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2014年6月 7日 (土)

「ロケットで宇宙へ行こう」が発表された年

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「ロケットで宇宙へ行こう」が発表された年

- ツィオルコフスキー、ゴダード、ブラウンって誰? -

 

2014年5月24日、
宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、
陸域観測技術衛星2号
「だいち2号(ALOS-2)」を搭載した
H-IIA 24号機(H-IIA・F24)を
種子島宇宙センターから打ち上げた。
「無事成功」のニュースはうれしいものだ。

ロケット、と聞くと
子どものころに感じたワクワク感が
今でもよみがえってくる。
特に打ち上げのときのあの緊張感と
発射時の圧倒的なパワーには、
他にはない魅力がある。


打ち上げ時の映像には、米国NASAの、
剥がれ落ちる大量の氷が美しい
発射台での映像など、
迫力のあるものも数多くあるが、
こんなところで待っていたこんな映像もいい。
同じH2Aロケット、
2009年11月28日の打ち上げ時のもの。

カメラマンの「来た!」の一言が効いている。


写真なら、2010年4月5日、
山崎直子さんが乗っていた
スペースシャトルDiscoveryを撮った
コレも印象的。
星が動いている通り、
多重露光による写真だが、
人工的な軌跡なのに、
神々しいという言葉が浮かんでしまう。

Spaceshuttle10405

(ソースはここ


ロケットに関しては、その偉大な業績から
忘れてはならない人物が三人いる。
ところが、
その知名度はなぜかほんとうに低い。

飛行機のライト兄弟は
実に多くの人に知られているのに...


というわけで、
今日はその三人を紹介したい。
「わかりやすさ」を最優先に
この本を選んでみた。

清水義範 (著)
もっとおもしろくても理科

講談社文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

「ロケットの父:
 ロシアのツィオルコフスキー」から
話を始めたいと思うが、彼については、
あえて年の部分を伏せて引用することにした。
だいたい何年ごろのことだろうと、
想像しながら読んでみてもらいたい。
特に注目してもらいたいのは[Q3]の年だ。

【ロケットの父:
 ロシアのツィオルコフスキー】

ツィオルコフスキーは[Q1]年生まれ。
非常に優秀な学者で、
飛行船の研究などもしたし、
宇宙飛行のSFを書いたりもした。

[Q2]年には
ツィオルコフスキーの公式を発表した。
これは、ロケットの
速度が決まる原理を式にしたもので、

ロケットは、
 初めの重さと
 燃料の燃えた後の重さとの差が
 大きいほど速度があがり、
また、
 噴射ガスの速度が大きいほど
 速度があがる、
という公式である。

ロケットの理論が完成されたと
言ってもいいものであった。

そして[Q3]年には、
ロケットで宇宙へ行こう、という
科学的論文を発表した


この中には、

 宇宙へ行けるのは
 ロケットだけだということ、
 それには液体燃料がいいということ、
 ロケットの形は流線型がよいこと、
 ガスをノズルから噴射して進むこと、

などが書いてあった。
考えの上では、文句のつけようがない
ロケットの原理の完成である。

最後の[Q3]、
「ロケットで宇宙へ行こう」の発表年は
さていつか?

正解はなんと1903年!
(正解は、[Q1]1857、[Q2]1897、[Q3]1903)

1903年とは、
ライト兄弟が飛行機を発明した年だ。
飛行機がやっと初フライトに成功した頃に、
ロケットの原理を
考えていた人がいるのである。

ツィオルコフスキーはその後、
多段式ロケットの概念も考えた。

それは彼の考えた公式の中の、
 燃料の燃えた後のロケットは
 軽くなっているほうが速度が出る、
というのから
当然出てくる発想であるわけだ。

燃料を使いきった一段目のロケットは
切り離して、次のロケットに点火する、
というやり方は
スピードがぐんぐんあがるわけである。

それから、
晩年のツィオルコフスキーは、
原子力ロケットや
イオン・ロケットを着想し、
宇宙ステーションまで
構想していたそうである。
1935年、78歳で死んだ。

