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2014年7月

2014年7月26日 (土)

世界ことばの旅 (2)

(全体の目次はこちら


世界ことばの旅 (2)

- 「見える・見えない」で冠詞を区別!? -

 

研究社の「世界ことばの旅」というCDからの
世界のことばの話、2回目。

Photo


まずは前回の宿題

「ようやく録音に協力してもらえることになった各言語の話者に
 いったい何を喋ってもらったのか?」

を片付けてしまおう。

「共通テキストで」、つまり全く同じことを
各言語で話してもらうことががむつかしい理由は前回書いた。

 

関係者もきっといろいろ悩んだことだろう。

最終的に決めた方針は、
次のように解説されている。
ちょっと聞いてみよう。
(以下水色部はCDまたは小冊子からの抜粋)

まず、1,2,3,4,5,6,7,8,9,10 と
数を一から十まで数え、
こんにちは、さようなら、ありがとう、のような
日常よく使われる挨拶言葉、
それから、お国自慢や小説の一節や詩の朗読など、
自由にそれぞれの言葉を話しています

これは堅苦しい言語学のレコードではありません。

気楽に世界の人々が話している言葉の響きに耳を傾け、
そこから全く自由に何かを感じ取っていただくよう
作られたものです。

 

言語学的にどうこう、という点にこだわらず、
数字以外は、まぁ、言ってみれば「適当に」
喋ってもらうようにしたことは、
「言葉の響き」を伝えるためには、よかったのではないだろうか。
無理矢理な翻訳調では、響きは伝わりにくいだろうから。

 

ところで、世界にはどれくらいの数の言語があるのだろう。
CD附属の小冊子には、

世界全体の言語の数-7~8000から1万といわれる-から見れば、
たったの80にすぎないし、

とある。
80言語集めても数から見ると、
まだ1%程度にしかならないようだ。

 

前置きがずいぶん長くなってしまった。
収録の背景もわかって、ようやく準備も整った(?)ので
いよいよ「ことばの旅」に出発したいと思う。

 

さて、「ことばの旅」。
何語は何語族に分類される、とか、
話者は何人くらい、とか、
事典的な事実や数字だけを
ダラダラと羅列してもおもしろくないので、
言語学については全く知識のないド素人の私が、
「へぇ」と思った言語の特徴のみに絞って
その多様性をピックアップしていきたいと思う。

では、日本語から出発することにしよう。

 

【2-1 日本語】

日本語はしばしば特殊な言語のようにいわれるが、
日本語にある特色はいずれも世界の多くの言語にあって、
何ひとつといっていいほど日本語独特のものはない。

・・・

日本語のユニークさといえば、その表記法の難しさであろう。
それに、このように大きな言語で、古い文献もあるのに
同系の言語がないことは珍しい。

「日本語は特殊だ」と、たいした根拠もなく
いいかげんに言わないほうがいいのかもしれない。
表記法が難しい点は、認められているようだが。

 

【2-2 朝鮮語】

文法は日本語とよく似ているので、
しばしば欧米の学者は
日本語と同系という誤った結論を導きだす
が、

「ハ」と「ガ」の区別、
指示語の「コ・ソ・ア」の区別までパラレルであるとすれば
そう思い込むのも無理がない。

そのうえ、日本語同様に敬語を示す文法手段もある

・・・

面白いのは音象徴語があることで、

「赤い」に
「アッカーイ」、「アッカッカーイ」とでもいうような

程度を示す方法がある。
また擬態語も豊富である。

・・・

独特なのはハングルと呼ばれる朝鮮の国字で、
世宗という王様一人の考案であることや、

文字が音声学を基礎に作られ、
[m]の音が口を表す文字"口"で、
[s]の音が歯を示す文字"人"で示されていることなどである。
そして、これらの音が音節を単位にまとまって示されている。

ハングル文字はたったひとりによる考案だったのか。

 

