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2014年6月

2014年6月28日 (土)

推敲を重ねていくと

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推敲を重ねていくと

- アーサー・ビナードさんの言葉 -

 

もうずいぶん前の話になるが、
「私の一冊 日本の百冊」というTV番組の中で、
日本語で詩を書いて中原中也賞を受賞したこともある
アメリカ人の詩人、アーサー・ビナードさんが、
菅原克己さんの詩集「陽気な引っ越し」
紹介していたことがある。

菅原さんの詩は、生活に根ざしていて生活に近い、
それでいて、違う
ある意味、別天地を見せてくれる、っていう。

ほんと、
こう勢い込んで入っていかなくちゃ入れない世界ではなくて、
むしろ小説なんかよりずぅーっと入りやすくて、
電車に乗ってパッとどのページ開いても、
開いて読みだすと降りる駅が来る前には、
もうひとつの世界を味わうことができる。

 

菅原克己さんの詩 「無限」

無限

ロビンソン・クルーソーには
家来があり、
ガリバーにはふるさとがあった。
どんな所に行っても
人には世の中がある。

秋が終ると
お前はどこに出かけて行くのか、
部屋のすみの蟋蟀(コオロギ)よ。

 

日本語で詩を書く詩人のひとりとして、
ビナードさんは菅原克己から多くを学んだと言います。

苦労して作った作品には、苦労の跡(あと)が残りますので、
その苦労の跡を消すために、
また苦労して重ねて工夫して消してるンですね。

まだこう頑張って作ったなぁ、っていう苦労の跡が、
あるいは力んだ跡が残っていると
言葉が鉄格子みたいにその視界を遮るんだよね。
鉄格子が残っているような感じ。

けど、もうちょっとこの、その言葉が、
自然な流れになって必然的にそのイメージが広がっていくと、
むしろ竹やぶみたいな感じになるンだよね。

ほんとにうまくいったときに、それも消えてスーッと、
もう透明のような感じになって、その向うの景色が見える。


だから、そういう作品なので、
こう、頼りにしてるンですね。

わかんなくなっちゃった時には、菅原さんの詩に戻る
彼の作品に立ち返って、読み直すっていう...

 

中原中也賞が取れるほどの日本語も
大人になってから来日して身につけた、
というのだから驚くが、その日本語を使って、
「推敲」をこんな美しい言葉で表現できるなんて。

そう、いい文章に出会うと
「その向うの景色が見える」ような気がするのだ。

 

 

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2014年6月21日 (土)

マドンナの追悼スピーチ

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マドンナの追悼スピーチ

- スーパースターにしかわからない孤独 -

 

ル・マンもツール・ド・フランスも集団的自衛権も、
サッカーの記事のためにスペースを譲っている一ヶ月ではあるが、
今日は、6月と聞くと思い出す、亡くなってからまもなく5年になる
マイケル・ジャクソンについての話をひとつ紹介したい。

彼の急逝は2009年6月25日のこと。
7月からは、50回にも渡る「THIS IS IT」公演が
ロンドンで予定されていて、まさにその直前でのことだった。

歌だけでなく、圧倒的なダンスパフォーマンスで
数々の映像作品を残しているマイケル・ジャクソンだが、やはり
初めて「スリラー」のミュージック・ビデオを観た時の衝撃は
忘れられない。もう30年以上も前の話だ。

YouTubeでもすでに1億8千万回以上も再生されている。
(「なつかしいので、もう一度観たい」という方は、下の写真
 またはここをクリックするとYouTubeに移って再生されます)

Thriller

 

キレのある踊りで観客を魅了する一方、
ブカレスト公演のオープニングのように、
ただ、じっと立っているだけで観客を絶叫させ、熱狂させる
絶頂期のあのオーラは、
まさにスーパースターと呼ぶにふさわしいものだったと思う。

(よく語られるブカレスト公演、登場直後の
 約2分間の完全静止の動画はコレ
 下の写真をクリックしてもYouTubeに移って再生されます)

