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2014年9月

2014年9月27日 (土)

学者はtruthから離れられない。

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学者はtruthから離れられない。

- では、小説家は? -

 

今から2年前の2012年、
高野史緒さんが「カラマーゾフの妹」という小説で、
江戸川乱歩賞を受賞した。

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今日はそのときの新聞記事
「江戸川乱歩賞の高野史緒 
 カラマーゾフ「続編」、遊び心満載」
から、印象的な言葉を紹介したい。
(以下水色部、2012年9月11日朝日新聞夕刊の記事からの抜粋)

 今回の江戸川乱歩賞は異例尽くしだった。

公募の新人賞なのに、
受賞したのはプロ作家の高野史緒(ふみお)。
受賞作『カラマーゾフの妹』(講談社)は、
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の続編だ。

選考委員2人が、選評で「安易にまねしないように」と
今後の応募者に釘を刺した。

 高野は1995年に日本ファンタジーノベル大賞最終候補作
『ムジカ・マキーナ』でデビュー。
SF作家として活躍するが、「一生に一度だけ」と決めて、
ミステリーの乱歩賞に応募した。

原作を深く読み込んだ高野さんは、
丁寧な描写に第二部への布石を感じ、
大胆に、そして矛盾のない、遊び心あふれる第二部を
作り上げたという。

 

 研究者がためらいそうな道を自由な想像力でどんどん進む。
思い返せば院生時代、論文を書いても勝手な想像をしていた。

お茶の水女子大大学院で、
故遅塚忠躬(ちづかただみ)名誉教授がかけてくれた

「学者はtruthから離れられない。
 小説家はtruthを超えて真実を追求できる」


という言葉を、今も大切にしている。

「もともとSFのやり方で書いていたのは、
 truthを超えて真実を求めることが面白いから。

 現実じゃない要素を一つ取り込むだけで、
 いろんな発想が出てくる。
 そうすると、現実の中の人間が見えてくる

truthには真実を隠す要素が確かにある。
真実をtruthで解釈しようとしてしまったり。

truthに縛られることなく、
真実を追求することが小説にはできるのだ。
SFもそのためのひとつの手法として見ることもできる。

いいSF小説が残してくれる、ある意味共通な読後感、
独特な視点は、
「truthに縛られた学者には描けない、
 真実を見せようとしてくれていたのかも」
と思うと妙に合点がいく。

 

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2014年9月20日 (土)

吉田秀和「公正な言論とは」

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吉田秀和「公正な言論とは」

- 緊張度を高め、人の興味をひく力となるもの -

 

ここのところの朝日新聞は、
報道機関としての信用を損なうようなアクションの連続だ。

従軍慰安婦報道についても吉田調書報道についても、
ここでは詳しく書かないが、
「それが何を引き起こしたのか」の視野が欠けた検証は、
検証とは言えないだろう。

 

ネット上でも、過去の記事の分析だけでなく、
報道の姿勢そのものについて
ずいぶん多くの意見が交わされていた。

そんな中、
センセーショナリズムの誘惑に負けた
ウラを取らない間違った報道や、
捏造ともいえるような報道は論外だが、
冷静な「報道の公正さとは」の議論においてさえ、
「もともとそんなことはムリなんだから」と
開き直ったような意見が散見されたことが気になった。

そういえば、古いスクラップに

では報道の公正さとは何か。
そんなものがありうるか。

あったとしても、それは望ましいことか。
アメリカではそんな注文はとっくになくなっている、
といった趣旨の意見が出てきた。

というそのままの文章があった。

音楽評論家の吉田秀和さんが、
朝日新聞に連載していた「音楽展望」というコラムに
「公正な言論とは」というタイトルで書いていた記事。
(水色部は、1993年11月22日朝日新聞夕刊から抜粋)

当時、衆議院選挙に絡んだテレビ朝日の報道が
「偏向報道」だと話題になっていた。

きょうはその記事を紹介したい。

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吉田さんは、
最初にピアニスト・ウゴルスキの演奏の感想を書いたあと
こう続けている。

