「明暦の大火」と松平信綱
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「明暦の大火」と松平信綱
- 場を和らげる機転と笑顔、そして具体的な施策 -
1月17日で阪神淡路大震災からもう19年にもなるという。
震災の2ヶ月後、1995年3月には地下鉄サリン事件が発生。
思い返してみると、95年は新聞トップに大きな見出しが続いた年だった。
地震があった時、以前は
「まずは火を消せ」としつこく言われていた気がするのだが、
最近聞いたラジオでは
「可能なら消して下さい。ガスは震度5以上で自動的に止まります」と言っていた。
『一刻も早く絶対にやれ』感はやや落ちている感じがする。
どういう理由でトーンが変わったのかはよくわからないが、
まずは「身を守れ」ということなのだろう。
いずれにせよ「火事はできるだけ防ぐ」が大原則であることに変わりはない。
地震が原因というわけではないが、今から350年以上も前、
江戸では信じられないような大火があった。
世に言う「明暦の大火」。
旧暦での1月18日に出火。明暦三年(西暦で言うと1657年)のことだ。
諸説あるものの「死者は3万から10万人」と言われているとんでもない大火だ。
今日は、作家の童門冬二さんが日本経済新聞に書いていた
「防災担当相は″知恵伊豆″」
という記事を紹介したい。
(以下 水色部は「日本経済新聞」1995年3月26日の記事からの引用)
江戸城天守閣をも焼いてしまった明暦の大火。
防災担当相は″知恵伊豆″
童門冬二
”火事とケンカは江戸の花”といわれるように、江戸時代は始終火事があった。
なかでも一番大きいのが、明暦三年(1657)1月18日に起こった
いわゆる”明暦の大火”である。
火元は本郷丸山町の本妙寺だったといわれる。
ちょうど名物の西北風が吹きまくっていた。
また、ずっと日照りが続いていたので江戸の町は乾燥しきっていた。
本郷の台地はたちまち火で一なめになった。
下町に移った火は翌19日も燃え続け、ついに江戸城に及んだ。
天守閣も焼け落ちてしまった。二の丸、三の丸も焼けた。
結局、江戸の町の60パーセントが焼け、
大名の江戸屋敷も五百以上、神社仏閣が三百以上焼けた。
焼け出された江戸市民も多く、家財道具もそのままにして逃げ迷ったが、
やがては煙にまかれて堀に落ちたり川に落ちたりして死ぬ人間が多かった。
死者の総計は十万二千人といわれた。
火がおさまった1月24日ごろから、遺体を収容し、
舟で牛島と呼ばれたところに運び、穴を掘って埋めた。
やがて供養のための寺ができ、
これが現在残っている東京都墨田区東両国にある回向院だ。
この大災害の災害対策本部で活躍する男の名は「松平信綱」。
徳川幕府はすぐ首脳部が現場に今でいう災害対策本部を設けて救済にあたった。
活躍したのが、老中(閣僚)の松平伊豆守信綱である。
松平信綱は当時川越城主だった。
彼は忍城(埼玉県行田市)の城主だったが、
寛永十四年に起こった島原の乱を鎮圧した功績によって、
川越六万石に増封されたのである。
しかしこれは単に島原の乱鎮圧の功績だけでなく、
前年に川越の市街が大火で焼け落ちていたからである。
時の将軍三代徳川家光が、
「信綱、川越を復興せよ」
と命じたのだ。松平信綱にはそういう防災計画の才覚があったようである。
信綱の川越での活躍には目を見張るものがある。
川越に行った信網は、
城の整備、
商人町の指定、
防火用水の確保、
洪水地帯の治水、
新田開発、
玉川上水の完成、
分水しての野火止用水の創設、
新河岸川の舟運の開発など、
民政に見るべき功績を残した。
川越の町全体を耐火式都市に変える努力をし、
現在の川越市の町並みの原型は、信綱がつくったものだと伝えられている。
そういう経験がかわれ、大火で60パーセント以上が焼け落ちてしまった
江戸の復興計画も信網に下命された。
その信綱についてこんな「エピソード」が紹介されている。
機転が利くだけでなく、
