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2014年10月11日 (土)

狭いわが家は楽しいか

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狭いわが家は楽しいか

- 翻訳するものは何? -

 

今は翻訳家としてよく知られている柴田元幸さんが、
以前、日本人の幸福感と翻訳について、
ちょっと興味深いことを書いていたので今日はそれを紹介したい。

ご自身のことをまだ「僕みたいなかけ出しの」と書いているころ、
1990年の雑誌「群像」に掲載された
「狭いわが家は楽しいか」という題のエッセイだ。
(以下水色部 雑誌「群像」1990年12月号からの抜粋・引用)

 

狭いわが家は楽しいか
                  柴田元幸

  狭いながらも楽しいわが家
  愛の日影のさすところ
  恋しい家こそ 私の青空

 ―名訳詞家、堀内敬三訳による、おなじみ『私の青空』の一節。
1927年にアメリカでヒットし、日本では翌年、二村定一の歌で
大流行した曲である。

(中略)

「狭いながらも楽しいわが家」という箇所などは、
『大辞林』の「ながらも」の用例にも取り挙げられている。

 さて、冒頭に引用した部分、
ジョージ・ホワイティングの原詞は次のようになっている。

  You'll see a smiling face, a fireplace, a cozy room
  A little nest that's nestled where the roses bloom
  Just Mollie and me
  And Baby makes three
  We're happy in my blue heaven.

  (笑顔に暖炉、心地よい部屋
   バラの花咲く小さな巣
   モリーと僕
   それに赤ん坊の三人
   僕らは幸福 私の青空)

一般に日本語の歌詞の場合、
伝えることのできる情報量は英語よりずっと少ない。

英語では「二」言えるところを日本語では「一」も言えない。
それを思うと、原詞のエッセンスを巧みに抽出している
堀内訳の上手さにはあらためて敬服してしまう。

 

「ながらも」に宿る諦念とは。

特に見事と思うのは「狭いながらも楽しいわが家」の部分だ。
というのも、この一句に、
訳者が日米間のものの感じ方の違いを計算に入れて、
原詞を微妙にずらしていることが感じられるからである。

 たしかに原詞でも、cozyという言葉には
「小ぢんまりとした」というニュアンスがあるし、
A little nestはもっとはっきり「小ささ」を意味している。

けれども、そこで意味されているのは
「心地よい」小ささ、
「それ以上大きい必要はない」小ささである。
それはあくまで満足の表現である。

これに対し、「狭いながらも」には、
「本当はもう少し広いほうがいいんだけど、
でも、ま、いいか」
という響きがある。

それはいわば快い諦念の表現である。
原詞の「小さくて、楽しいわが家」が、
訳詞では「小さいけど、楽しいわが家」に変わっているのだ。

 

全面的な肯定を好むアメリカ人。日本人は?

 大した差ではないかもしれない。
たとえば、"Home on the Range"(草原のわが家)の雄大さが
『峠のわが家』のつつましさに変貌してしまうことに比べれば。

けれども、
「小さくて、楽しい」と「小さいけど、楽しい」の違いの方が、
表面的には小さくても、
ある意味ではより深い違いに根ざしているともいえる。

なぜなら、それは「楽しい」という思いの表わし方、
あるいは思いの抱き方自体における、
両文化間の違いを体現していると思うからだ。

 乱暴な一般論をいうと、アメリカ人は何かを肯定するとき、
それを全面的に肯定する表現を好むと思う。
否定的要素はあえて口にしないか、むしろ肯定的要素に読みかえて
(「狭い」ではなくcozyとして)表現する。

彼らにとって、狭いわが家、と言ってしまったら、
それはもはや楽しいものではないのだ。

 逆に日本人は、
「……ながらも」「……ではあれ」というふうに、
むしろ何らかの限定を加えて肯定することを好む。
いってみれば、
百パーセントの幸福よりも、
「……だけど、でも、ま、いいか」と
自分に言い聞かせる部分があった方が、
幸福としてリアルなのだ。

 

ずらしていながらも、うまいと思わせる訳。
では、どこにこんな表現に到達できる秘密があるのだろう。

 つまり、堀内訳のよさは、オリジナルの英詞をも
一種の「翻訳」として捉えているところにある。

図式化すれば、「楽しいわが家」という、
いわば<原概念>―これをかりにAと呼ぼう―がまずあって、
それが英語の歌詞においてはA1として「翻訳」されている。
訳詞はA1を翻訳するのではなく、
A1の向こうに見えるAそのものを翻訳する
ことによって
A2を作ろうとしている…、ということである。

 むろんここには危険がともなう。
A1の向こうにいかなるAを読み取るかは、
翻訳する側のセンスに左右されるからだ。
口でいうのは易しくても、
僕みたいなかけ出しの翻訳者にはなかなかできない。

よい翻訳をすることは、
よい翻訳について語るよりずっと難しい。

簡単に図で書いてみよう。

Photo

このように英語になったA1を翻訳するのではなく、

 

Photo

「A1の向こうに見えるAそのものを翻訳する」のだ。
明快で、なんてわかりやすい説明だろう。

もちろん簡単ではないけれど...

 

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