【2-3 モンゴル語】

発音の面で特徴があるのはいわゆる「母音調和」で、

 10 の 短母音、
  7つの 長母音、
  6つの二重母音が

2つのグループに分かれ、
そのおのおのの母音は1つの語の中で共存することがない

これは日本語の古い時代にあった
万葉仮名の用法と同じようなものである。

・・・

モンゴル族は13世紀の初めから
ウイグル系の文字を使ってモンゴル語を表記していた。
これは釣りで使う「毛針」を思わせる文字である。

この文字は700年もの間使われたが、
モンゴルがいわゆる人民革命(1921)の後、
ソ連の文化圏に入れられると、ラテン文字にかえられ
さらに1942年からはロシア文字(キリール文字)系の文字にと
変更させられた


中国内のチャハル方言に基づくモンゴル語では依然として
古いウイグル系の文字が使われている。
近年ロシア文字からの回帰が試みられている。

複雑な母音と「母音調和」、そして
文字の変遷(ウイグル文字⇒ラテン文字⇒ロシア文字)が目を引く。

母音調和については、さらりと
「万葉仮名の用法と同じようなものである」
と書かれているが
悔しいかな私には意味がよくわからない。
母音の組合せに制限があったということなのだろうか?

ちょっと調べ始めたら、万葉仮名遣いについて
知らなかった話が次々と出てきてしまって、
謎が謎を呼び、全く前に進まなくなってしまった。
基礎的な知識がないと
纏めようにも纏められないことを痛感。

というわけで、この部分、
「万葉仮名についての謎を残したまま」
先に行くことにする。 失礼。

 

【2-4 中国語(北京)】

この北方語は漢民族の70パーセント、6億人余りの人に話され、
北京も含まれる北方官話その他の下位方言に分類される。

中国語は世界の言語のひとつを代表する実に面白い言語で、
いくつかの興味深い特徴がある。

その1つは声調で、四声があり、よく聞き取ることができる。

・・・

名詞を中心にして始まった複音節化があるにせよ、
依然として単音節語が優勢で、語形変化はしない
したがって形態論は簡単である。

・・・

日本語にも入ってきている
1本、1枚、1冊のような類別詞がある

日本語は中国語からの借用語なしには考えられない。

4つの声調、単音節、類別詞。
声調については、4つでもむつかしいと思うのに、
次の広東語には、さらに驚くような記述がある。

 

【2-5 広東語】

一般に広東語と呼ばれているのは粤(えつ)語として分類される
広東省、広西壮族自治区、英領香港などで話される方言の代表で、
その話し手の数は漢民族の5パーセント、4700万にも及ぶ。

近年香港がより重要な地位を占めるにつれて、
この広東語も重要になりつつある。

・・・

中国語の方言といっても、かなり大きな差のあることは
10までの数の数え方だけきいても分かると思う


・・・

北京語で4つある声調にしても粤語の中には10あるものさえある。

粤(えつ)語には声調が10あるものも!!
そんなに聞き分けられるものだろうか。

もうひとつ。
上で述べられているように、
北京語と広東語には「大きな差」があるのだろうか。
例としてあがっている
10までの数の数え方の部分だけ聞き比べてみよう。

まずは北京語で1から10。

続いて、広東語で1から10。

なるほど。
「大きな差」だ。

 

【2-6 ツォウ語】

台湾の先住民の言語の1つ。人口は4000人強。

この言語の1つの特徴は他の南島諸語とは違う冠詞の存在で、

 「見える・見えない」、
 「近い・遠い」、
 「既知・未知」に区別がある


この「見える・見えない」の区別は指示代名詞にもある。

・・・

また、
焦点と呼ばれる文の構成要素のどこに重点が置かれるかで、
行為者・目的語・場所・道具および受益者の
4つの焦点形によって動詞の語形変化がなされる

・・・

高砂族諸語は数詞で基本数詞と人を数える人数詞があるが、
ツォウ語ではそれが1と2にしかない。

この録音では人を数える方の人数詞は取り上げてなく、
1と2は非人数詞の形が吹き込まれている。

「見える・見えない」、「近い・遠い」、「既知・未知」で
冠詞が変わり、焦点形により動詞が変化する。

冠詞も動詞の変化もお喋りを聞いただけでは
もちろんわからないが、貴重な録音なので、
どんな感じの言語なのか、ちょっとだけ聞いてみよう。

1から10に続いて、話者が替わって昔話の冒頭部分を少し。

 

