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2014年10月

2014年10月25日 (土)

「点と線」が生んだ金メダル

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「点と線」が生んだ金メダル

- 一度ジャンプした人間は、 -

 

正確にその視点で追ったことはないので、
まさに感覚的な印象だが、

「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」

という本を目にしたころから、
長い題名の本が新刊の平積みに目立ってきた。

「食い逃げされてもバイトは雇うな」

「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」

「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて
 慶應大学に現役合格した話」

「無印良品の「あれ」は決して安くないのに
 なぜ飛ぶように売れるのか?」

「もし高校野球の女子マネージャーが
 ドラッカーの『マネジメント』を読んだら」

「スターバックスはなぜ値下げもテレビCMもしないのに
 強いブランドでいられるのか?」

 

とても書名とは思えない。
今は、こういう題名の本のほうが売れるのだろうか?

「逆に読む気がしなくなる」という私のようなオジさんは
他にもいると思うのだが、
「そういう人は最初から読者として想定していませんので」
ということなのだろう。

読む気もないのに、 「本の背はどうなっているんじゃ」と
背表紙の文字だけを確認するために手にとってしまう。

一度だけ「試しに読んでみよう」と上に挙げた本の中から
一冊だけ読んでみたのだが、
やはり期待通り(?)読者としては想定されていなかったようだ。

 

では逆に、題名のセンスという意味で、
「うまいなぁ」と感心したものにはどんなものがあっただろう?

もちろんいろいろあるが、最初に浮かぶのは
中学一年の時に読んだ、松本清張著「点と線」だ。
まだ、「情死」という言葉の意味さえ知らなかったころで、
読みながら辞書をひいたことをよく覚えている。

ところで、この「点と線」、
意外にも、スポーツにも大きな影響を与えている。
日本のオリンピック金メダルとも深い関係があるというのだ。

今日はその話を紹介したい。

ノンフィクション作家の長田渚左(おさだなぎさ)さんの、
「点と線」が生んだ金メダル

という文章。
以下水色部、「文藝春秋」2002年12月号からの抜粋。

「もし松本清張氏に『点と線』が生まれていなかったら、
 バレーボールにも時間差攻撃は無かったろう」


 バレーボール界の重鎮・松平康隆氏から、
そうきいたとき我が耳を疑った。

バレーと松本清張氏をつなぐ『点と線』とはいったい何なのか。

 

「点と線」では、有名な
「13番線から15番線の特急あさかぜが見通せるのは4分間だけ」の
エピソードが実に効果的に使われている。

『点と線』には、
二つの死体にまつわるトリックの切り札があった。
真冬の香椎海岸に上った男女の死体。
二人は一週間ほど前に、東京駅で目撃されていた。
慌ただしく列車や電車が絶えず行き交う東京駅13番線ホームから
15番線の《あさかぜ》が見通せる時間は、ほんのわずかだった。
その短い時間が、犯罪トリックのキーとなる。

 死体の男は、贈収賄事件の渦中にあった中央官庁の課長補佐、
女は割烹料亭の女中・お時だった。情死なのか!?

 点と線の盲点をみつけることで、
松平氏も《時間差攻撃》を生み出し、世界を制した。

 

「東洋の魔女」に代表される女子バレー全盛の頃、
なかなか勝利をあげられない
男子チームのコーチだった松平さんは考え続けていた。

一方の男子は絶望的に弱かったという。
欧州転戦で22戦全勝の女子に対し、
男子は22戦で、一つも勝てなかった。

 毎日毎日点をとられ、敗れ続けながら、
当時コーチだった松平氏は考え続けた。

 そして一つのことに気づいた。

 エンドラインの後方で、相手のコートをみつめていた。
水平なネットが目の前に広がっていたという。

「巨大で強固な一枚岩にまで思えていた敵のブロックが、
 消える瞬間を発見した
んです。
 つまりそのとき、
 ネット上に東京駅の13番ホームが浮かんだんです」

一度ジャンプした人間は、
空中に浮ぶと足の裏を地面に着けてからしか、
次の動作を行なうことは不可能だ。


「……だったら先に一度、敵をジャンプさせれば、
 ネット上には誰もいない空間と時間が作り出せる。
 そのすっからかんの間にボールを返せばいいと気づいたんです」

 このとき生まれた《時間差攻撃》が日本男子バレーを変貌させ、
東京五輪で銅、メキシコ五輪で銀、
そしてついにミュンヘンでは金メダルヘと導いたのである。

『点と線』の生んだ《時間差》は、その後、世界へ流布し、
他の競技にも絶大な影響を及ぼした。

「ブロックが消える瞬間」と「見通せる4分」が結びつくなんて。

まさに、「考え続けていた」人だけがたどり着ける
「東京駅の13番ホーム」。

それにしても、
一度ジャンプした人間は、
空中に浮ぶと着地してからでないと次の動作を行えない、
という「あたりまえ、でもどうにもならない物理的制約」の
表現がなんともいい。

