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2013年11月 3日 (日)

Freezeと言う顔でPleaseが言えるか。

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Freezeと言う顔でPleaseが言えるか。

- 「目の前で、生きた人間が」とのコミュニケーション -

 

前回、野田秀樹さんの
「目の前で、生きた人間が汗を出し、声を出す姿は本当に強い」
という言葉を紹介した。

ちょうどハロウィンの季節。
「目の前で、生きた人間が」で思い出したことがある。

 

ずいぶん前の話になるが米国に留学していた日本の高校生が、
ハロウィンの夜、射殺されてしまうという痛ましい事件があった。

高校生は、ハロウィンパーティに行く家を間違えて訪問。
間違えられた家の人が侵入者と誤解。
「Freeze!(フリーズ:動くな!)」と言って入ってくることを制止しようとするが、
高校生は「パーティに来た」と説明して前進。
その直後、玄関先、至近距離から発砲されて、という経緯だったと記憶している。

 

当時、この事件については、銃規制や正当防衛についての日米の考え方の違いと同時に、
「Freeze!(フリーズ:動くな!)」を「Please(プリーズ:どうぞ)」と聞き間違えたのではないか、
という報道があちこちでなされていた。

マスコミ関係者は、その可能性もある、と本気で思ったのだろうか。
留学生の語学力やら聞き間違えやすい単語一覧やら、
報道がずいぶんヘンな方向に広がっていったのを
強い違和感とともに覚えている。

 

「Freeze!(フリーズ:動くな!)」を「Please(プリーズ:どうぞ)」と聞き間違える、
そんなことがあるだろうか。

前後の脈略もなく、単語だけを電話越しに聞いた、というなら場合によってはあるかもしれない。

でも、今は目の前で人がしゃべっているのだ。
「目の前で、生きた人間が」ある意味命がけで「Freeze!」と言っているのだ。
仮にFreezeの意味を知らなくたって、
それが少なくともPleaseの意味でないことは、絶対にわかるはずだ。
Freezeと言う顔でPleaseが言えるわけはない。

 

以前、ある会社の人からこんな話を聞いたことがある。
日本語ができない訪問客との英語での会議終了後のこと。
お互い、「良い会議をありがとう」と英語で挨拶をしながら朗らかに握手。

そんな中、そこの部長さんはニコニコしながら
「二度と来るなよ」
と日本語で言って握手をし、
同席する日本人たちの笑いをとる、というのを特技にしていたらしい。
もちろんジョークだ。

でも、その話をしてくれた方曰く
「実際にやってみるとわかるンですが、結構むつかしいンですよね。
 ニコニコしながら、「二度と来るなよ」って言うの。
 その瞬間だけ、どうしても笑顔が消えちゃうンです」

 

「目の前で、生きた人間が」とのコミュニケーションは「言葉」がすべてではない。
「Freeze!」が歓迎を意味していないことは英語の能力とは関係なく、絶対に伝わったと思う。

高校生も聞いた時は、おかしいと思っただろう。
ただ、自分が参加予定のパーティ会場だと信じている彼は、
「ハロウィンの夜のパーティのジョークだ、ドッキリだ」
のように頭のほうで勝手に正当化してしまったのではないだろうか。

だから、「パーティに来たんだよ」と言えば、ドッキリは通過できるはずだと。

よりによってハロウィンの夜だ。
普通なら異常と思われるようなことが、あちこちで演出されている。

 

もちろんすべて私の想像で、本当のところはわからない。
でも、
「目の前で、生きた人間が」発する言葉によるコミュニケーションは、
言語だけで交わされるわけではなく、
まさに全身からのメッセージとして成り立っているはずだ。

どれだけツールが発達しても、
「やっぱり会わなきゃだめだよね」
という言葉が何度も使われるのは、全身からのメッセージの力を
意識する、しないにかかわらず皆が感じているからだろう。

 

携帯電話やPCの普及で、
「目の前で、生きた人間が」とのコミュニケーションは、どんどん減ってきている。
(リアルタイムのチャットのごとく)LINEでいくら頻繁にやりとりをしても、
「汗を出し、声を出す姿」が持つ力の代替にはならない。

LINEでは、ほんとうの「Freeze!」を伝えることができないように。

 

オマケ1:
日本でも近年かなり広まってきたハロウィンだが、
一時期住んでいたアメリカ・カリフォルニアの
ハロウィンの様子をちょっとだけ添えておきたい。
まさに近所の家。98年の写真から。
(当時はまだデジカメを持っていなかったのでプリントからスキャンしてデータ化)

_002s _001s

個人の住宅でもここまでやる家があって、さすがに大人も集まって覗きこんでいた。

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オマケ2:
英単語の聞き間違いは、もちろん英語、日本語間だけの話ではない。
sinking(シンキング:沈没している!)と助けを求めているのに
thinking(シンキング:考えている)と勘違いされている、語学学校のCM動画。

