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2013年11月

2013年11月24日 (日)

「サンタのトナカイは雄か雌か」

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「サンタのトナカイは雄か雌か」

- 勇壮なのに見向きもされない、その理由 -

 

11月も下旬になって、関東・平野部の紅葉もぐっと色が深くなってきた。

コンパクトカメラしか持っていないが、
天気がいいと思わずシャッターを切ってしまう。

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気がつくと、日もずいぶん短くなっている。

Img_6823s

たった二ヶ月前には、まだ半袖でいたというのに。

Img_6861s

 

自然が作り出す美しい紅葉から、街の方に目を遣ると、
こちらのほうは人工的なLEDの灯りが作り出すクリスマスの装いに
包まれている。

Img_6915s

Img_6923s

多くの家から煙突が消えた今、小さな子どもたちの
「サンタクロースはどこから入ってくるの?」
という質問に、親たちはどう答えているのだろうか。

 

サンタクロースと言えば、
大きなプレゼントの袋とトナカイの引くソリとの組合せがやはりベストだ。
今日は、トナカイについてちょっと興味深い話を紹介したい。

京都大学教授の河合雅雄(かわいまさお)さんが書いていた
「サンタのトナカイは雄か雌か」という短いエッセイ。

   以下、水色部は「中央公論」1985年12月号からの引用・要約。

フィンランドの訪問から話は始まる。

 北欧のラップランドでは、ラップ人がトナカイ牧畜を行っている。
生態人類学の立場から、・・・フィンランドを訪れた。
9月も初めというのに、木々や葉はすっかり色づき、
とりわけ大地を覆う紅や黄の毛氈(もうせん)の鮮やかな美しさに、
身も心も酔いしれるほどだった。

 トナカイの調査をしていて、一つ面白いことに気がついた。
サンタクロースをそりにのせて引っぱっているトナカイは、
雄か雌かどちらなのだろうという疑問である。

りっぱな角を持つあの雄姿、雄か雌か、さてどちらだろう?
トナカイのことはよく知らないが、普通に考えれば、
「大きな角=雄」という気がするが...。

人に聞いてみると、誰でもわかりきってるじゃないかという顔をして、
「そりゃ雄にきまっている」と言下に答える。

なぜだと聞き返すと、「大きな角を持っているから」というのが、大方の理由である。
ニホンジカは、雄には立派な角があるが、雌にはない。
みなさんの答えは、ニホンジカから連想からなのだろう。

まさにご指摘の通り、そのままの思考で答えてしまった。

 

しかし、わざわざこういう質問をするのは、落し穴があるにきまっている。

「トナカイは、雌も立派な角を持っているんだけど……」と言うと、
みんなけげんな顔をして窮してしまう。

 実際にトナカイの調査をしてみて初めてわかったことであるが、
雄も雌も枝わかれをした大きな角を持っていて、
ちょっと見ただけでは雄か雌かの判定がつきかねる。

それでは、サンタのそりを引いているトナカイの性別を見定めるには、
陰部を見るより方法がないじゃないかということになるが、
いくら穴のあくほど見つめても、わかりっこないだろう。

サンタは子どもの神様なのである。
わざわざ雄と雌のシンボルを、どぎつく描く画家がいるだろうか。

では、他に手がかりはないのだろうか。

 この問題を解く鍵は角である。

トナカイは9月から11月までが交尾期である。
角はベルベットと称されるやわらかい毛皮で覆われているが、
交尾期の前に雄のベルベットは剥げ落ちて硬い角質の角になり、尖端は鋭くとがる。
それは雌をめぐる戦いのために、
鞘(さや)をはらって抜身の刀を帯びた姿なのである。

 しかし、交尾期が終ると、いさぎよく角を根本から落としてしまう。

 サンタクロースがお出ましになるのは、12月も終りの頃だから、
その頃には全ての雄は角を落とし、丸坊主になっているはずである。
そうすると、サンタの侍従であるトナカイは、当然雌だということになろう。