 

そう言えば、オリンピック鉄棒 金メダリストの森末慎二さんは、
スポーツにおけるこの「どうにもならない物理的制約」を
こんな言葉で表現していた。
(NHKラジオ深夜便 2013年6月14日放送)
鉄棒の演技の最後の最後、金メダルのかかった着地について。

着地はわかんないよ、これ。
止まんないと「死刑」っと言われたって、
動く時は動くんだもん。

 

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2014年10月18日 (土)

梯子に登った少年

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梯子に登った少年

- 「翻訳とは快楽の伝達である」 -

 

前回、柴田元幸さんのエッセイを紹介したが、
柴田さんで思い出した話がもうひとつあるので、
今日はそれを紹介したい。

東京FMの「未来授業」という番組での柴田さんの講義。
以下、水色部2013年10月28日放送分からの抜粋。
(Podcastで全内容をいつでも聴くことができるので
 ご興味があれば「未来授業」のHPへどうぞ)


まず最初、
「翻訳家の仕事」のこの「たとえ」が実に明快でいい。

たとえですけれども、ここに塀があります。

で、塀の内側にお屋敷があって
お屋敷の庭でなにか楽しいことが起きているらしい。

でも塀があるから、
塀の外にいる子どもたちにはそれが見えないわけですよね。
でも、たとえばそこに梯子が一本あって、
子どもがひとり登れば
その中で起きていることが見えて
外の子どもたちに教えてあげられるわけですよね。

で、ボクのイメージからすると、
翻訳者っていうのは梯子に登った子どもみたいなものですね。

中にある楽しいことを
それが見えない外の子どもたちに教えてあげる
そういうことですよね。

 

だから、正確に伝えることっていうよりも
まずは面白さを伝えるってことが仕事なんだなと思うんですね。

だから、
「つまらない本を訳す」っていうのは論理的に間違っている。
っていう感じがしますね。

「つまらない本を訳す」っていうのは論理的に間違っている。
「面白くなければ伝えられない」ということだろうか。

簡潔な言葉で言い切ってしまっているが、
一歩引いて見ると「伝える」ということについて、
いろいろ考えさせられる。

翻訳者の感じる「面白さ」「快感」については
次のように続けている。

ひと言で言うと
「翻訳とは快楽の伝達である」っていうことなんですね。

だから意味を伝えるんじゃなくて
翻訳者はある作品を読んで
頭っていうよりも体全体でその快感みたいなものを感じる、
で、それを読み手にも伝えるっていう
一種伝達ゲームのようなものですね。

 

ところで、翻訳家は「作者」と「読者」、
どちらの側に立っているのだろうか?

ある意味で翻訳者って真ん中に立っていて、
片っぽには作者がいて、
もう片っぽには読者がいて、
両者の都合は必ずしも一致しないわけですね。

だからその、
二人の女性に両方忠実を尽くす、というのは
あんまりいい比喩じゃないかもしれないけれど、
そういう風に両者の都合を考えつつやっていく仕事、ですが、
強いて言えば作者の代理というよりは
読者代表だろうと思いますね。

作者の代理ってできないですよね。

って言うかもう、
作品を書き終えられてしまった時点で
もう作者だってひとりの読者
の側に回って
作者がその作品について言うことがべつに絶対じゃなくて
ひとりの読者としての
まぁ、かなり特権的な意見ではありますけど、
になってしまうと思うんですよね。

あるのはとにかく活字になったこの言葉だけであると。

その言葉が翻訳者にどう感じられるかっていうのを
別な言葉で再現していく
それが翻訳だとすれば、やっぱりそれは読者のやることですよね。

 

「作品を作り終えてしまったら、
 以降は作者だってひとりの鑑賞者」

これは、文芸作品に限らず
創作に関わる多くのことに当てはまる。

作品は「活字になったこの言葉だけ」、で作者からは独立。
作者自身も、創作している時と、
作品を仕上げたあとは、ある意味別人。

独立した作品だけが、
作者も含めて多くの読者、鑑賞者を
たのしませることができるのだ。

それが面白いとき、必然的に
「快楽を伝達したい」と思う人が現れるということなのだろう。

そう考えると
 「つまらない本を訳す」っていうのは論理的に間違っている。
の意味するところが、ようやく少しわかってきたような気がする。

 