ツィオルコフスキーの発想は、
まさに最初から的を射たものだったが、
アイデアを実現化するのは
もちろん簡単ではなかった。


【近代ロケットの父:ロバート・ゴダード】

二十世紀は、いろんな人が
ロケットの実現のために
努力した世紀なのだ。

その中で、まず忘れてはならないのが、
アメリカのロバート・ゴダードであろう。

ロケットにとりつかれたこの男は、
1926年、ついに史上初の
液体燃料ロケットの打ち上げに成功
した。
成功とは言っても、飛行時間は2.5秒で、
ロケットは56メートルの高さにまで
達しただけだったが。

でも、その後死ぬまで
ロケットを改良し続けた。

後に、アメリカ政府は
アポロ計画を実行する際、
214件もの特許を
ゴダードから買い上げたのだ。
ゴダードは
「近代ロケットの父」と呼ばれている。

月面に人を送り込んだアポロ計画に
214件もの特許を提供
したなんて。


ドイツには、1920年代、
宇宙への夢と希望を
ドイツ人におおいにふきこんだ
オーベルトがいる。
ふきこまれたものの中から、
あの第二次世界大戦のロケット兵器V2を
作る者たちが出てきた。

【ウェルナー・フォン・ブラウン】

その、V2を作った
メンバーたちのリーダーが、
ウェルナー・フォン・ブラウンであった。
V2ロケットを作ったのは
フォン・ブラウンと覚えておいて
間違いではない。

しかし、それだけではないのだ。
フォン・ブラウンは戦争後、アメリカヘ
V2の生産ラインごと運ばれたのだ。
戦争に勝ったアメリカは
ドイツのロケット技術を、技術者ごと
持ち帰った
と言ってもよい。
1955年にフォン・ブラウンは
アメリカに帰化し、アメリカ人になった。

そして、ソ連のスプートニクに
ショックを受けたアメリカに、
エクスプローラーを打ち上げさせたのが
フォン・ブラウンだった。
ジュピターCというロケットを
作ったのが彼なのだ。

でも、まだそれだけでもないのだ。
フォン・ブラウンは、
サターン5型ロケットも
作っているのである。
アポロ11号を月へ運んだロケットも、
彼のチームのものだったのだ。

ウィキペディアにはドイツ時代の
こんな「逮捕」についての記述もある。
SS(ナチ親衛隊)と
ゲシュタポ(国家秘密警察)は、

「(軍事兵器の開発に優先して)
 フォン・ブラウンが
 地球を回る軌道に乗せるロケットや、
 おそらく月に向かうロケットを
 建造することについて
 語ることをやめない


としてフォン・ブラウンを
国家反逆罪で逮捕した。
フォン・ブラウンの罪状は、

「より大型のロケット爆弾作成に
 集中すべき時に、
 個人的な願望について語りすぎる


というものであった。

ドルンベルガーは、
「もしフォン・ブラウンがいなければ
 V-2は完成しない、
 そうなればあなたたちは
 責任を問われるだろう」
とゲシュタポを説得し、
フォン・ブラウンを釈放させようとした。

しかし、それでも
ゲシュタポは許そうとせず、
最後はヒトラー自らが
ゲシュタポをとりなし、
ようやくフォン・ブラウンは解放された。
そのときヒトラーは
「私でも彼を釈放することは
 かなり困難だった」
と言ったという。


それにしてもすごい業績だ。
清水さんも書いている。
驚くべき人である。
V2ロケットから、アポロ計画まで、
全部やってのけたのがフォン・ブラウン

こんな人が本当にいるなんて
信じられないような
気さえするではないか。

こういった人々の力によって、
ついに人間は月にまで
行って帰って来られるようになった。

ところが、事情はいろいろあったにせよ、
アメリカの有人月旅行計画は
アポロ17号で終了してしまう。
1972年。
始まった年ではない、終わった年だ。


山本夏彦さんは
「何用あって月世界へ」という
山本さんらしい名言を残しているが、
その月旅行は、
42年も前に一旦終わってしまっている。

 

 

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