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2014年9月20日 (土)

吉田秀和「公正な言論とは」

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吉田秀和「公正な言論とは」

- 緊張度を高め、人の興味をひく力となるもの -

 

ここのところの朝日新聞は、
報道機関としての信用を損なうようなアクションの連続だ。

従軍慰安婦報道についても吉田調書報道についても、
ここでは詳しく書かないが、
「それが何を引き起こしたのか」の視野が欠けた検証は、
検証とは言えないだろう。

 

ネット上でも、過去の記事の分析だけでなく、
報道の姿勢そのものについて
ずいぶん多くの意見が交わされていた。

そんな中、
センセーショナリズムの誘惑に負けた
ウラを取らない間違った報道や、
捏造ともいえるような報道は論外だが、
冷静な「報道の公正さとは」の議論においてさえ、
「もともとそんなことはムリなんだから」と
開き直ったような意見が散見されたことが気になった。

そういえば、古いスクラップに

では報道の公正さとは何か。
そんなものがありうるか。

あったとしても、それは望ましいことか。
アメリカではそんな注文はとっくになくなっている、
といった趣旨の意見が出てきた。

というそのままの文章があった。

音楽評論家の吉田秀和さんが、
朝日新聞に連載していた「音楽展望」というコラムに
「公正な言論とは」というタイトルで書いていた記事。
(水色部は、1993年11月22日朝日新聞夕刊から抜粋)

当時、衆議院選挙に絡んだテレビ朝日の報道が
「偏向報道」だと話題になっていた。

きょうはその記事を紹介したい。

A931122_yoshida

吉田さんは、
最初にピアニスト・ウゴルスキの演奏の感想を書いたあと
こう続けている。

 音楽の演奏で、
どこまで演奏家の主観を容(い)れる余地があり、
どこまで「原曲に忠実」であるべきかといった議論は
これまでさんざんされてきたし、
私は今それに立ち入らない。

ただ一見デフォルメされたとみられるものの中に、
原作に秘められたまま、
これまで誰もとり出して来なかった「真実」
が、
「一つの新しい戦慄の美」として、
みんなの耳にとどくところまで持ち出される例があり、
ウゴルスキたちの演奏を
単純に主観的ゆがみとして否定するのは、
私には賛成できない批評だ。


批評は公正であるべきだが、
「主観的なもの」のない批評家はいない。

 こういう問題は、聴衆や批評家の目、耳、頭が
どう働くかにつながる。

批評家は対面した音楽と演奏を公正に評価しなければならない。
その点で批評家は演奏家よりずっと自制を求められる。
自分の好みにひきずられ、
主観的なきき方に溺(おぼ)れてはならない。


これは正論で、私も全く異議がない。

でも、批評家には、
その時までにすでにたくさん積み重ねてきた経験があり、
そこからだんだん築かれてきた
「自分のきき方」から離れるわけにいかない。

それを主観的なものと呼ぶなら、
それのない批評家は存在しない。


主観に忠実、でも公正さを失わない、の努力。

批評は、その主観的なものを、どう客観化し、
公正な結果に到達するかの過程と切りはなせない。

この間にどんな格闘があったかが
批評の価値をきめるといってもいい。

どっちが欠けても、つまらない
批評ともいえないものしか生まれない。

 といって、言うは易く、行うは難し。
私もほとんど成功しない。
体裁の良い理想論にすぎないという人もあろう。
でも、私はその目標をあきらめない。
こういう努力は楽しくもある。

自分の主観に忠実で、
公正さを失わないよう努力すること。

これは仕事に対する責任の問題であるのと同じくらい、
他人からの不当な批判や干渉に抵抗する根拠でもある。


批評と報道には共通性もある。

 ところで私は
これはせまい意味の批評だけに限られる話ではないと思う。
最近TV報道番組の「偏向」が話題になっている。
TVの報道は批評ではないが、
主観と客観のかかわり方、
「公正」の獲得にまつわる問題には共通性もある。