だが、そう簡単に答えが出ないところが、このパズルの面白いところである。
雌にしては、体格も角も立派すぎるという疑問が残るからだ。

さぁて、正解は・・・

 正解は「雄」である。
しかもただの雄ではなくて、去勢雄というのが厳密解なのだ。

 ラップ人は、しばしば特定の雄を去勢する。
去勢雄は体重が増加し、普通の雄よりもずっと巨大になる。
そして面白いことには、交尾期がきてもベルベットは剥げ落ちず、
角も脱落しない。

しかも、角は正常な雄よりもずっと雄大になり、すばらしい雄姿を保つようになる。
残念なことには、この雄壮さにもかかわらず雌からは見向きもされないが、
姿だけは立派なものだ。

容姿からは「去勢雄」・・・でも、なぜ去勢雄なのだろう。

 サンタのトナカイは、なぜ去勢雄なのか。
それはサンタが子どもの神様だということにあるらしい。

 子どもは中性的な存在である。
しかし、中性とはいえ、無性ではない。
そのうち、いずれかの性の業を担う未熟な性としての中性なのだ。

サンタクロースは、一年に一度子どもたちに夢と幸福を持ってくる神様であるが、
男女いずれであってもいけない。

男であれば女の子に、女であれば男の子に、異性の神として顕現することになり、
異性からの賜り物は、子どもたちにおとなの性の匂いをもたらすことになる。

サンタクロースが白いひげに包まれた老人だということは、
彼はもはや人生における性を超越した中性であり、
その故に子どもたちに平等と平和をもたらしうる人なのである。
それ故、彼を乗せて天翔(あまが)けるトナカイもまた、
中性でなければならないのだ。

河合さんは、
「サンタはどうしてお婆さんでなくて、お爺さんなのか。
それはキリストとの関連で考察せねばならないだろう。・・・」
と続けているが、これ以上は私自身がついていけていないので紹介はここまでにしたい。

 

それにしても

この雄壮さにもかかわらず雌からは見向きもされないが、姿だけは立派なものだ。

の一文が妙に悲しく響くのは、まぁ、私が中性ではないからなのだろう。

 

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2013年11月17日 (日)

バールのようなもの

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バールのようなもの

- 「のようなもの」は類似品、それとも全くの別物? -

 

もう11月も半ばなので、なにをいまさら、
という感じだが、9月末に最終回を迎えた
NHKの朝のドラマ「あまちゃん」について、
ひとつ書いておきたい。

「あまちゃん」、
私も毎日たのしみにみていたひとりなのだが、
ちょうど米国への出張と
9月の最終週が重なってしまった。

なので、録画していたものを
帰ってから一気にまとめて観た。
「次回がたのしみ」というドラマは、
「次回を待つ」というその時間が
ドラマの味を作っている部分がある。

続けて見られることはうれしいが、
一気にみると
連続ドラマがもつ独特な味を、
ひとつ味わい忘れてしまったようで、
ちょっとした欠落感がある。

ドラマというのは
スジがわかればいいというものではない。
連続ドラマというのは、
時間が作るドラマなんだなぁ
、と改めて思う。

 

さてさて、今日は、
「あまちゃん」の中で使われた
「あるひとこと」について取り上げてみたい。

小ネタや仕掛け満載の
宮藤官九郎さんの脚本は、
本筋以外でも大いに楽しませてくれた。
ドラマの中でも
「わかる人にわかればいい」
とまで言わせていたが、
そこまで開き直ってしまえば
もう怖いものなしだ。

今日の「あるひとこと」も、
まさにスジとは
全く関係のないセリフのなかにある。

まずは実際の「あまちゃん」のシーンから
ピックアップしよう。
2013年7月4日放送分。以下水色の部分だ。

高校生の主人公アキの親友ユイちゃんが
グレているという噂が
ネット上で話題になり始める。

栗原  「これが あの北鉄のユイちゃん ヤバくね?」だって。
大吉  ヤバイから騒いでんだよ! 削除できないの? コレ!
菅原  書き込みも多いよ。 ほら!
   「コンビニの前に座り込んで通りかかった中学生を恐喝・・・」
大吉  あ~あ!!
吉田  「夜中にバールのようなもので自動販売機をこじあけ・・・」
菅原  いや、これは嘘だべぇ~!
吉田  「バールのようなものでコンビニ店員を脅し・・・」
大吉  やめてけろ!
吉田  「バール」ではないですよ駅長、
   「・・・のようなもの」ですから。
栗原  「バールのようなもの」って、バールしかなくない?
吉田  あるだろう?! 孫の手とかよう!