緊急時に最も重要な、でも最もむつかしい「場を和らげる」ことに成功している。
ほんとうに大きな人物だったのだろう。
このとき現在の閣僚級である老中たち首脳部が、
ぞろぞろと江戸の市中に設けられた対策本部にでかけていったが、
こんな話がある。
大名のなかでも実力者が酒井忠清という人物だった。
伝統のある名門大名なので、坐る場所がうるさい。
つまり席順を気にする。この日がそうだった。
江戸城にいれば、いちばん高い場所に坐るはずなのに、
今日はどさくさまぎれで、新人大名がいつも酒井が坐る上座に坐っていた。
酒井はムッとした。そこで、「帰る」と駄々をこねた。
すると松平信綱がニッコリ笑って、
「酒井様、どうぞ空いている席にお坐りください」といった。
酒井は
「空いている席といっても、上席はすでに若いやつが坐っている。
ここは下坐ではないか」
とつっかかった。
信綱はニコニコ笑いながら
「そんなことはありません。
我々後輩は、あなたがお坐りになった席がたとえ下坐であろうと、
この場所でのいちばん上席と心得ておりますので。
まして本日は江戸の災害対策という緊急の場でございます。
どうぞお気になさらずそのお席へ」
と告げた。
これによって険悪な空気は和らぎ、酒井も機嫌をなおした。
酒井にしても信綱のいった”緊急の場”というひとことがきいた。
(あまりゴネるとおれの評判がわるくなる)と反省したのだ。
みんなは「さすがに知恵伊豆どのだ」と感心した。
特に上席に坐った若い大名はホッとした。
さて、実際の防災計画を見てみよう。
焼け落ちた江戸の町をつぶさにみた後、
松平信網はつぎのような防災計画をたてた。
・江戸城の天守閣は、財政難の折から再建しない。
・江戸城内にあった大名の屋敷は、それぞれ城外に出す。
・避難民が大量に焼死した経験から、今後は下総(千葉県)方面へも
避難が可能なように、隅田川に橋をかける。
・寺社は近郊に疎開させる。
・罹災者のうち職を失った者の中で希望する者は、
三多摩地方その他で新田開発に従事させる。
・町中の密集地帯に広小路と名付ける防火地帯を設ける。
防火地指定を受けて土地を収用された住民には、代替地や移転料を与える。
・重要な橋が架かっている周囲からは、住家を除く。
これにも代替地や移転料を与える。
・市街地をさらに拡大する。新しく埋立地をつくる。これが築地になった。
・徳川家の直参による消防組織を結成する。これは「定火消し」とよばれた。
こういう松平信綱の新しい江戸の都市計画によって、
江戸城は完全に将軍の住居と日本における政治のセンターに変わった。
江戸城の周囲は武家中心の町になり、
町人の町は江戸から出る主要街道の沿道に発展していった。
現在でいえばスプロール現象を起こした。
なんて具体的でスッキリとした施策であろう。
まもなく東京都知事選となるが、都知事になるような人には、
施策の提示、という意味でぜひ見習ってもらいたものだ。
そうそう、あの「吉原」は...
歓楽の地であった吉原も、浅草たんぼに移転させた。
吉原という地名は、もともとは江戸の湿地帯で
ヨシやアシの密生地につくられた歓楽街なので”ヨシハラ”とよばれてきた。
そのため、新しくこの方面が発展した。
その点では、
松平信綱の都市計画はすでに投資が十分に行われた土地を幕府側が収用し、
未開発の土地に町人を移して、その発展を促したといえる。
巧妙な土地政策だ。
隅田川に架けた橋の名も「大橋」からいつのまにか...
隅田川に架けた橋は初めは”大橋”と呼ばれていたが、
後に武蔵国と下総国との二つの国にまたがるというので
”両国橋”と呼ばれるようになった。
現在の東京の市街地形成には、
350年以上も前の信綱の都市計画の影響が色濃く残っている。
広小路とは、防火地帯だったわけだ。
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投稿: Ellie | 2014年1月24日 (金) 13時37分