Bucharest

(話が横道にそれてしまうが、
 私はコレを見ると、落語家の古今亭志ん生が
 「うーー」とか「えーー」とかしか言っていないのに、
 もうそれだけで、観客が笑い転げている
 あの様子がどうしても浮かんでしまう。)

 

さて、そのマイケル・ジャクソン。

亡くなったあと多くの方がいろいろなコメントを寄せていた。
プライベートなエピソードを赤裸々に語った
ブルック・シールズのスピーチのように
彼の才能への単なる賛辞だけではない印象深い話はいくつかあるが、
個人的に、圧倒的に強く印象に残っているのはなんと言っても
「マドンナの追悼スピーチ」だ。

スーパースターにしかわからない孤独、
スーパースターへの敬意、
スーパースターの力を、
スーパースター自身が、
だれにでも共感できる言葉で語っている。
皆に静かに省みる態度を促しながら、決して説教臭くはない。
ほんとうにすばらしいスピーチだと思う。

約6分間、日本語字幕もついているので、
間やイントネーションが持つ「声」の力を感じながら、
ゆっくりお聞き下さい。

(下の写真またはここをクリックすると
 MTVサイトに移って再生されます)

Photo

 

この動画を友人に紹介したところ、こんな感想を返してくれた。

一般のファンなら、賞賛するほうに心が行き、
身内なら、そのつらい人生に思いをはせるのでしょうが、
突然の死という大事件のさなかに、
スーパースターとしてのマイケルと、
一人の人間としてのマイケルを合わせて見ることができた人は、
世界中さがしても、何人もいなかったでしょう。

私達がその目を持てたのは、マドンナのおかげ。

でも、そのことでマドンナに感謝した次の瞬間には、
マドンナ自身の孤独が胸に迫り、
それが、また、マイケルの大きさを照らしだす、
・・そんな印象です。

 

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2014年6月13日 (金)

ヒラリー・クリントンの元カレ

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ヒラリー・クリントンの元カレ

- 片田舎のガソリンスタンドで -

 

2016年米大統領選に向けた動きが注目されている
ヒラリー・クリントン前国務長官の回顧録「Hard Choices(困難な選択)」が
6月10日、出版された。

ヒラリーさんと聞くと、どうしても忘れられないジョークがある。

ヒラリーさんがファースト・レディ、つまり
ご主人のビル・クリントンが大統領だったころに聞いた話だ。

ビルのほうは、某女性との
不適切な関係(relationship that was not appropriate)で、
全米のマスコミのバカ騒ぎの渦中にいた。

今考えてみると、ある意味なんとも平和な時代だった。

 

当時、私は米国で働いていたのだが、
ある日、同僚の米国人エンジニアがニヤニヤしながら寄ってきて
こんな話をしてくれた。

 

ビルとヒラリーの二人が、
ビルの運転で米国の片田舎をドライブしていた。

途中、ガソリンスタンドに立ち寄ると、
そこのご主人は、偶然にも
ヒラリーが高校生のころにつきあっていた元カレだった。

懐かしい再会に思わず声をあげるふたり。

いまさらコソコソする理由もないので、
ヒラリーは、すっかりおじさんになってしまった元カレを
ビルに明るく紹介した。

ガソリンを入れ、「お元気で」と別れる二人。


しばらく走ったところでビルが言った。

「君は僕と結婚したから、今はファースト・レディだけれど、
 もし、さっきの彼と結婚していたら、
 いまごろは、田舎のガソリンスタンドのおかみさん、だもんな」

ヒラリーはさらりと答えた。

「なに言っているの。
 もし、私が彼と結婚していたら、彼がいまごろ大統領よ」

 

これがジョークになるくらい
ヒラリーさんは、当時から人気、実力ともに備えていた。

さてさて、ビルは2016年、ファースト・レディではなく、
「the first husband(女性大統領の夫)」になるのだろうか?