人数詞が「1と2にしかない」という。
これだけ聞くと「えっ?!」と思うが、
日本語でも人を数えるとき、
基本形は「数+人(にん)」なのに、
1と2の場合だけ、「ひとり」「ふたり」という
特殊な言い方になっている。

1と2だけ特別扱い。
なにか共通の理由があるのだろうか。

 

ことばの旅、もう少し続けたい。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2014年7月19日 (土)

世界ことばの旅 (1)

(全体の目次はこちら


世界ことばの旅 (1)

- 80言語を収録したCD -

 

映画「アナと雪の女王」
映画そのもののヒットに続いて、
今週発売になったBD/DVDのほうもおおいに売れているらしい。

私自身は出張の際の機内映画として観たので、
どちらかと言うと観たのは偶然という感じなのだが、
映画館の大きなスクリーンで見れば
印象もずいぶん違っていたかもしれない。

この映画、吹き替えも含めて音楽についての話題が多い。
そんな中、私の一番のお気に入りは、やはりこれだ。
「Let It Go」の25言語連続バージョン
(下の写真、
 またはここをクリックするとYouTubeに移って再生されます)

ana25

これだけのハイレベル、
かつ同質の声の持ち主を25言語で揃えてしまう
ディズニーの制作力の底力と、
なんの違和感もなくごく自然に繋がっている編集力の完璧さに
とにかく驚かされるが、
各歌手の振りや表情の違いも興味深く、
思わず何度も見てしまう。

(こうしてお顔まで見られると、
 美しいのは声や歌だけでないこともよくわかるし...)

中国語は、
 Mandarin(マンダリン)とCantonese(広東語)の
両方が入っているし、
 Catalan カタロニア語
 Serbian セルビア語
 Flemish フラマン語
なんていう言語も含まれている。

このクオリティで全世界で42言語版も作ったというのだから
ほんとうに驚く。
PCのOS Windows7が提供している言語数だって35だと言うのに、
って比較にならないか。

 

さて、世界の言語と言えばずいぶん前に、
英語関連の書籍でよく知られた研究社が、
「世界ことばの旅」というCDを出していたことがある。

Photo

80言語が録音された言葉のカタログ。
2枚組のCDで発売当時6200円。

買ったからと言って、
しゃべっている内容の翻訳がついているわけでもなく、
何を言っているのかもわからない言語をただ聞き流すだけ。

友人のひとりが、
「こんなのがあるよ」と
その存在を教えてくれたとき、
「そんなもの誰が買うんだよ」と
おもわず反応してしまった記憶がある。

 

ところが、
気がつくとなぜか買ってしまっていた。^^;

収録されている80言語は、コレ。

80lang

CDには解説の小さな小冊子がついている。
企画から制作までの話やら、各言語の特徴やらが、
コンパクトにまとまっている。

その中からちょっと興味深い部分を紹介したい。

監修の東京外国語大学教授の千野栄一さんは、
こんなふうに書いている。(以下水色部小冊子からの引用)

たまたま職業上の要請から日本人としては
比較的数多い外国語を耳にしたことのある私でも、
数えてみると、この2枚のCDに収録されている言語の中で、
きいたことのある言語は半数以下の30にすぎず、
きいただけですぐに何語かの見当がつくのが20、
さらに話されている内容が分かるのはその半数の10なので、
監修といっても、このCDを作るのにあたって、
若干の助言をしたにすぎない。

 

この80言語、元は日本コロムビアの企画によるものだが、
「それぞれの言語はすべてその言語を母語とする
 ネイティブが吹き込んだものです」
とCDの裏表紙にも明記してある通り、
「話し手の第1言語」であることを条件
集めたものになっている。

これらの録音を集めて回ったのは、
当時、千野さんのゼミにいた遠藤健也さんという
たったひとりの学生さんだった。

遠藤さんは、録音機材をかついで外国人の知人の間を走り回った。
留学生会館、大学、大使館...