吉田君の一言、
 「バール」ではないですよ駅長、
 「・・・のようなもの」ですから。

を聞くと、清水義範さんの短編小説
「バールのようなもの」を
思い出さずにはいられない。

清水義範 (著)
バールのようなもの

文春文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、薄茶部は本からの引用)

どんな小説なのか、その内容を簡単に紹介したい。

NHKの、顔なじみのアナウンサーが、
いつも通りのきっちりとした口調で、
事務的に次のようなニュースを
読みあげたのである。

「次です。品川区××のビルの
 一階にある宝石店が襲われ、
 宝石や現金など、六千万円相当が
 盗まれるという事件がありました」

六千万円とはかなりの被害額だなあ
と思って、私はニュースに注目した。
アナウンサーは、
被害発見のいきさつなどを語っていく。
その時、
その言葉がアナウンサーの口から
発せられたのだ。

「店には
 シャッターが降りていましたが、
 犯人はこれを
 バールのようなもので破って侵入した
 もようです」

最初私は、その言葉を
何気なくききのがすところであった。
別に、変だとは思わなかったのである。

ふうん、そういうもので
こじ開けたのか、と全面的に
納得さえしそうになった。
だが、その時ふと、
次のような疑問が
浮かびあがったのである。
それ、どういうものなんだろう。

「バールのようなもので
 破って侵入したもようです」
よく聞く言葉だ。

では、「バールのようなもの」とは
いったいどんなものなのだろう。

疑問がだんだんこうじてきた私は、
ついに国語辞典をひいて調べてみた。
ところが、バールのようなもの、は
どの辞典にものっていないのである。

「広辞苑」にも「大辞林」にも
「明解国語辞典」にも、
なんと「日本国語大辞典」にもない。

バールのようなものは、
日本語ではないというのであろうか。

私は、
時事用語辞典類にもあたってみた。
「知恵蔵」「現代用語の基礎知識」
「イミダス」「会社四季報」。
どこにも、バールのようなもの、は
出てこない。
平凡社の「世界大百科事典」にも
出ていないのだ。
バールのようなものは、
正しく教えてはいけない
言葉なのであろうか。

辞書にないので、人に聞いてみることにした。

私は、やむなく数人の友人、知人に
その言葉の意味を尋ねてみた。
ただし、私がそれを知らないのは
とんだ大恥なのかもしれないので、
無知をさらさないように、さりげなく、
ちょっと度忘れしただけだが、
という口調で尋ねたのである。

友人、知人の回答をまとめると以下の通り。

整理してみよう。
バールのようなものとは何か ① バールみたいなもの
  ② バールに似た形のもの
  ③ おそらくバール状のもの
誰も、バールのようなもの、の説明を
してはいないことがわかるであろう。
みんなは、「のような」という部分を
「みたいな」「似た形の」「状の」
という具合に
言い替えているだけなのである。


言い替えても、
そのものの説明にはならないのだ。

鉄あれい、が何なのかを知らない人に、
鉄のあれいだ、と言って
答になっているであろうか。

MS-DOSを、
マイクロソフト社が開発した、
ディスクドライブ用の
オペレーション・システムだ、
と言って説明になっているであろうか。
否である。

バールのようなものとは、
バールみたいなものである、と言っても
そのものの正体には
少しも迫っていないのである。

驚くべきことに、
どうやら私だけではなく、
多くの人がバールのようなものとは
何かについて、
正確な知識を持っていないらしい。

そして、
そのことを問題視するわけでもなく、
なんとなくわかったような
気になっているようなのだ。

そもそも「のようなもの」を考えると、
あるキーワードが浮かび上がる。

「のようなもの」は、
「類似の」という意味の言葉である。
もちろん私はそれを承知している。
だが、類似のものは、絶対に、
もとのものと同じではない。
似てはいるが、
完全に別のものだからこそ、
あえて、のようなもの、と
称するのである。


