犠、議、羨……など、
無形の「よいこと」にかかわる漢字に「羊」が含まれるのは、
イデオロギー的な
至高の神「天」をまつった周人の気質の名残である。

遊牧民族的で、一神教で、無形の「主義」を重んじる
「羊の文化」の周人。

羊そのものではなく、
羊を納めてもらうための無形の「よいこと」こそが
「羊を含む漢字」というわけだ。

未年の正月に再度読むと、ちょっと気持ちが改まる。

 

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