 

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2014年6月 7日 (土)

「ロケットで宇宙へ行こう」が発表された年

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「ロケットで宇宙へ行こう」が発表された年

- ツィオルコフスキー、ゴダード、ブラウンって誰? -

 

2014年5月24日、宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、
陸域観測技術衛星2号「だいち2号(ALOS-2)」を搭載した
H-IIA 24号機(H-IIA・F24)を種子島宇宙センターから打ち上げた。
「無事成功」のニュースはうれしいものだ。

ロケット、と聞くと子どものころに感じたワクワク感が
今でもよみがえってくる。
特に打ち上げのときのあの緊張感と発射時の圧倒的なパワーには、
他にはない魅力がある。

 

打ち上げ時の映像には、
米国NASAの、剥がれ落ちる大量の氷が美しい発射台での映像など、
迫力のあるものも数多くあるが、
こんなところで待っていたこんな映像もいい。
同じH2Aロケット、2009年11月28日の打ち上げ時のもの。

カメラマンの「来た!」の一言が効いている。

 

写真なら、2010年4月5日、山崎直子さんが乗っていた
スペースシャトルDiscoveryを撮ったコレも印象的。
星が動いている通り、多重露光による写真だが、
人工的な軌跡なのに、神々しいという言葉が浮かんでしまう。

Spaceshuttle10405

(ソースはここ

 

ロケットに関しては、その偉大な業績から忘れてはならない人物が
三人いる。ところが、その知名度はなぜかほんとうに低い。

飛行機のライト兄弟は実に多くの人に知られているのに...

というわけで、今日はその三人を紹介したい。
「わかりやすさ」を最優先にこの本を選んでみた。

清水義範著「もっとおもしろくても理科」(講談社文庫)

(以下、水色部は本からの引用)

 

「ロケットの父:ロシアのツィオルコフスキー」から話を始めたいと思うが、
彼については、あえて年の部分を伏せて引用することにした。
だいたい何年ごろのことだろうと、想像しながら読んでみてもらいたい。
特に注目してもらいたいのは[Q3]の年だ。

 

【ロケットの父:ロシアのツィオルコフスキー】

ツィオルコフスキーは[Q1]年生まれ。
非常に優秀な学者で、飛行船の研究などもしたし、宇宙飛行のSFを書いたりもした。

[Q2]年にはツィオルコフスキーの公式を発表した。
これは、ロケットの速度が決まる原理を式にしたもので、

ロケットは、
   初めの重さと燃料の燃えた後の重さとの差が大きいほど速度があがり、
また、
   噴射ガスの速度が大きいほど速度があがる、という公式である。

ロケットの理論が完成されたと言ってもいいものであった。


 そして[Q3]年には、ロケットで宇宙へ行こう、という科学的論文を発表した

この中には、

  宇宙へ行けるのはロケットだけだということ、
  それには液体燃料がいいということ、
  ロケットの形は流線型がよいこと、
  ガスをノズルから噴射して進むこと、

などが書いてあった。
考えの上では、文句のつけようがないロケットの原理の完成である。

最後の[Q3]、「ロケットで宇宙へ行こう」の発表年はさていつか?

正解はなんと1903年! (正解は、[Q1]1857、[Q2]1897、[Q3]1903)

1903年とは、ライト兄弟が飛行機を発明した年だ。
飛行機がやっと初フライトに成功した頃に、
ロケットの原理を考えていた人がいるのである。

 

ツィオルコフスキーはその後、多段式ロケットの概念も考えた。

それは彼の考えた公式の中の、
   燃料の燃えた後のロケットは軽くなっているほうが速度が出る、
というのから当然出てくる発想であるわけだ。

燃料を使いきった一段目のロケットは切り離して、
次のロケットに点火する、というやり方は
スピードがぐんぐんあがるわけである。

 それから、晩年のツィオルコフスキーは、原子力ロケットやイオン・ロケットを着想し、
宇宙ステーションまで構想していたそうである。1935年、78歳で死んだ。

ツィオルコフスキーの発想は、まさに最初から的を射たものだったが、
アイデアを実現化するのはもちろん簡単ではなかった。

 