 音楽の演奏で、
どこまで演奏家の主観を容(い)れる余地があり、
どこまで「原曲に忠実」であるべきかといった議論は
これまでさんざんされてきたし、
私は今それに立ち入らない。

ただ一見デフォルメされたとみられるものの中に、
原作に秘められたまま、
これまで誰もとり出して来なかった「真実」
が、
「一つの新しい戦慄の美」として、
みんなの耳にとどくところまで持ち出される例があり、
ウゴルスキたちの演奏を
単純に主観的ゆがみとして否定するのは、
私には賛成できない批評だ。


批評は公正であるべきだが、
「主観的なもの」のない批評家はいない。

 こういう問題は、聴衆や批評家の目、耳、頭が
どう働くかにつながる。

批評家は対面した音楽と演奏を公正に評価しなければならない。
その点で批評家は演奏家よりずっと自制を求められる。
自分の好みにひきずられ、
主観的なきき方に溺(おぼ)れてはならない。


これは正論で、私も全く異議がない。

でも、批評家には、
その時までにすでにたくさん積み重ねてきた経験があり、
そこからだんだん築かれてきた
「自分のきき方」から離れるわけにいかない。

それを主観的なものと呼ぶなら、
それのない批評家は存在しない。


主観に忠実、でも公正さを失わない、の努力。

批評は、その主観的なものを、どう客観化し、
公正な結果に到達するかの過程と切りはなせない。

この間にどんな格闘があったかが
批評の価値をきめるといってもいい。

どっちが欠けても、つまらない
批評ともいえないものしか生まれない。

 といって、言うは易く、行うは難し。
私もほとんど成功しない。
体裁の良い理想論にすぎないという人もあろう。
でも、私はその目標をあきらめない。
こういう努力は楽しくもある。

自分の主観に忠実で、
公正さを失わないよう努力すること。

これは仕事に対する責任の問題であるのと同じくらい、
他人からの不当な批判や干渉に抵抗する根拠でもある。


批評と報道には共通性もある。

 ところで私は
これはせまい意味の批評だけに限られる話ではないと思う。
最近TV報道番組の「偏向」が話題になっている。
TVの報道は批評ではないが、
主観と客観のかかわり方、
「公正」の獲得にまつわる問題には共通性もある。

・・(中略)・・
では報道の公正さとは何か。
そんなものがありうるか。
あったとしても、それは望ましいことか。

アメリカではそんな注文はとっくになくなっている、
といった趣旨の意見が出てきた。

私は実はTVの報道番組制作の実情を全く知らない人間だし、
選挙の前後たくさんあったらしい番組はあんまりみていない。
それでも、以上書いてきた批評家としての経験と信念からいって、
報道番組は公正という旗印をすてるべきでないと考える。


考えのない人はもちろん、
考えのある人も、それだけでは相手にされない。

 客観的で公正で、しかも真実を深く堀り下げて
きちんと伝える番組をつくるのはむずかしいにきまっている。

それにやたらと「公正」といっても、
元来何の考えもない人が
ごく表面的な話をあたりさわりのない形でならべたような
番組が望ましくないのはいうまでもない。

そんなものは退屈で、上っ面を撫でただけの
甘っちょろい批評同様、長い間には誰も相手にしなくなる。

逆に強い徹底した考えのある人は
とかく不公正とみられやすい言動をしやすいものだ


 それでも、どんなりっぱな意見の持ち主でも、
報道番組で、公正さをすて、
「自分の正しい見方、考え方」で押しきるのは正しくない。


信念が強いと公正さの維持はますます難しい。

「自分が正しい」という信念が強ければ、ますますよくない。
それは結局独裁主義に導くからだ。

「自分は正しいから世論をそこに誘導したい」という考えには、
必ずその逆の考えがあるわけだから、
当然それとの摩擦、あるいは干渉をひきおこす。


おもしろい番組とは?