そうやって、さて、ナン言語集められるものだろうか。

1979年、携帯電話もネットもない時代のこと。
情報収集能力とともにフットワークが命だ。

 

その結果、驚くべきことに遠藤さんは
80言語のうち77言語を「東京」で録音してしまったのだ。

アイヌ語、
高砂族といわれる台湾のツォウ族の言語ツォウ語、
南ア共和国のコサ語、
この3言語だけが、
録音を提供してもらったもので東京以外での録音。

(例外と言えば、80言語のうち、
 「エスペラント語」だけは、
 「話し手の第1言語」の条件を満たしていない。

 第1言語が人工言語である「エスペラント語」という人は、
 残念ながらいないからだ)

いずれにせよ、3言語を除いて、ほかはすべて
1979年の前半に東京で収録された言語からできている、
という点でもユニークな記録になっている。

 

さて、話者を得られたとしても、
「何を録音するか」という問題がある。

録音するにあたって、何を録音するかは大きな問題であった。
すべてに共通なテキストがあればそれにこしたことはないが、
そんなことは不可能であり、
もしそうしても不自然なものができあがったであろう。
(中略)

もし、ここで
「おはよう」、「さようなら」というような
挨拶を入れようとしたら大混乱に陥ったに違いない。

われわれはついこのような挨拶が
どの言語にもあると思いがちだが、
例えば、「さようなら」一つをとりあげても、
言語によっては、立ち去る人と、残る人では違う場合や、
お客と主人では違う場合など、
いろいろなケースがあるからであって・・・

まさに、英語ではGoodbyeだけなのに、
日本語では「行ってきます」「いってらっしゃい」のある世界だ。

何を録音したのか。
この話、もう少し続けたい。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2014年7月12日 (土)

宇宙人が地球を観察していたら

(全体の目次はこちら


宇宙人が地球を観察していたら

- しているのではなく、させられている? -

 

福岡伸一著「動的平衡2」木楽舎
を読んでいたら、こんな記述があった。
(以下水色部引用)

現在、地球上で最も多く存在している生物はトウモロコシである。
人間は約70億人いて、
1人の体重を50キロとすると3.5億トンくらいになるが、
トウモロコシは毎年8億トンちかく収穫されている。
2番目が小麦で約6億トン、3番目が米で約5億トンである。

もし、宇宙人が地球を観察していたら、
この星を支配しているのは
トウモロコシ
という黄色い実のなる植物で、
彼らはヒトに世話をさせて隆盛を極めていると思うだろう。

 

宇宙から見ると、地球上では
トウモロコシという最大勢力かつ隆盛を極めている生物が、
人間という弱小生物を奴隷のように使って、
自分たちの世話をさせている。

そんな風に見えるのかもしれない。

「おもしろい!」と思いながらも、
「宇宙人が地球を観察していたら」のフレーズに、
ある景色が急によみがえってきた。

あのとき、ちょうどその言葉が浮かんでいた。

 

米国ニューメキシコ州に、1995年に世界遺産にも登録された
カールズバッド洞窟群国立公園(Carlsbad Caverns National Park)
という国立公園がある。

その名の通り、巨大な洞窟の自然遺産。

Carlsbad2

(暗くてコンパクトカメラではほとんど写せなかったのですが、
 少しでも雰囲気が伝われば、と思い、
 1997年に家族で遊びに行った時の写真を少しだけ添えておきます。
 まだフィルムによるカメラの時代。プリントをスキャンしたもの)

 

Carlsbad1

ここの洞窟はとにかく規模がケタ違いに大きい。

Wikipediaには
全米最深(489m)、長さは世界第5位(203km)という、
数字で表現されているが、
見どころのひとつである「ビッグルーム」と呼ばれる
空間だけでも、
天井の高さが80m前後、サッカー場が14面も入る、
とてつもなく大きな石灰岩の洞窟である。

Carlsbad3

 

中には、つらら石、石筍、石柱などなど、
さまざまな石灰生成物があり、その造形を楽しむことができるが、
歩いて回ると暗い洞窟の中ながら、その巨大さと迫力ゆえに
「洞窟の中」であることを忘れてしまう。

Carlsbad4

暗い巨大な別世界に連れて来られた、という感じ。

というわけで、洞窟だけでも見どころ満載なのだが、
この公園には夏の間、もうひとつ大きな観光の目玉がある。

 

ちょっとこれをご覧頂きたい。

Carlsbad5

正面の大きな洞穴を囲んで円形劇場のような座席が作られている。
さてさて、これは何でしょう?