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2014年10月11日 (土)

狭いわが家は楽しいか

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狭いわが家は楽しいか

- 翻訳するものは何? -

 

今は翻訳家としてよく知られている柴田元幸さんが、
以前、日本人の幸福感と翻訳について、
ちょっと興味深いことを書いていたので今日はそれを紹介したい。

ご自身のことをまだ「僕みたいなかけ出しの」と書いているころ、
1990年の雑誌「群像」に掲載された
「狭いわが家は楽しいか」という題のエッセイだ。
(以下水色部 雑誌「群像」1990年12月号からの抜粋・引用)

 

狭いわが家は楽しいか
                  柴田元幸

  狭いながらも楽しいわが家
  愛の日影のさすところ
  恋しい家こそ 私の青空

 ―名訳詞家、堀内敬三訳による、おなじみ『私の青空』の一節。
1927年にアメリカでヒットし、日本では翌年、二村定一の歌で
大流行した曲である。

(中略)

「狭いながらも楽しいわが家」という箇所などは、
『大辞林』の「ながらも」の用例にも取り挙げられている。

 さて、冒頭に引用した部分、
ジョージ・ホワイティングの原詞は次のようになっている。

  You'll see a smiling face, a fireplace, a cozy room
  A little nest that's nestled where the roses bloom
  Just Mollie and me
  And Baby makes three
  We're happy in my blue heaven.

  (笑顔に暖炉、心地よい部屋
   バラの花咲く小さな巣
   モリーと僕
   それに赤ん坊の三人
   僕らは幸福 私の青空)

一般に日本語の歌詞の場合、
伝えることのできる情報量は英語よりずっと少ない。

英語では「二」言えるところを日本語では「一」も言えない。
それを思うと、原詞のエッセンスを巧みに抽出している
堀内訳の上手さにはあらためて敬服してしまう。

 

「ながらも」に宿る諦念とは。

特に見事と思うのは「狭いながらも楽しいわが家」の部分だ。
というのも、この一句に、
訳者が日米間のものの感じ方の違いを計算に入れて、
原詞を微妙にずらしていることが感じられるからである。

 たしかに原詞でも、cozyという言葉には
「小ぢんまりとした」というニュアンスがあるし、
A little nestはもっとはっきり「小ささ」を意味している。

けれども、そこで意味されているのは
「心地よい」小ささ、
「それ以上大きい必要はない」小ささである。
それはあくまで満足の表現である。

これに対し、「狭いながらも」には、
「本当はもう少し広いほうがいいんだけど、
でも、ま、いいか」
という響きがある。

それはいわば快い諦念の表現である。
原詞の「小さくて、楽しいわが家」が、
訳詞では「小さいけど、楽しいわが家」に変わっているのだ。

 

全面的な肯定を好むアメリカ人。日本人は?

 大した差ではないかもしれない。
たとえば、"Home on the Range"(草原のわが家)の雄大さが
『峠のわが家』のつつましさに変貌してしまうことに比べれば。

けれども、
「小さくて、楽しい」と「小さいけど、楽しい」の違いの方が、
表面的には小さくても、
ある意味ではより深い違いに根ざしているともいえる。

なぜなら、それは「楽しい」という思いの表わし方、
あるいは思いの抱き方自体における、
両文化間の違いを体現していると思うからだ。

 乱暴な一般論をいうと、アメリカ人は何かを肯定するとき、
それを全面的に肯定する表現を好むと思う。
否定的要素はあえて口にしないか、むしろ肯定的要素に読みかえて
(「狭い」ではなくcozyとして)表現する。

彼らにとって、狭いわが家、と言ってしまったら、
それはもはや楽しいものではないのだ。

 逆に日本人は、
「……ながらも」「……ではあれ」というふうに、
むしろ何らかの限定を加えて肯定することを好む。
いってみれば、
百パーセントの幸福よりも、
「……だけど、でも、ま、いいか」と
自分に言い聞かせる部分があった方が、
幸福としてリアルなのだ。

 

ずらしていながらも、うまいと思わせる訳。
では、どこにこんな表現に到達できる秘密があるのだろう。

 つまり、堀内訳のよさは、オリジナルの英詞をも
一種の「翻訳」として捉えているところにある。

図式化すれば、「楽しいわが家」という、
いわば<原概念>―これをかりにAと呼ぼう―がまずあって、
それが英語の歌詞においてはA1として「翻訳」されている。
訳詞はA1を翻訳するのではなく、
A1の向こうに見えるAそのものを翻訳する
ことによって
A2を作ろうとしている…、ということである。

 むろんここには危険がともなう。
A1の向こうにいかなるAを読み取るかは、
翻訳する側のセンスに左右されるからだ。
口でいうのは易しくても、
僕みたいなかけ出しの翻訳者にはなかなかできない。

よい翻訳をすることは、
よい翻訳について語るよりずっと難しい。

簡単に図で書いてみよう。

Photo

このように英語になったA1を翻訳するのではなく、

 

Photo

「A1の向こうに見えるAそのものを翻訳する」のだ。
明快で、なんてわかりやすい説明だろう。

もちろん簡単ではないけれど...