・・(中略)・・
では報道の公正さとは何か。
そんなものがありうるか。
あったとしても、それは望ましいことか。

アメリカではそんな注文はとっくになくなっている、
といった趣旨の意見が出てきた。

私は実はTVの報道番組制作の実情を全く知らない人間だし、
選挙の前後たくさんあったらしい番組はあんまりみていない。
それでも、以上書いてきた批評家としての経験と信念からいって、
報道番組は公正という旗印をすてるべきでないと考える。


考えのない人はもちろん、
考えのある人も、それだけでは相手にされない。

 客観的で公正で、しかも真実を深く堀り下げて
きちんと伝える番組をつくるのはむずかしいにきまっている。

それにやたらと「公正」といっても、
元来何の考えもない人が
ごく表面的な話をあたりさわりのない形でならべたような
番組が望ましくないのはいうまでもない。

そんなものは退屈で、上っ面を撫でただけの
甘っちょろい批評同様、長い間には誰も相手にしなくなる。

逆に強い徹底した考えのある人は
とかく不公正とみられやすい言動をしやすいものだ


 それでも、どんなりっぱな意見の持ち主でも、
報道番組で、公正さをすて、
「自分の正しい見方、考え方」で押しきるのは正しくない。


信念が強いと公正さの維持はますます難しい。

「自分が正しい」という信念が強ければ、ますますよくない。
それは結局独裁主義に導くからだ。

「自分は正しいから世論をそこに誘導したい」という考えには、
必ずその逆の考えがあるわけだから、
当然それとの摩擦、あるいは干渉をひきおこす。


おもしろい番組とは?

たしかに「何が公正か」の具体的な中身は
時代の動きの中でいつも同じではなかろう。

でも、どんな時代になろうと
「公正であろう」という姿勢をすてたら、
自分で自分の首をしめることになる。

報道の中身が重要であればあるほど、
意見のある人にとっては、
それと公正さとを両立させるのはむずかしくなる。

だが、その両方に責任をもって対処することが
番組の緊張度を高め、みんなの興味をひく

つまり、おもしろい番組になるのではないか。

また、そうやってゆくと、自然「何が公正か」の問題が
ますます堀り下げられることになる
、と思うのだが。


ちょっと極端に言えば、強い中身そのものではなく
それを伝えようとするときの「公正であろう」という姿勢
人をひきつけるのだ。
という点。

そしてもうひとつ。
「何が公正か」という難しい問題が解決されたあとに
「公正」があるのではなく、
「公正であろう」という姿勢そのものが、
「何が公正か」という問題を掘り下げられるのだ。
という点。

さすが吉田秀和さん。
20年以上も前の記事なのに、なにひとつ古くない。

 

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コメント

今回は、「公正な言論』についてのお話。非常に考えさせられた記事だった。
私は、自分のBlogで、ドラマの「感想」を書いているが、時に「批評」に近くなることもある。自分の好みが色濃く出るから「感想」としているが、それでもある種の「公正さ」は必要なのだろう。
果たして、「公正であろうという姿勢」を以て書いているかと問われれば、首を縦に振りがたい。

テレビドラマを観ていると、自らの心の中に抑えがたい感動があふれ出る時がある。そんな時は、感情にまかせて筆を走らせる。そんな衝動に駆られた文章を私は自らに許す。
しかし、反対にそれらを批判する時、「公正さ」を一度は疑ってみるべきなのかも知れない。
それは難しい。
だからこそ、私が書くものは単なる「感想」にすぎない、と自分に言い聞かせる。

Ossan-takaさん、コメントをありがとうございます。

吉田さんの指摘は、
とかく「中身」そのもののが議論の対象になりがちなことに対して、
「姿勢」の果たす意味を提示してくれたことに、
大きな意義があると思っています。

どれほど「感情にまかせて筆を走らせても」
美しい姿勢から繰り出される文章には人をひきつける魅力がある。

ものごとに対する「姿勢」が、心の持ち方が、
Outputのどこにどう影響をあたえるのかよくわかりませんが、
でもそれは、見えないところでOutputの質を支えている、
そんな漠然とした思いをうまく言葉で表現してくれたような気がします。

Outputとはもちろん文章だけでなく、
思い当たることはほかにもいくつもありますが。

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