この円形劇場こそが、もうひとつの舞台。

実はこの巨大な洞窟には、
メキシコ・オヒキコウモリ(Mexican Free-tailed Bat)
をはじめとする何種類かのコウモリが棲みついていて、
6月頃に出産、そして、10月頃まで、
ここで子育てをしながら過ごしているのだ。

国立公園として、洞窟も周りの自然も大切に保護されているので、
子育てには絶好の環境といえるだろう。

10月以降は冬の寒さを避けて南のメキシコに移動するらしいのだが、
それまで、ここで子育てをするコウモリの数は
実に、数十万匹から百万匹
とも言われている。

 

日中は真っ暗な洞窟の中にいる数十万匹のコウモリ。

そのコウモリたちが、日没直前、
エサを求めて一斉に飛び立つのだ。

「一斉に、円形劇場の中心にある、あの洞穴から」

 

日没を目指して集まってきた観光客は、
円形劇場の席に座り、パークレンジャーの話を聞きながら、
コウモリが飛び立つのを待つ。

パークレンジャーは、
一晩で自分の体重の半分近くものエサ(虫)を食べることやら、
天井にぶら下がったまま出産をすることやら、
赤ちゃんもお母さんにしがみついて
逆さのままお乳を飲むことやら、
コウモリの解説をする一方で、
シャッター音や
フラッシュ充電時の「キーン」という音に敏感なので、
飛翔を見る時は絶対に写真を撮らないでくれ、といった
注意事項の徹底も忘れない。

 

日没の時間が迫ってくる。

まだか、まだか、の観光客の強い期待に煽られてか、
パタパタと2,3匹のコウモリが洞穴から飛び出してきた。

緊張感が一気に高まる。

まさにその直後、
パタパタパタ、パタパタパタ、と
奥の方から低い音が迫ってきたかと思うと、
突然、黒い煙のようなものが洞穴から湧き出してきた。

コウモリだ!

先頭グループだけで数千匹はいるだろうか。

最初の一群が飛び出してくると、
それに続いて、黒い帯はどんどん成長していく。
ものすごい数だ。

穴から黒く立ち上った柱は、まさに煙のごとく、
高くのぼっては空中で薄くなっていく。

パタパタパタ、パタパタパタ。

洞穴からはすこし距離があるものの、圧倒的な数のせいか、
体温を感じさせるぬわっとした生暖かい空気が
独特な生臭さといっしょに流れてくる。

大集団の飛翔は15分から20分くらいは続いただろうか。

その後もしばらくは、
パラパラと小集団が間欠的に飛び出してきたりもした。

「もう、出てこないよね」
最後尾を見送るころにはかなり暗くなっていた。

 

観光客は少し離れた駐車場にゆっくりとした足取りで向う。
まわりは灌木だらけの沙漠地帯で、近くには街もないので、
一面まさに真っ暗な世界だ。

そんな中、数百台の車が「一斉に」ヘッドライトをつけ、
片側一車線の道にお行儀よく一列に並んで「一斉に」動き出す。

その時、「宇宙人が地球を観察していたら」
われわれ観光客自身が、コウモリのように見えているかも、
とふと思った。

毎夕、日没後、ある時間になったら
真っ暗な沙漠の中、突然発光して一斉に動き出すコウモリ。

 

あるいは、これ、われわれは見に来たつもりになっているが、
実はコウモリのほうに完全に操られているのかもしれない。
気がつけば全員、
無意識のうちにコウモリ時間で動いているのだから。

 

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2014年7月 5日 (土)

「優しい」は優しい言葉?

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「優しい」は優しい言葉?