たしかに「何が公正か」の具体的な中身は
時代の動きの中でいつも同じではなかろう。

でも、どんな時代になろうと
「公正であろう」という姿勢をすてたら、
自分で自分の首をしめることになる。

報道の中身が重要であればあるほど、
意見のある人にとっては、
それと公正さとを両立させるのはむずかしくなる。

だが、その両方に責任をもって対処することが
番組の緊張度を高め、みんなの興味をひく

つまり、おもしろい番組になるのではないか。

また、そうやってゆくと、自然「何が公正か」の問題が
ますます堀り下げられることになる
、と思うのだが。


ちょっと極端に言えば、強い中身そのものではなく
それを伝えようとするときの「公正であろう」という姿勢
人をひきつけるのだ。
という点。

そしてもうひとつ。
「何が公正か」という難しい問題が解決されたあとに
「公正」があるのではなく、
「公正であろう」という姿勢そのものが、
「何が公正か」という問題を掘り下げられるのだ。
という点。

さすが吉田秀和さん。
20年以上も前の記事なのに、なにひとつ古くない。

 

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2014年9月13日 (土)

幸福な家庭はどれも似ている?

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幸福な家庭はどれも似ている?

- 「アンナ・カレーニナ」の冒頭部分 -

 

以前、5回に分けて書いた
世界ことばの旅を書いているころに読んだ本に、

太田直子著
「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」光文社新書

がある。

その中に、ロシア語についてこんな記述があった。
(以下水色部、本からの引用)

 たとえばロシア語は
形容詞や動詞過去形の末尾が男女で変わる。
それはいいのだが、
なんと姓の末尾まで変わってしまうのだから始末が悪い。

アンナ・カレーニナの夫は
カレーニナ氏ではなくカレーニン氏なのだ。

登場人物がたくさん出てくる映画は、
ただでさえ名前を覚えにくいのに、
夫と妻とで姓まで変わった日には混乱必至。

挙げ句の果てに、「誤植がありますよ」などと言われてしまう。

 いや、言われるならまだいい。うっかりすると、
字幕制作の担当者がこちらに確認もせず
「あ、これ書き間違いね」と勝手に書き直して、
誇り高き顕官カレーニン氏を女性化してしまう。

夫婦で姓が違ってしまうと、字幕を読んでいる方は
確かに混乱してしまう。

正確な事実で押すか、不正確でもわかりやすさを優先するか、
ほんとうに悩ましいところだろう。
字幕に注釈をつけるわけにもいかないのだから。

 

ところで、「アンナ・カレーニナ」の文字を見ると
どうしても思い出してしまう言葉がある。
トルストイの小説、「アンナ・カレーニナ」の冒頭部分だ。

 

訳者によって日本語のニュアンスは少し違うが、意味としては

「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭は千差万別だ」

という内容の有名なフレーズだ。

望月哲男訳・光文社古典新訳文庫では、
「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、
 不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」

となっている。

 

最初にこのフレーズを目にしたのは、
中学か高校のころだったと思う。思わずなぜか
「計算の正解はひとつだが、不正解は千差万別だ」
が浮かんだことを覚えている。

その後、
世の中には、まさに様々な不幸があることを知るようになると、
ふとこの言葉を思い出し、
「さすが、文豪。
 オレはなんてなんにも知らない若造なンだ」と
浅い人生経験を恥じるような気持ちになったりもした。

「不幸の千差万別」を知っていくことが
大人になることなのかも、とさえ。

 

ところが、歳をとり、多くの人生を知るにつれて、
この言葉に対する私の思いは大きく変わった。

結論だけ先に述べさせていただこう。
今の私の正直な気持ちを言葉にするとこんな感じだ。

「不幸な家庭はどれも似ているが、幸福な家庭は千差万別だ」

誤解を恐れずに思い切って言ってしまうが
不幸の種類ってそんなに多くない。
もちろんひとつだけ、なんていうことはないが、
不信、離別、貧困、病、拘束・・・など
冷静に突き詰めていくと「またか」が多い。
「そんな不幸もあるンだ」という新発見はほとんどない。

 

一方、幸福の方はどうだろう。
なんて多彩なのだろう。

ここに書いた
息子さんにご飯をつくってあげるお母さんの幸福感とか、

ここに書いた
リヤカーを引く家族の醸しだす幸福感とか、

そういうことが、
若い時にはちっともピンとこなかったのに、
歳を重ねるにしたがって、染みてくるようになった。

客観的に見ると、
どう見ても不幸としか言えないような環境なのに、
そんな中、まさにその人にしか見えない
かけがえのない幸福を見つけて、
ほんとうに幸せそうに生きている人がいる。