女と、女のようなやつ、
は同じではない。
ダニと、ダニのようなやつ、
も同じではない。


だから、
バールと、バールのようなもの、
は全く別物
であり、
バールを知っているからといって、
バールのようなものを
知っていることにはならないのである。

ほんとうに「全く別物」
と言っていいのだろうか。
落語家立川志の輔さんは、
この短編小説をもとに
創作落語「バールのようなもの」
を完成させた。

CDやDVDにはなっていないが、
アカウントがあれば
ニコニコ動画で音声だけ
聞くことができる。
(以下、薄緑色部は
 立川志の輔
 創作落語「バールのようなもの」

 からの引用・要約)


Photo_2


「バールのようなもの」を使ったという
泥棒のニュースを聞いた大工の八つぁんが、
「道具箱にバールがあるので」
泥棒と疑われるのじゃないか、
とご隠居に相談に来る。

落語なので文字で書くのは
ヤボというものだが、ご隠居は、

女のような、と言えば女じゃない。
ダニのような、と言えばダニじゃない。
肉のような、と言えば肉じゃない。
ハワイのような、と言えば
ハワイじゃない。
夢のような、と言えば夢じゃない。

だから
バールのような、と言えば
バールじゃない。

と言って、八つぁんを安心させる。
この件に関しては一安心と
家に帰る八つぁんだが、

実は八つぁん、
飲み屋にお気に入りの女性がいて、
一緒にいる現場を
奥さんにおさえられてしまう。

「妾だろ」と声を荒らげて
詰め寄る奥さんに、
言葉に困った八つぁんは
思わずこう言ってしまう。

「あれは妾じゃない。
 妾のようなものだ」


「女のような、ダニのような、
 肉のような、ハワイのような、
 夢のような」の例を挙げて、
「妾のような」と言えば
「妾」じゃない、と
説明しようとするのだが・・・

奥さんに殴られて、ご隠居のところに
逃げ戻った八つぁん。

ご隠居に

「世の中の言葉で妾だけは、
 『ような』を付けちゃいけないンだ」

「妾だけは『ような』をつけると
 意味を強めることになる」

と言われる。

落語を聞いた清水義範さん自身も
志の輔さんに言っている。
「よく思いつきますね」

あまちゃん、清水義範さん、志の輔さん、
「のようなもの」のたった一言だけで、
世界はどんどん広がっていく。


オマケ:

清水義範さんの著作
「バールのようなもの」には表題作のほか、
やはり短編だが「みどりの窓口」もある。

清水義範 (著)
バールのようなもの

文春文庫

志の輔さんはこの「みどりの窓口」
みごとな創作落語に仕立てており、
こちらの方はCDで聞くことができる。
(カップリングの「しじみ売り」も絶品)

志の輔
らくごのごらく(3)

ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル


なお、CDになっている
志の輔さんの創作落語では
「はんどたおる」
それらのさらに上を行く傑作だ。

志の輔
らくごのごらく(1)

ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル

(書名/タイトルまたは
 表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに)

 

 

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2013年11月10日 (日)

「やらなかったこと」が創り出すもの

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「やらなかったこと」が創り出すもの

- 記録できるものは何? -

 

先の秋の園遊会で、天皇陛下に直接手紙を手渡した参議院議員がいた、
ということに関連するニュースが、園遊会が終わって一週間以上も経つのに、
いまだに報じられている。

園遊会では、陛下は手紙をいったん受け取ったものの、すぐに侍従長に手渡したとのこと。

その後、侍従長はその手紙をどうしたのであろうか?