- 実生活で、ドラマの世界で -

 

「A君って『いい人』は『いい人』なんだけど、
 つまりは『どうでもいい人』なんだよね」

こんな女子高生グループの会話を電車の中で聞いたのは
何年前のことだったか。

この言葉を聞いて以来、「いい人」と聞くたびに
同時に「どうでもいい人」が思い浮かんでしまう。
この刷り込み、誰か消去してくれぇ。

 

そう言えば、脚本家の内館牧子さんが、
「女は三角 男は四角」 (小学館文庫)というエッセイ集の中で
こんなことを書いていた。
以下水色部は「ほめ言葉」という一篇からの抜粋。

たとえばある女がいて、
自分の夫なり恋人なりを女友達に紹介したとする。
こういう時、女友達というものは
何とかほめなければと思うものだ。

その夫なり恋人なりがちょっと席を外した時に、

「すてきな人ね。ハンサムだし話は面白いし、羨ましいわ」
 と言ったりする。

が、中には
何ともほめようのない男だったりする場合もある
ものなのだ。

 

とにかく、ほめ言葉を探す、探す、探す。

それでも女というものは思いやりがあって、
友達を傷つけたくないので(ホントである)、
瞬時にしてほめ言葉をさがす。

「ワァ、彫りが深い顔だちねえ」
「脚が長いのねえ」
「頭よさそ!」

が、中には彫りはほとんどなく、脚も短く、
頭も悪そ! な男の場合もある。

それでも女はめげない。

彫りがなければ、服をほめる。
「いいファッションセンスしてるわねえ」

脚が短ければ、逆手に取る。
「山男みたいに逞(たくま)しいわァ」

 

それでも、どうしてもほめようがないときは...

 実はそういう時、女たちには取っておきの言葉がある。

この言葉は脚が短かろうが、頭が悪そうであろうが、
ファッションセンスがハチャメチヤであろうが、
まったく問題ない。

どんな男にもピタリとハマるほめ言葉があるのだ。

「優しそうな人ね」

 これである。

 もしも、これを読んでいる男性読者が、妻か恋人から、
「友達があなたのこと、優しそうな人ねって言ってたわ」
 と伝えられたら、
それは「ほめようのない男」ということに等しい

 

なんということか。

「国家の品格」の藤原正彦さんもショックを受けている。
以下薄茶色部、
藤原正彦著「決定版 この国のけじめ」文春文庫からの引用。

・・・結婚以来二十数年、
私に会った女房の友達のほとんどが
「優しそうな人ね」と後日女房に伝えた。

私は
「そうか、やっぱり隠しきれなかったんだ、ボク」
などと喜んでいた。

ところが、内館さんの『女は三角 男は四角』という
数学的な題の本にはこう書いてある。

「女たちにはとっておきの言葉がある。・・(中略)・・
 『友達があなたのこと、優しそうな人ねって言っていたわ』
 と伝えられたら、それは
 『ほめようのない男』ということに等しい」

ウルサーイッ。

 

男性諸氏よ、
「優しそうな人ね」と言われて喜んではいけないのだ。

 

実生活では、褒め言葉云々で笑っていられるが、
小説やドラマの世界では、実はもっともっと過激な、
怖い言葉として「優しい」が使われることが多い気がする。

特に女性が「優しい」を口にするとき、
そこにはたいていふたつの「怖さ」がある。

ひとつは、優しさ自体が持っている
ある種の「残酷さ」を浮き彫りにしてくる怖さ、
そしてもうひとつは、ことの真理を
女性が「見抜いてしまっている」ことを突きつけてくる怖さ。

語自体が持つ「優しさ」とギャップがあるがゆえに
物語にしやすい言葉なのかもしれない。

今放送中の、
NHKの朝のドラマ「花子とアン」(脚本:中園ミホ)
第80回(7月1日放送)にもこんなセリフがあった。

  夫の心の中に別な女性の存在を感じてしまった
  長期入院中の妻。
  足繁く見舞う夫に感心して看護婦が言う。

看護婦
   「毎日のようにお見舞いにいらして優しいご主人ですね」


   「ええ。優しいンです。・・・優しすぎるの」

 

BSプレミアムで放送中の
ドラマ「プラトニック」(脚本:野島伸司)
第4回(6月15日放送)にも。

  長く続いていた関係に、一方的なやり方で、
  急に別れを告げられてしまった料理屋の女将。
  相手の男性が去ったあと、その強引なやり方に立ち会った
  別の男性にこうつぶやく。

   「頭のいい男の人はみんなそう。
    優しくて、卑怯なの」

 

そこにあるのは、
「優しい」という言葉が持つ怖さではなく、
女性自身が持つ怖さなのかもしれないが。

 

 

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