 

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2014年10月 4日 (土)

五感で味わう。

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五感で味わう。

- 「死ぬほどうまい!」 -

 

友人家族に誘われてハイキングをしたことがある。
そのとき、一緒に行った家族が小さな携帯バーナーを持っており、
途中の休憩時、お湯を沸かしてコーヒーを淹れてくれた。

歩き疲れた体を休め、
心地良い風で汗が冷やされるのを感じながら飲む
沸かしたてのお湯で入れたコーヒーには、
おもわず「死ぬほどうまい!」と漏らしてしまった。

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もちろん水筒に熱いお茶を入れて持って行っても、
そこそこ熱いまま飲むことはできるが、
「沸かしたてのお湯」が引き出してくれたものは、
まさに別世界の味だった。

あまりのおいしさにすっかり魅了されてしまった私は、
そうたびたびハイキングをするわけでもないのに、
「次に行く時は、絶対に携帯湯沸かしセットを持っていくぞ」
と購入を決意してしまった。

 

とはいえド素人。さて何を買ったらいいものやら。

器具を選ぶ基準をピックアップした。
1.とにかく小さくて軽いこと。
2.使用頻度が少なくても長く安全に使える耐久性があること。
3.外では、静かなようでも結構風がある。
  その度に火が消えてしまってはストレスとなるので、
  ある程度風に強いこと。
4.燃料のガスが入手しやすいこと。

冬山の登山をするわけではないので、
極寒でも使えるとか、気圧が低くても使えるとか、
そういった方面への要求はゼロ。

その方面に詳しい友人のアドバイスももらって、
結局以下の3点を選んで購入した。

 

(1) プリムス(PRIMUS) ウルトラバーナー P153
(2) プリムス(PRIMUS) GAS CARTRIDGE ノーマルガス(小)
(3) スノーピーク(snow peak) トレック900

(3)の中に(1)と(2)が完全に入ってしまうので、
アルミ製の(3)が丈夫な携帯ケース代わりになる。

取っ手もたためるので、実際に持ち運ぶときは
3つ全部でもこの大きさ。
(となりの500mlのペットボトルは、
 大きさ比較のために一緒に撮っただけ)

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たったこれだけをリュックにいれておけば、
いつでもどこでもお湯が沸かせる!

 

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もちろん荷物としては他に「水」や食材が必要となるが、
それらは行く前に、行程や気分に合わせて選べばいいので
選択の幅は広い。

バーナー本体はこんなに小さくたためる。
まさに片手に乗る大きさ。
作りがかなり精巧なのに、
丈夫さへの配慮も随所に感じられる。

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キャンプのように構えて準備しなくても、
ほんとうに気軽に、ちょこっと使えるのが魅力。

コーヒーやカップヌードルのように、
お湯を沸かすだけなら途中で器具を洗う必要すらない。

ほんとうに「買ってよかった」。
郊外の街歩き、山歩きには、もう必携だ。

このバーナーP153は、
小ささ、軽さはもちろん、風に強いのもいい。
風にあおられても、ヴォーとかなり迫力ある音で燃え続け、
驚くほど早くお湯が沸く。

 

それにしても、大自然の中で口にするものが
あんなに美味しいのはどうしてなのだろう。

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仕事の都合で、米国カリフォルニアに
住んでいたことがある。

よく知られている通り、カリフォルニアでは、
(日本からの輸入物であったり、
 米国産であったりはするが)
日本の食材はたいていのものが手に入る。

でも、食べてみるとなにか違う。

日本ほどの四季の変化がないせいか、
寒くなってきたから鍋が食べたい、とか、
暑くなってきたから冷奴が食べたい、とか、
季節にもとづく欲求が
日本にいるときに比べると希薄なのだ。

食べるものって、舌だけでなく
体全体で味わっているんだなぁ、
土地のものはその土地で、というのは
単に食材の新鮮さだけを
言っているわけではないんだなぁ、と
改めて思った記憶がある。

大自然の中、風に吹かれながらの味、
外国での日本食材の味、
そう、味は味覚だけでなく、五感で味わうものなのだ。

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