 

「侍従長」と聞くと、2007年まで侍従長をしていた渡辺允(わたなべまこと)さんが書いていた
「一期一会」という文章を思い出す。

今日はそれを紹介したい。

      以下水色部は、雑誌「東京人」の2003年(平成15年) 5月号からの引用。

 

陛下の古い思い出話から話は始まる。

 阪神淡路大震災の後、外国への親善訪問を取り止めておられた天皇陛下が、
平成9年になって、ブラジルを訪問されることになった。

その準備を進めるうちに、ある日、日程などについてのご説明をしていると、
陛下が、昭和53年にブラジルをお訪ねになった時のことを話し出された。
19年前のことである。

 

19年前の予定変更。

 陛下によれば、その時、サンパウロの郊外に住む日系人の農家を
お訪ねになる予定が組まれていたが、直前の行事が大幅に時間超過になってしまい、
しかも、その後に、大勢の人が集まる式典が控えていたため、
その人達を待たせるわけにもいかず、やむなく農家訪問を取り止められたという。

大変気の毒なことをして、今でも、そのことが心にかかっている。
確か、その農家は「タナベ」さんという家で、養鶏をしていたと思うが、
できれば今度、ブラジルで、
その人達に会いたいと思うので調べてみてほしいと言われる。

調査開始だ。

 そんな昔のことをこれほど詳しく覚えておられること、
未だに気にかけておられることに驚いて、早速、当時の記録を調べ始めた。

ところが、宮内庁や外務省には、
「何をなさったか」の記録はあるが、
「何をなさらなかったか」の記録がない。


結局、サンパウロの総領事館に問い合わせて、
全ては、陛下のおっしゃった通りであったことが判明した。

 

そして...

残念ながら、当時の「タナベ」さん夫妻は既に亡くなっていたが、
その子供達と連絡がつき、サンパウロで、両陛下にお会いいただくことができた。

 

この話、陛下の記憶力と気遣いにも驚くが、一番印象に残ったのは、

宮内庁や外務省には、
「何をなさったか」の記録はあるが、
「何をなさらなかったか」の記録がない。

の部分。

 

個人のクレジットカード利用の履歴をまとめて管理するサービスが
クラウドサービスのひとつとして米国で始まったころ、
利用者のひとりは、
買った本人でも覚えていないような購買履歴を、
 クラウドが覚えてくれているので、次回購入時の参考になるンです」
と言って喜んでいた。

いまや街中のいたるところにある監視カメラの録画映像は、
写っているのが犯罪者かどうかにかかわらず、
「そこにいた本人の記憶よりも正確に」人の動きをトレースできる。

Suicaのような交通カードを利用すれば、何時にどこの駅に入って、
何時にどこの駅を出たかも毎日記録されている。

まさに本人よりも詳しい本人の記録が、本人とは全く関係のないところに大量にある。

 

ただ、それらはいくら詳しくても「何をなさったか」の記録だ。
「やらなかったこと」は記録されていない。

ネットショッピングにおける買い物前の閲覧履歴も、
最終的には買わなかったとしても
「検索した」という意味では意識的に「やったこと」の一部だ。

では、「やったこと」が本人にとってすべてか、と言えばもちろんそんなことはない。

外部に記録は一切なくても、「やったこと」のうらには
本人だけが知っている「やらなかったこと」がいつでも貼り付いている。

しかもこの「やらなかったこと」は、
目には見えないけれど、あるものを創り出しているのだ。

それはあるときは「彩り」かもしれないし、またあるときは「後悔」かもしれない。
「活力」かもしれないし、「感性」かもしれない。

本人にとっての「やったこと」の本当の意味は、本当の価値は、
「やったこと」に貼り付いている「やらなかったこと」に支えられている気がする。

 

「やったこと」のデータがどんなに大量に蓄えられようとも、
コンピュータに記録できることは、ごくごく表面的な一部のことにすぎない。

 

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2013年11月 3日 (日)

Freezeと言う顔でPleaseが言えるか。

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Freezeと言う顔でPleaseが言えるか。

- 「目の前で、生きた人間が」とのコミュニケーション -

 

前回、野田秀樹さんの
「目の前で、生きた人間が汗を出し、声を出す姿は本当に強い」
という言葉を紹介した。

ちょうどハロウィンの季節。
「目の前で、生きた人間が」で思い出したことがある。

 

ずいぶん前の話になるが米国に留学していた日本の高校生が、
ハロウィンの夜、射殺されてしまうという痛ましい事件があった。

高校生は、ハロウィンパーティに行く家を間違えて訪問。
間違えられた家の人が侵入者と誤解。
「Freeze!(フリーズ:動くな!)」と言って入ってくることを制止しようとするが、
高校生は「パーティに来た」と説明して前進。
その直後、玄関先、至近距離から発砲されて、という経緯だったと記憶している。