「そんな幸福もあるンだ」という新発見は、
大人になっても全く尽きない。
まさに千差万別。

「幸福の千差万別」を知っていくことが
歳を重ねていくことなのだ。

 

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2014年9月 7日 (日)

根粒菌の話

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根粒菌の話

- 「生きている」って何? -

 

前回 の「空中窒素固定」について、では
レンゲの根粒菌から話を始めた。

調べる途中で割り込んできた
「ハニーフラッシュ!」に目が眩み(?)
結果的にその「びっくり報告」だけになってしまったが、
今日は、話を戻して根粒菌を詳しく見てみたい。

 

名前だけ聞くと、
「根に付着するツブツブの菌」
くらいしかイメージできないかもしれないが、
この根粒菌、
付着なんていう優しい付き方ではないのだ。

どうなっているのかを
中屋敷均著 「生命のからくり」 講談社現代新書
に教えてもらおう。(以下水色部、本からの引用)

 

根粒菌はレンゲなどのマメ科植物の根に
コブ(根粒)を作って棲息し、
宿主が光合成で作った炭水化物を利用しながら窒素固定を行い、
固定した窒素をアンモニアとして宿主に提供している


この現象を利用して、レンゲについた根粒菌の作用により
空気中の窒素を固定し、それを緑肥として鋤き込むことで
田んぼを肥沃にできる。

これが田んぼにレンゲが植えられていた理由である。

ここまでは、前回の復習。

 

【レンゲは自分に合った菌のみを受け入れる】

  このマメ科植物と根粒菌の関係は、
厳密に制御された複雑な生物現象であり、
特定の根粒菌パートナーを
数多い微生物の中から選択する機構が詳しく解明されている。

根粒菌が産生するノッドファクターと呼ばれる
短いオリゴ糖(リボキトオリゴ糖)が
植物に受け入れてもらうための「手形」のような働きをしており、
植物は自分に合った「手形」を持った根粒菌だけを受け入れる

「受け入れる」とはどういうことだろう。

 

【細胞に招き入れられたうえに住処まで作ってもらえる】

「手形」が有効だった場合には、根毛内にトンネルのような
「感染糸」と呼ぼれる管状構造が形成され、
それを通って根粒菌は根の内部組織である
皮層組織まで招き入れられる。

そこで活発な宿主細胞の細胞分裂が誘導されて、
根粒菌の住み処となるコブ、すなわち根粒が形成される

「根粒の中で菌と植物が共生している」と言うと
「カクレクマノミが
 イソギンチャクの中で隠れて暮らしている」といった、
ほのぼのとしたイメージが湧いてくるが、
同じ「共生」と考えられている現象でも、
実態はかなり異なっている。

クマノミ類は、ディズニーのアニメ映画
「ファインディング・ニモ」のニモのモデルだ。
アカデミー賞で長編アニメ賞を受賞しているので、
ディズニーファン以外でも知っている方は多いだろう。
(カクレクマノミがモデル、と言うと正確さを欠くらしい)

クマノミは、イソギンチャクの中に潜み、
イソギンチャクの刺胞、つまり毒針で
外敵から身を守ってもらう。
一方イソギンチャクは、クマノミから**の恩恵を受ける。
(**の部分は諸説あるようで
 どうもはっきりはしていないようだが)

いずれにせよ、
「お互い助け合いながら、それぞれ別々に生きる」という
共生とは、全く違う関係がそこにはある。

侵入者に対して、
「細胞の中にまでどうぞ」と言う特別待遇にも驚くが、
宿主は、その外部からの侵入者のために、
体内に住処(すみか)まで作ってくれるのだ。

 