【近代ロケットの父:ロバート・ゴダード】

二十世紀は、いろんな人がロケットの実現のために努力した世紀なのだ。

 その中で、まず忘れてはならないのが、アメリカのロバート・ゴダードであろう。

ロケットにとりつかれたこの男は、
1926年、ついに史上初の液体燃料ロケットの打ち上げに成功した。
成功とは言っても、飛行時間は2.5秒で、
ロケットは56メートルの高さにまで達しただけだったが。

 でも、その後死ぬまでロケットを改良し続けた。

後に、アメリカ政府はアポロ計画を実行する際、
214件もの特許をゴダードから買い上げたのだ。
ゴダードは「近代ロケットの父」と呼ばれている。

月面に人を送り込んだアポロ計画に214件もの特許を提供したなんて。

 

ドイツには、1920年代、宇宙への夢と希望をドイツ人におおいにふきこんだオーベルトがいる。
ふきこまれたものの中から、あの第二次世界大戦のロケット兵器V2を作る者たちが出てきた。

【ウェルナー・フォン・ブラウン】

 その、V2を作ったメンバーたちのリーダーが、ウェルナー・フォン・ブラウンであった。
V2ロケットを作ったのはフォン・ブラウンと覚えておいて間違いではない。

 しかし、それだけではないのだ。
フォン・ブラウンは戦争後、アメリカヘV2の生産ラインごと運ばれたのだ。
戦争に勝ったアメリカはドイツのロケット技術を、技術者ごと持ち帰ったと言ってもよい。
1955年にフォン・ブラウンはアメリカに帰化し、アメリカ人になった。

 そして、ソ連のスプートニクにショックを受けたアメリカに、
エクスプローラーを打ち上げさせたのがフォン・ブラウンだった。
ジュピターCというロケットを作ったのが彼なのだ。

 でも、まだそれだけでもないのだ。
フォン・ブラウンは、サターン5型ロケットも作っているのである。
アポロ11号を月へ運んだロケットも、彼のチームのものだったのだ。

 

ウィキペディアにはドイツ時代のこんな「逮捕」についての記述もある。

SS(ナチ親衛隊)とゲシュタポ(国家秘密警察)は、

「(軍事兵器の開発に優先して)フォン・ブラウンが地球を回る軌道に乗せるロケットや、
 おそらく月に向かうロケットを建造することについて語ることをやめない


としてフォン・ブラウンを国家反逆罪で逮捕した。

フォン・ブラウンの罪状は、

「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、個人的な願望について語りすぎる

というものであった。

ドルンベルガーは、
「もしフォン・ブラウンがいなければV-2は完成しない、
 そうなればあなたたちは責任を問われるだろう」
とゲシュタポを説得し、フォン・ブラウンを釈放させようとした。

しかし、それでもゲシュタポは許そうとせず、最後はヒトラー自らがゲシュタポをとりなし、
ようやくフォン・ブラウンは解放された。
そのときヒトラーは「私でも彼を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。

 

それにしてもすごい業績だ。清水さんも書いている。

驚くべき人である。
V2ロケットから、アポロ計画まで、全部やってのけたのがフォン・ブラウン
こんな人が本当にいるなんて信じられないような気さえするではないか。

 

こういった人々の力によって、
ついに人間は月にまで行って帰って来られるようになった。

ところが、事情はいろいろあったにせよ、
アメリカの有人月旅行計画はアポロ17号で終了してしまう。
1972年。始まった年ではない、終わった年だ。

山本夏彦さんは「何用あって月世界へ」という
山本さんらしい名言を残しているが、
その月旅行は、42年も前に一旦終わってしまっている。

 

 

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