 

当時、この事件については、銃規制や正当防衛についての日米の考え方の違いと同時に、
「Freeze!(フリーズ:動くな!)」を「Please(プリーズ:どうぞ)」と聞き間違えたのではないか、
という報道があちこちでなされていた。

マスコミ関係者は、その可能性もある、と本気で思ったのだろうか。
留学生の語学力やら聞き間違えやすい単語一覧やら、
報道がずいぶんヘンな方向に広がっていったのを
強い違和感とともに覚えている。

 

「Freeze!(フリーズ:動くな!)」を「Please(プリーズ:どうぞ)」と聞き間違える、
そんなことがあるだろうか。

前後の脈略もなく、単語だけを電話越しに聞いた、というなら場合によってはあるかもしれない。

でも、今は目の前で人がしゃべっているのだ。
「目の前で、生きた人間が」ある意味命がけで「Freeze!」と言っているのだ。
仮にFreezeの意味を知らなくたって、
それが少なくともPleaseの意味でないことは、絶対にわかるはずだ。
Freezeと言う顔でPleaseが言えるわけはない。

 

以前、ある会社の人からこんな話を聞いたことがある。
日本語ができない訪問客との英語での会議終了後のこと。
お互い、「良い会議をありがとう」と英語で挨拶をしながら朗らかに握手。

そんな中、そこの部長さんはニコニコしながら
「二度と来るなよ」
と日本語で言って握手をし、
同席する日本人たちの笑いをとる、というのを特技にしていたらしい。
もちろんジョークだ。

でも、その話をしてくれた方曰く
「実際にやってみるとわかるンですが、結構むつかしいンですよね。
 ニコニコしながら、「二度と来るなよ」って言うの。
 その瞬間だけ、どうしても笑顔が消えちゃうンです」

 

「目の前で、生きた人間が」とのコミュニケーションは「言葉」がすべてではない。
「Freeze!」が歓迎を意味していないことは英語の能力とは関係なく、絶対に伝わったと思う。

高校生も聞いた時は、おかしいと思っただろう。
ただ、自分が参加予定のパーティ会場だと信じている彼は、
「ハロウィンの夜のパーティのジョークだ、ドッキリだ」
のように頭のほうで勝手に正当化してしまったのではないだろうか。

だから、「パーティに来たんだよ」と言えば、ドッキリは通過できるはずだと。

よりによってハロウィンの夜だ。
普通なら異常と思われるようなことが、あちこちで演出されている。

 

もちろんすべて私の想像で、本当のところはわからない。
でも、
「目の前で、生きた人間が」発する言葉によるコミュニケーションは、
言語だけで交わされるわけではなく、
まさに全身からのメッセージとして成り立っているはずだ。

どれだけツールが発達しても、
「やっぱり会わなきゃだめだよね」
という言葉が何度も使われるのは、全身からのメッセージの力を
意識する、しないにかかわらず皆が感じているからだろう。

 

携帯電話やPCの普及で、
「目の前で、生きた人間が」とのコミュニケーションは、どんどん減ってきている。
(リアルタイムのチャットのごとく)LINEでいくら頻繁にやりとりをしても、
「汗を出し、声を出す姿」が持つ力の代替にはならない。

LINEでは、ほんとうの「Freeze!」を伝えることができないように。

 

オマケ1:
日本でも近年かなり広まってきたハロウィンだが、
一時期住んでいたアメリカ・カリフォルニアの
ハロウィンの様子をちょっとだけ添えておきたい。
まさに近所の家。98年の写真から。
(当時はまだデジカメを持っていなかったのでプリントからスキャンしてデータ化)

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個人の住宅でもここまでやる家があって、さすがに大人も集まって覗きこんでいた。

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オマケ2:
英単語の聞き間違いは、もちろん英語、日本語間だけの話ではない。
sinking(シンキング:沈没している!)と助けを求めているのに
thinking(シンキング:考えている)と勘違いされている、語学学校のCM動画。

ドイツ人の英語が比較的聞き取りやすいということと、
日本人と同じような間違いをする、ということは関係があるような気がする。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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