ドイツ人の英語が比較的聞き取りやすいということと、
日本人と同じような間違いをする、ということは関係があるような気がする。

 

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コメント

初めまして。
同じココログをやっているものです。
タイトルを見て、おそらくあの事件だろうなと思って実際に見たのですが、なるほど。
本文を見る限り、一時期アメリカにお住みになったことも関係あるのでしょうか、当たり前のことではありますが、なかなか深いところをついている考察だなと思います。
確かに、日本語で「止まれっ!」って真剣に言いつつ笑う、って意識したとしてもおかしくなりますね。
実際にやってしまいました(汗)

「Freeze!」をジョークと見た、という線はありそうです。
どこかで見たものですが、同じ日本人でもそれぞれメディアに対する印象は違っていて、私的なカジュアルな面では使用するものであったとしても公的な、お願いをする場面では人によってふさわしいと思うかは違ってくる、という趣旨です。
たとえば、推薦状みたいなものを偉い人に書いてもらうとして、電子メールで頼んだとしたら?という感じです。
大抵は怒られるでしょうが、一方でその偉い人は私的には便利さという点で使用しているかもしれないわけです。
意識のズレともいえますが、伝えたい中身は同じであっても、それを行う行為にこそ、本当の意味があって、それが適切でなかった場合、中身は消えてしまったも同然。
全然違うかもしれませんが、なんとなく、はまさんの「言葉」と実際に口にするという「全身からのメッセージ」の関係に似ているかなと思ったのです。

日本人同士でさえ難しいのに異国のケースだとどうなるかというのが、この事件ですよね。
相手に「銃を向ける」という行為を、アメリカ人がハロウィンとはいえ、ジョークでやるか?ということになりますが、日本人基準の思考のままで陽気な人がそのまま行ったら思いそうです。
ただ、アメリカの銃所持・携帯って単に西部劇の時代の私有財産を守るための武装という意味だけではなくて、自由を守るために全体主義に対抗するとか、常備軍に対する警戒っていうのもあって、かなり重い意味のあるものだと私は思っています。
政治哲学方面のはなしになるんですが。
実際に、最近も、亡くなった少年がルールを守らなかったとはいえ、副保安官にモデルガンの銃口を向けたら、射殺されていますし。
すくなくとも、その行為が軽いものじゃないということだけは間違いないと改めて感じましたね。

なるべく、その国の代表的な所作がいったいどのようなものかだけは知っておいたほうがいい、というのがこの事件から学べることかなと。
仮に知らなかったとしても、全身から来る直感のようなものには素直に従い、変な邪推はしないほうがいいともいえるかなと思いました。
長文、失礼しました。

どんなに通信手段が発達しても直接会って話をしたいと思う時があります。五感を持ってその人を感じたいと思うのです。

言葉は重要ですが、外国に行った時言葉が通じない時も多くあります。それこそ身振り手振り紙に書いたりしながら聞きたいこと知りたいことを情報収集します。 言葉は通じなくても少なくとも好意を持っているのか敵意を持っているのか、笑っているのか怒っているかは掴むことができます。

今や直に接しなくても相手は携帯の中でつながる世の中になってしまいました。その中で育つと相手の何気ない仕草から感情の動きを読み取れない人間になってしまうのではないかと心配します。

人としてのコミュニケーション力は「目の前の生きた人間」を相手にしないと育たないと思いますね。

イレギュラーさん、
丁寧なコメントをありがとうございます。まさに
>仮に知らなかったとしても、全身から来る直感のようなものには素直に従い
をもっともっと大事にすべきだと思っています。

そういうものを感じる感性みたいなものが、
軽んじられているというか、どんどん鈍くなっているというか。
それは単に危機感と言うだけでなく、同時に、
より豊かにたのしめる点を捉え損なっているとも言えると思うのです。
もちろんの自戒の意味も込めて、ですが。

omoromachiさん、
コメントをありがとうございます。
>五感を持ってその人を感じたいと思うのです。
お医者様にそう言っていただけるとほんとうに心強い。
患者が眼の前にいるのに、検査結果の画面しか見ないお医者様も一部には居ますから。

>人としてのコミュニケーション力は「目の前の生きた人間」を相手にしないと育たないと思いますね。
100%賛成します。
SNS上の友人の数を競うなんてまったく意味がない。

「生きた人間」との繋がりの中では、
自分では想像もできなかったような自分を発見したり、
想像もできなかったような相手の姿が見えてくることもある。
そういう関係の中で育まれるもののおもしろさを、すばらしさを
子どもたちにはもっともっと体験してもらいたい。

「既読」になったのに返信が来ない、
「既読」になっちゃったから返信しなきゃ、
そんなくだらないことを気にしながら、
ストレスに感じながら日々を過ごすなんて、本末転倒というか、
さみしいことです。

「リア充」なんて言葉があるだけまだ救いはあると思っていますが。

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