【細胞分裂を停止しバクテロイドに】

感染糸を通って皮層細胞へと到達した根粒菌は
*エンドサイトーシスにより、
細胞膜に包まれた形で皮層細胞内に取り込まれることになる。

再び、「細胞内共生」である。
細胞内に取り込まれた根粒菌はしばらく活発に分裂するが、
その後、細胞分裂を停止して

バクテロイドと呼ばれる状態へと変化していく。

(*エンドサイトーシスとは
 細胞が細胞外の物質を取り込む様式の一種。
 細胞膜の一部が陥没し、対象物を取り込み、
 そのくびれ部が融合してちぎれる様式。
 このことによって、細胞膜に包まれた小胞内に
 対象物を包み込んで細胞内に取り込むことになる。

せっかく内部にまで侵入させてもらえたのに、
ご本人は細胞分裂を停止して静かになる。で、
このあと、自身が変化を始める。

 

【共生して初めて窒素固定を実行】

バクテロイドはさまざまな意味で、
通常のバクテリアとは異なっている。

マメ科のモデル植物である
タルウマゴヤシの根粒菌を例にして紹介すると、
まず形態的には細胞が肥大・伸長し、同時に多核となる。

その後は自らのDNA複製も行わなくなり
発現される遺伝子の種類も大きく変わっていく。

意外なことだが、根粒菌は土壌中で単独で生活している際には
実は窒素固定を行わないと考えられており、
植物と共生して初めて窒素固定を行うようになる。

宿主への侵入に成功した菌は、
なんと、自分のDNAの複製を行わなくなるだけでなく、
発現遺伝子も変化してくるのだ。

 

【細胞分裂を停止し、自身の遺伝子は宿主ために】

窒素固定反応を担う本体はニトロゲナーゼという酵素であるが、
この遺伝子の発現は単独生活の場合は、ほぼ認められない。

しかし、バクテロイド中では、
その発現が通常の1000倍以上にも上昇し、
バクテロイド全タンパク質の10~20%を占めるようになる。

 さて、このバクテロイドとは、いったい何なのだろう? 
自分自身の細胞分裂も止め、発現している大半の遺伝子が 
「自分には必要のない」窒素固定に関するもの
だ。

あたかも植物の細胞に窒素固定のための工場
あるいはオルガネラができたかのようである。

宿主のための窒素工場に自らが変化するなんて!

 

【もはや単独では生きていけない】

特に、タルウマゴヤシ型のバクテロイドは
なんとも不思議としか形容できない状態になっている。

というのも根粒からバクテロイドを再分離し
培地で培養しても、
独立して生きることのできる根粒菌は
ほとんど復活しないことが示されているのだ。

すなわち植物の細胞の中では、
生態的にも生理的にも機能を持ち、
問題なく「生きている」ように見えるバクテロイドも、
宿主植物との短い共生の間に
すでに単独では生きられない形へと変化してしまっている

(正確には、このバクテロイドへの変化は
 宿主植物が誘導していることが近年明らかとなった)。

この状態になると植物細胞が生きている限りは、
バクテロイドも生体として機能を保てるが、
植物が括れると同時にバクテロイドも死んでしまうことになる。

根粒菌のバクテリアとしてのアイデンティティーは
すでに失われてしまっていると言って良いだろう。

菌を体に取り込み、
自らが成長するための窒素工場へと変化させてしまう植物。
なんという仕組みだろう。

 

【独立生活できる根粒菌もある】

根粒菌は特定の植物をパートナーとすることを先に述べたが、
たとえばマメ科植物のもう一つのモデル植物である
ミヤコグサの根粒菌はまた系統が異なっている。

この場合には、バクテロイドとなっても、
遺伝子発現こそ変化するものの、
形態的には正常で根粒から再分離するとほとんどの場合、
独立生活する根粒菌が復活する

こちらの場合は、文句なしに「生きている」と言って良い状態だ。

では、すでに単独では生きられない
タルウマゴヤシ型のバクテロイドは、
「生きている」と言えるのだろうか。

AとBを独立した生物として分けている境界、
「生」と「死」の境界、
どちらもかなり不明瞭なものであるということがよくわかる。

01というデジタル的な世界で捉えようとするから
「不明瞭」という言葉を使いたくなるが、
もともとどちらも連続的なものなのかもしれない。

 

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